こんにちは。


世間はお盆休み。

平日でも、日曜のような静けさと、のんびりした空気が漂っているようです。


僕はというと、お仕事モードです。


今は新国立劇場のバレエ公演の準備中で、

その中に、B・マルティヌーというチェコの作曲家の交響曲第6番「交響的幻想曲」

というのが使われています。

これがまた凝った仕掛けの曲で、

始め全っ然、何処やってんのかわかんなかった~(-▽-;)


理解が深まってくると、これがなんとも素晴らしい曲なんです。

大戦前後の作曲家特有の、互いに影響しあう色んなテイストが入っていて、

色彩感がとても鮮やか。

ドビュッシー、ラベル、ストラヴィンスキー、レスピーギ、ヤナーチェク…

全部入っているみたい。


同時に時代背景から、死・戦争・弾圧への恐怖、狂気、これらが幻想的に描かれていて、

戦争で凄惨な地獄を見たであろうことを想像させます。




チベット仏教では、死は終わりではなく、古くなった衣服(肉体)を脱ぎ捨てるようなものだ

と説いています。


魂からきている、意識・感情・思考は、肉体の制約を受けない。


だから、この説にはとても真実味を感じる。

とはいえ、ほとんどの人が、死んだらどうなるのか

ということは知らない。

知っているつもりになっているだけ、といっても良い。


だからこそ、畏怖の念とともに、死に興味をもつのでしょう。


なんでもそうだけど、よく解らないものを人は想像を膨らませて語りたがる。

その中にどれだけ否定的な、または肯定的な感情が乗っているかで、

その妄想はかなり変わる。


前者なら悪魔、後者なら神…のように。


人格向上の、精神の道は、死の間際でも歩めるんです。


その実践は、


今の自分とはなにか


これを観察することだから。


死の間際でも、その今の痛みや身体の感覚、不自由であること、

こんな観察ができる。


そして、これまで生きてきたけれど、

すべては自分から離れていくことを理解する。

そこに、「無常」だったり、「無我」を感じる。


「生はむなしいことであり、苦しみであった」

ことを悟る。


こうして死の間際でも悟ることは、充分出来るのかもしれない。



今日もありがとう。







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