【アテラ】 2 殷と秦と日本(倭)  殷周革命と徐福伝説                川崎一水 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

【アテラ】 2 殷と秦と日本(倭)  殷周革命と徐福伝説                川崎一水

 「アテラ」2 殷と秦と日本               川崎一水

 

 

 中国と日本

 

 中国最古の王朝は夏とも殷ともいわれるが、「中原に鹿を追う」という言葉にもある中国の中心 -中原- には殷の都があった。今は殷墟とよばれ河南省安陽市にある。隣の新郷市は紀元前1046年に殷の紂王と周の武王が戦った「牧野の戦い」があった地といわれる。「殷周易姓革命」といわれるが、中国では「商亡周興」ともいうらしい。河南省には関羽の墓や諸葛亮ゆかりの地もある。

 

 殷は「商」ともいう。殷の人は「商人」と呼ばれた。『封神演義』に描かれた太公望(姜子牙・姜尚)と女媧と蘇妲己との物語はこの時代を描いている。日本の漫画の封神演義には別の登場人物もいる。


 殷王朝の滅亡は紂王が周の武王に滅ぼされた紀元前1046年とされる。殷は本来都城の名前であり甲骨文では「商」と自称している。今の日本でいう“商人”と同じで、後に西洋からシルクロードと呼ばれたように東西交通の起点となる地をおさえ、通商を行っていたといわれる。

 

 封神演義にも描かれる女媧と伏羲は足がなく蛇のように描かれ、それぞれの手にはカギ尺とコンパスを持つ。20世紀初めにシルクロードを探検した本願寺の橘瑞超もその壁画を発掘している。後に契丹が中国北部を治める時代が来るが、契丹の古伝には「殷は古の倭なり」という記述があるといわれ、日本のルーツにもかかわっている可能性があるともいわれる。カギ尺とコンパスはフリーメーソンのトレードマークでもあり、フリーメーソンは正式には"経済人会議”というらしいので、"商人”というのも日本的ではある。

 

 周は「礼」を規範とした。中原諸国は「礼」を共有し、「諸夏」と称したという。この時代に禹を夏王朝の開祖とする「中原の夏」、いわゆる「中華」の思想がこのころ出来たといわれる。

 

 その後は“キングダム”でも描かれた秦の時代には強力な中央集権体制が確立された。紀元前247年に即位した秦王嬴政は紀元前238年に親政を開始した。その翌年に斉と趙の王が秦に来朝したが、他国を臣従させることはできないと悟り、武力統一の道に進んでいくことになったといわれる。秦による武力による中国全土の統一がこの嬴政によりなされた。紀元前221年に天下統一を果たした秦王政は、命を「制」、令を「詔」、天子の自称を「朕」とし、諡法を廃止し、死後は「始皇帝」と呼ぶことにするよう定めた。

 

 秦は「制」と「詔」による法治政治を目指し、始皇帝による中央集権体制がとられた。また、車軸を同じ長さに統一し、文字も同じくし、度量衡や貨幣も統一した。帝国各地を巡行するために、北は燕、東は斉、南は呉・楚に至る皇帝専用の幅50歩の馳道を建設させた。また匈奴を攻め、華南から華北の地も獲得し、元あった長城を整備し4000㎞にも及ぶ「万里の長城」を整備した。

 

 秦王嬴政に対して「東方の三神山に長生不老の霊薬」を手に入れるために支援を願い出た徐福(徐芾)は斉の琅邪の方士であった。三神山とは渤海の東にある「蓬莱・方丈・瀛州」のことで、日本を瀛州と呼んだらしい。そして紀元前219年には少数で、210年には数千人の大船団で出港したといわれる。そして一説には彼らは日本の有明海浮杯にたどり着いたといわれる。徐福は斉の人であり、始皇帝嬴政の子孫ではないが、徐福の話を聞き入れたのはなにかの血族的かかわりがあったのではないかとの憶測もある。応神天皇の時代に渡来した秦氏よりももっと以前に、日本列島に渡来した者たちは多かったのである。出雲族ははるか以前にインドから、徐福らは秦の時代に、呉の人たちは三国志の時代に。

 

 

 最近、DNA解析により古代人は弥生人と縄文人の二系統だけではなく、もう一つの出雲東北を加えた三系統に分かれるという新説が報告されたといわれる。科学が伝承に追い付いてきたようである。