苦しみは、まだ続いています。
なにかの拍子に、ブワーと、不安とか、怒りとか、焦りとかが、
「毎度! こんちわ!」
と、出てきやがる。
なにか決定的にムカつくことがあったわけじゃないんです。
むしろいまぼくは、人生的にはたぶんここ数年で、いちばん安定しています。
ある意味、すこし「ほっとした」ところがあります。
ほっとしたから、ゆるんだのだと思います。
加えて、ぼくは最近毎朝ヨガを再開し、食事量を減らし、酒は完全にとめた。
いままでぼくの表面的な意識が、柔道の「縦四方固め」ばりにガッチリ抑え込んでいたものが、タガがゆるんで浮き出てきているのかもしれません。
そういえば、ぼくがパニック発作を発症したのは、結婚して子供が生まれてマイホームも買おうか、というときでした。
「ああ、やっとここまで来た。」
そんな認識が、こころをゆるませて、いままでため込んで圧縮していたルサンチマンを、解放してしまったのだと思います。
発症する前までみたいに、いろんな心的葛藤を「緊張感」で封じ込め続けたほうが、よかったのかな?
ときに、そう思うことがあります。
でも、どうでしょうか。
一生緊張感でじぶん自身をコントロールし続けて、結局、いったい、なにが得られるだろう。
お金や、名誉や、安心や、健康や、人間関係や、配偶者や、衣食住を得るために、はたしてほんとうに、そこまでしなくてはいけないんでしょうか。
じぶん自身を縛りあげてまで得たいものが、そんなチンケなものだったか。
そういう疑問もあります。
もしかすると、ぼくはお酒のみだったから、禁断症状なのかもしれません。
もしそうだとして、お酒が切れたことでこういう気分が表面化するということは、結局のところ、怒りや不安や焦りというものを、「酒」という重しで押さえつけていたのだと思います。
お酒というものは、麻痺はさせてくれるけど、問題の解決はしてくれません。
トリガーが「安心をしたから」にせよ「ヨガを再開したから」にせよ「お酒が切れたから」にせよ、本質的なメカニズムは、まったくおなじだと思いました。
ずっと不平不満や心の葛藤を抑え込んでいて、それが解放された。
出てきたこの感情は、だれのものでもない、ぼくのもの。
これらの感情が起こった理由はさまざまだけど、間違いなくぼくが持ち越してきたもの。
かつて、ぼくに入ってきた情報をぼくが解釈・加工し、それをぼくが認識し、それに対する反射行動を、ぼくが押さえつけたもの。
いま出ている悪態が解消されたら、それ以降は、ぼくはただしく生きていこうと決めた。
空気を読んだり、演技をしたりすることが、ただしいことではない。
ただしい生き方というのは、じぶんにウソをつかないことだと思います。
いやなものは、いや。
きらいなものは、きらい。
それで、いいんだ。
そして、いやなこと、きらいなことに直面して逃げられないときは「がまんする」とか「忘れてしまう」のではなくて、「本質的に解消・解決する方向へむかう」ということが、ただしい生き方なんだと思います。
ガマンとお酒は、まったく同質。
お酒やガマンで消えたように見える感情は、こころの奥底に冷凍保存されているだけ。
それらはいずれ、春がきたときに解凍されて息を吹き返し、あばれだす。
それも、ぜんぶいっぺんに、無目的的にあばれだす。