「ヨタロウ会」ブログ読者の皆様へ


小中陽太郎氏の最近の書評掲載とお亡くなりなった、いいだもも氏への追悼文を転載いたします。とても興味深い内容です。ぜひともお読みになってくださいませ。



                         〔書評〕

橋爪大三郎+大澤真幸『ふしぎなキリスト教―日本人の神様とGODは何が違うか?』(講談社現代新書)
              (『本のひろば』9月号掲載)


 著者のおふたりは「自分で読み直して笑った」とあるが、どうしてどうして骨っぽい本である。大澤が聞き手で、橋爪が答えるという形式だが、それは橋爪がキリスト者であるだけで、ときにふたりの立場は逆転する。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を一神教という縦軸でとらえる。問題意識は、いつにかかって一神教とは何か、さらに近代とは何であるか? 返す刀で日本はなぜこんなにプリミティブな多神教のままなのか、それは「異民族があまりいなくて、自然の背後にいるさまざまな神を拝んでいればすむから」というわけで、真理を求めて冒涜をおそれず、宗教を理性的に論じている。
 そこで以下、評者も冒涜を恐れず。
 ふたりは、紛うことなきマックス・ウエーバー学派であり、ユダヤ教については、ウエーバーの「古代ユダヤ教」を下敷きとし、キリスト教は丸山眞男で補強している。ユダヤ教には「原罪」の意識はないそうだ。大胆な例を示せば、橋爪は「イスラエルの民はいじめられっ子の心理がある、ひとりっ子だ」とも。ニーチェみたいだ。「ヨブ記」を通してユダヤ教の根本は「試練」と総括する。
 ところで、もし神が存在するなら、そのうえなぜ預言者がいるのか? ここで卓抜な比喩――もし神が全能なら「天に大きな拡声器をつけて、みなさん、わたしのいうことをききなさい」と放送すればいい。しかし、神は預言者を通してしか語らないのである。イスラム教についてここでふれる余裕と力量はわたしにはないが、評者はパレスチナの詩人ダルウイーシュの深い聖書理解に驚いたことがある(『壁に描く』書肆山田)。「三者をつなぐのは……ほとんど同一性双子である。偶像崇拝の禁止であるが、ユダヤ教には原罪の観念はない。その中でキリスト教が近代世界を制したのは、法律を守る自由があったから」という。
 「神の者は神に、カイゼルの者ものカイゼルに」ということなのであろうか。
 おふたりは、つづいてイエスの譬え話の不可解さを突く(放蕩息子の帰宅など)。なかでも理屈に合わないと指摘するのは、イエスがせっかく話をしているのに、姉はおさんどん、妹は足許で聞き惚れるマルタとマリア(母マリアではない)の話」である。ふたりはマリアが美女だったからだろうと、のんきなことを言っておられる。ちがう。
 評者も参戦させていただくと、ここは男女の性差を表わしているのであります。男性、とくに大学の先生は皿なんか洗わない。もっと大事なことがあるからだ。たとえば、この書評を書くことである、とまあ、私は妻に言う。イエスは皿を洗う女性にもそうしなさいと励ましたのである。以上、「もしドラ」ならぬ「もし上野千鶴子が聖書を読んだら」でした。
 さて、肝心要のキリストである。ここでの不思議は、1に「復活」、2に処女懐胎、3に「三位一体」である。橋爪は三位一体をマトリョーシカ(ロシアの入れ子人形)で説明する。そして、「これは解離性同一性障害」ではないかと言ってのける。何たる大胆さ!
 しかし、聖霊については「パウロの書簡を神の言葉(聖書)にするためである」と解釈するのである。
 ところで、本書と同時期に上梓された門脇佳吉(能や道元に詳しいカトリックの神父)によると「パウロは手紙を書くときに聖霊に教えられた言葉で語り」とある。ふたりの解釈と真逆である。パウロは神の拡声器? さあ、どちらだ。
 これを書きつつ、被災したアジア学院に農業を研修中のミャンマー人の牧師の説教を聞く機会があった。ミャンマーの貧困を紹介したあと、かれは『使徒言行録』のパウロについて語った。夢枕にマケドニア人が立って「come and help us」といった箇所である。評者もマケドニア(ユーゴの)に行ったが、なにもなくて湖で魚を焼いて食べた。さて、このときの有名なパウロの幻は、人間マケドニア人の言葉だが、パウロは、イエスにマケドニア宣教を召されたと信じた。神が語ったのでもなければ、かれが神になったのでもない。人間である。すなわち「聖霊は人による行動の呼びかけである」というのがベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の神学である。
 さて、ヤマはこれからだ。
 おふたりは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にたどりつき、カルヴァンの予定調和がなぜ勤勉を生んだかを説く。ここでの疑問――。
 「自分たちが学期初めに成績は決めてある、と言ったら、学生は勉強しないでなまけるだろう、プロテスタントはなぜ働くのか」
 答え「勤勉なことは神の恩寵のあらわれです」
 この回答で橋爪は、まぎれもなくウエーバリアンとなる。さらに大澤も「ここから神学や哲学や科学やジャーナリズムが生まれた」という。しかし、西欧的近代沈没の秋、「ノイラートの船」(会場で応急処理をする)か、「ノアの箱船」か、地球号あやうし。


                     追悼「いいだ、ここがロドスだ」
             (『映画芸術』2011Summer掲載)


 埴谷雄高は、いいだももの『斥候よ、夜はなお長きや』(1961年)発表直後、この長大な長編をすばやく読破し、まったく的確にこう評した。
 「よく調べられているその(登場人物の)意見が広く調べられたが故にとめどなくのべられているという段階を超えて、内発するところの一種のとめどない饒舌にまで発達する事態がこのような作者に起これば、全く新しい大きさを持った作品を吾国の文学にも期待し得るようになるのであろう」(『日本読書新聞』1961年9月4日)
 わたしは、「斥候よ」を奉職する芦別の廃校にある研究室に寄贈したため、日比谷中央図書館の蔵書印のあるものを世田谷・尾山台の区民図書館(館外帯出禁止)に来て手にすると、開巻劈頭、老人党党首として最期を全うした豊頬、オールバックの白皙の青年像が飛び込んできた。それに、ここから歩いて数分のところに居住する安岡章太郎が「跋」を書いているのが懐かしい。
 さて本書は、周知のようにゾルゲ事件をモデルにしてその周囲の人物の心象風景を描いているとされるが、いま読むとゾルゲや尾崎そのものを描くというより、ほぼ語り手であるところの「白線帽で、乳房コンプレックス」の番場健二の展開する「悪霊論」「魯迅論」といったほうが実情に近い。それより、銀座にあったというドイツ・バー「ラインゴールド」に去来する人物は影絵のように美しいといおうか。
 1932年のベルリンのホテルを舞台に、失意のバレリーナ、グレタ・ガルボと宝石泥棒の男爵(ジョン・バリモア)ら5人の男女のたった1日を描いた「グランドホテル」は、のち「グランドホテル形式」という映画用語の語源となった名作だが、「斥候よ」は、その構成において、また主人公が止めどなく語ることにおいて、その影響下にある、というのが私見である。
 ことのついでにコラム作者として言わせてもらえば、ヘルツェンが送ったとかいう「ツアーの族をも掃滅し」とか、「一人娘とやるときにゃ……」の春歌まで、さながら昭和学生愛唱歌集である。これは作中、番場の友人の令嬢たちが、きらいなものを列挙する遊びで「キング(講談社)美談集」と書く教養と一致する。
 この韜晦癖は、このあと小田実に勧められて読んだ『モダン日本の原思想』(1963年)において顕著である。いま、遠く芦別の書庫から飛んできた水色の表紙を繰り、常総同盟布川支部からの手紙「原点はどこに存在するか」を繰ると、横瀬夜雨の詩が出てくる。

  お才あれ見よ
  越後の雁が
  とんできたにとまただまされて

 そして、この雁は実は谷川雁である。

  おれたちの水素は/母の血にかけてきのこ雲とはなさぬ  (なんたる先見の明!)
  片輪者よ みなしごよ 売笑婦よ/おれたちはそのためにうまれた/そのために死ぬ  のだ                              (谷川雁)

 これにたいして、いいだは断固「労働者よ、農民よ」とよびかけるのが正しいというのだ。いまのフクシマをみると、それがないことに気づく。
 つぎは同時代としてのいいだもも――。
 1965年8月14日、べ平連の徹夜ティーチイン第2部の冒頭、司会の無着成恭が「天皇の命令でまた戦争するか、自由に語りあいましょう」といった途端に弁士中止。翌朝そろって抗議に行ったわたしたちに、編成課長ばばこういちは「でも放送の司会者として、あの放送は公平さを欠く」といったときである。いいだが書いている。
 「元NHKの小中さんは間髪を入れず、でも無着さんは放送局のアナウンサーではない、フリーの出演者だといったのです」。NHKにいたことで、ほめられただ一つの例だ。ばばはそののち辞表を出してフリーになった。
 いいだは、戦後の共産党から最晩年の老人党に至るまで、徹底した党マニアとされているが、わたしはそれを疑っている。
 べ平連最大の危機は、1969年に小田が『文芸』に発表した「冷え物」が差別小説だとして突然、批判されたときといわれている。関西から学生がやってきて批判し、べ平連内部の青年たちが真剣に悩んだ。これが時期的に、いいだももたちが共労党を結成したころとあって、べ平連フラクが造反したといわれるが、かれらはむしろ何とかこの問題を自分たちの問題としようとしたのだ。わたしは、当時『現代の眼』で小説「ふぁっく」を連載中で、そこでこれを取り上げ、鶴見俊輔から「小説によって運動の硬直化を救った希有な作品」とほめられたんだか、ひやかされたのかわからない評を得た。
 わたしとしては、来日したジェーン・フォンダの講演で、京都べ平連がイラスト入りガリ版のチラシで「ジェーンのハダカは平和のシンボル」と書いた。それに対し、フォンダが「ハダカで平和はこない」とかみつき、ときならぬ徹夜討論会となったことがテーマだった、タイトルの「ふぁっく」は朝日が広告拒否した意味とは違って、ジェーンの「ファック・ジ・アーミー」からとったのに。
 わたしは、フォンダのジーンズの脚をみながら、どうしてもバーバレラのプラスティックからこぼれ落ちた乳房を思わずにはいられなかった。納得できないのは、そのあとジェーンはいいだももを凌ぐ浩瀚な自伝を書いたが(2006年)、上下巻併せて千頁を越える自伝のどこを探しても、べ平連の徹夜討論も、横浜の軍港で中村敦夫や戸井十月が右翼の水兵に向かって体をはってジェーンを守った話も出てきやしない、その代わり夫テッド・ターナーの浮気ばかり(ぼくはのち彼とあった)。ハダカで平和が来るか来ないか、わたしにはわからない。でも、すくなくともジェーンのハダカでは平和はこないさ。
 「ファック」はジェーンが帰ればそれで終わりだが、「冷え者」のほうは幾晩も議論した。それが巷間、共労党のフラク活動だ、とされた。火付け役の座付き作者として、彼らの名誉のために言っておくが、いいだも武藤一羊も栗原幸夫もけっして、べ平連を壊す気持ちも手段もなかった。あったとしたら笠井潔たちだろうが、かれらは文学的すぎた。いいだにそれだけの力はなかったということは、いいだの名誉か不名誉かわからない。すくなくとも彼らはべ平連を愛し、その力を実感し、それを守ろうとしていた。そうでなければ1973年に、ベトナム協定仮調印がおこなわれ、べ平連解散論がうまれたとき、かれらがあんなに熱心に存続を主張するはずはない。やめよう、と言ったのは京都の鶴見俊輔であり、わたしだった。
 鶴見俊輔は、運動の惰性化をおそれ、わたしはベトナム戦争は終わるのだから、反対もやめようと言ったのだ。武藤が激しい口調で難詰した。「そんなにやめたければ自分だけやめろ」。ああ、どうしてそうしなかったのだろう。それは、わたしが、いいだや武藤を、小田と同じくらい好きだったからなのに。当時は吉川勇一だって……。一瞬おそかった。
 いいだももが死んだとき、玲子夫人は、50年代にいいだが書いた一篇の詩をそっと棺におさめた。

  ゆうぐれ――野のはてでまばたきするのは……
  白い吐息のように走り去るのは……だれ?
  遠いお母さんのすみれ色? 夕咲きのフローラ?
  それとも――おきわすれられた黙りがちのかれ?

 もう、いいだももを饒舌だなぞとはいわせないぞ。寡黙ともいわないけれど。
 本稿執筆時、べ平連の当時の若者の出版記念会があった。黒川創に「いいだのことを書く、まいった」と言ったら、目顔で「あそこに孫がいる」と教えてくれた。仰天して飛んでいって、小柄な寡黙な青年に聞いた。
 「おじいさんて、どんなひと?」
 孫は、ゆかいな話を教えてくれた。
 「いつもおばあさんに怒られていました」
 「それはまたどうして」
 その答え。
 「いつも、食事の時間になってもテーブルの上にゲラを広げて赤を入れていたから」
 そうだ、マルクスなら、こう励ましたろう。
「いいだ、ここがロドスだ、ここで書け!」
(2011年6月、偲ぶ会の日に)