今日9月19日は明治の俳人,正岡子規の命日です。

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」などみなさんもご存じかと思います。

彼は脊椎が結核菌に侵される脊椎カリエスという病で苦しみながら

亡くなりました。

「糸瓜(へちま)咲いて 痰のつまりし 仏かな」など糸瓜を詠みこんだ3句を

最後に残したことから今日を「糸瓜忌」とも呼びます。

 

子規は夏目漱石と親友で,同い年の2人は互いに切磋琢磨しながら

文学の道を歩みました。

明るく野球好きでお山の大将気質の子規と,無口で人付き合いが苦手だった

漱石ですが,なぜかうまが合ったようです。

それだけでなく互いの才能と資質を見抜き,認め合い,

時に厳しい批評もしあったようで,たとえば「文体」にこだわる子規に対して

漱石は「思想がなく形式だけにこだわった章句は意味がない」と断じています。

一方で漱石は俳句については子規を師と仰ぎ弟子入りしました。

こうした二人の交流が日本の文学における写実主義を推し進めることと

なりました。

 

また二人は互いの内面も吐露し合う仲で,漱石は子規に自身の自殺願望を

打ち明けたり,子規は病んで打ちひしがれ自暴自棄になりかけている心境を

隠すことなく漱石への手紙に書いたりしています。

 

子規は34歳で病のために亡くなります。
漱石は留学先のロンドンにいて,2か月後の11月に高浜虚子からの手紙で
その死を知らされました。翌12月に漱石は帰国し,明けて2月に
初めて子規の墓参りをしました。
その時の様子を漱石は,「われこの棒杭(子規の墓標)を周ること三度,
花をも捧げず水も手向けず,只この棒杭を周ること三度にして去れり」
と記しています。
 
この二人のような,互いを認め合い,遠慮なく批評し合い,
本心を打ち明けられるような友達を持つことは実はなかなか難しい
のではないでしょうか。
 
写真は亡くなる2年前,病床の子規が熊本の中学校に赴任していた漱石に贈った
作品(絵も子規)です。