『土佐国風土記』 5 土佐神社の神は高鴨神と一言主神         川崎一水 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

『土佐国風土記』 5 土佐神社の神は高鴨神と一言主神         川崎一水

 『土佐国風土記』  土佐神社の神           川崎一水

 

 土佐国の一宮である土佐神社は志那禰様という。志那に禰を持つという意味である。これは秦氏のことを言うのかもしれないが、秦氏が渡来したのは紀元後三世紀であり、この神社が祀る神はもっと古い。

 

 土佐神社の神は高鴨神とも一言主神ともいわれる。高鴨神はアジスキタカヒコネ命であるから神武天皇の時代の神である。一言主神は葛城一言主であり、雄略天皇と“瓜二つ”であったとされる。雄略天皇が鷹狩りに出かけたときに出会い、天皇の方が馬を降りたという話がある。雄略天皇の時代と考えれば四世紀になるが、実際にはもっと古い神である。

 

 高鴨神は賀茂氏の祖神であり、奈良の御所市の高鴨神社に祀られる。アジスキタカヒコネ命であり、京都の下鴨神社である賀茂御祖神社にも祀られる。タケツノミとも呼ばれる。

 

 高鴨神社は加茂社の総本宮であり、鴨族発祥の地であり、弥生中期より祭祀を行っているとある。高鴨神社ではアジスキタカヒコネ命(迦毛之大御神)とあり、京都の上賀茂神社にも祀られる迦毛之大御神としている。迦毛之大御神は賀茂別雷命である。

 

 そうであるならば、賀茂別雷命は“賀茂氏から分かれた賀茂別”ではなく、“別かれた賀茂氏”であるということになる。何から分かれたのかは明らかで、天皇家から分かれたのである。護王神社に祀られる和気清麻呂は垂仁天皇の皇子であった沼帯別命を祖とする“和気”であった。賀茂氏は別雷命を祖とする“別”であったことになる。別雷命は誰の皇子だったのか?

 

 アジスキタカヒコはアメノワカヒコと双子であったといわれる。大国主が宗像の奥津宮のタギリヒメを娶って生んだ子がアジスキタカヒコとタカヒメ(シタテルヒメ)あり、彼らは国津神である。アメノワカヒコは天孫族天津神である。にもかかわらずアメノワカヒコとアジスキタカヒコが似ていたのは、天皇家の皇子として生まれた双子の片方を賀茂氏に養子に出したからであるといわれる。そして、アジスキタカヒコは賀茂族の長として天孫族アメノワカヒコを支えたという。そのためアジスキタカヒコは迦毛之大御神を呼ばれる。“大御神”と呼ばれるのは天照大御神との二神のみといわれる。

 

 古事記のなかでは、大国主の娘シタテルヒメと結ばれたアメノワカヒコは高天原に八年帰らず、天照大御神と高御産巣日神の意向に逆らってしまった。そのため天原から雉のナキメが派遣された。しかし、アメノワカヒコはその雉のナキメを天羽羽矢で射たのであった。そのナキメを射た矢は高天原まで届き、高御産巣日神によって言あげしてから射返された。そしてアメノワカヒコはその矢で亡くなってしまったということになっている。

 

 ところが実際にはこのときアメノワカヒコは死んではいないといわれる。そのためアジスキタカヒコはアメノワカヒコの葬儀の喪屋を壊したのであった。実在の人としての天照大御神は女性ではない。三輪の大神である天照国照彦天火明櫛魂ニギハヤヒである。そのため古事記には神武天皇とニギハヤヒとナガスネヒコとのやり取りがその象徴として記述されている。八咫烏であるアジスキタカヒコが神武天皇を助けたと。そして古事記のなかのニギハヤヒとナガスネヒコは亡くなる。

 

 つまり、迦毛大御神であるアジスキタカヒコが天照大御神としての神武天皇を助けたのである。そしてアメノワカヒコは亡くなる。しかし、実際のニギハヤヒはアマテラスであり、ナガスネヒコは大彦である。ニギハヤヒとアメノワカヒコが入れ替わっており、大彦は崇神天皇の時代の人である。古事記は稗田阿礼の名を借りた藤原史による創作であるといわれる。