理屈はもうええねん。
 夫によく言われる。
 日常会話につっこみやアドバイスはいらんとわかっていても、つい、解決を求められているのかと自分の答えをいってしまう。



 自分の答えじゃないんだよ。
 夫も自分の話に持っていくことが多々あるが、その時、
 あんたの話は聞いてない。今の話は私のことや。
て、いつも思うのにね。気づいてなかった。
 聞きたかないんだ、答えなんて。
 一般論や貴方の話は要らないんだ。
 私の、このザワザワを落ち着かせたいだけ。
 自分の歩く道の、足元を少し照らして欲しいだけ。

 息子が、大学病院で診察を初めて受けた時、色々検査して、I先生は言った。
「お母さん、これ治せますよ。」
 それ、一番、聞きたかった。
「もっと進んでからきてる人も割といます。」
 この子は、間に合ったんだ。



 受診前、外に息子を連れ出すたび、顔が白いね、と言われ傷ついていた。
 言ってる人に悪意はない。
 でも、息子が生存率4割に入れる理由を探している自分からすれば、それを聞くたび、死ぬ方の6割に引き摺り込まれる気がして嫌だった。
 お尻の傷が治らず、夜も排泄のたび痛みで泣く息子。家族から、そんなにオムツ変えないかんのか?と言われ、誰もこの苦しみを分かってくれないと気持ち的に孤立していっていた。



 実際は、治る、とか治す、とか言う病気ではなかったのだけれど、I先生は、今私たちに必要な言葉を、かけてくださったのだと思う。
 
 入院してからも、I先生の言葉は、いつもジャストミートだった。
 淡々と理屈、なようで、そうじゃない。
 具体的な例であることも、ざっくりした見解もあった。
 ただ、その言葉は、常に私の息子の話。私たち家族へ向けられていた。

 息子くんは〜で〇〇だったから、この方法で進めます。

 順調に増えていってます。
 
 今の息子のこの状態、このデータ、この結果は、これで良いのかアカンのか?

 それが私の不安の正体。

 他の医師に、ことこまかーく、このデータこうでああで、これが前ので、明日検査、て言われても分からんところに、I先生は、一言でスパーンと私に届く言葉をくれた。



 理屈はもうええねん。
 他人の理屈で自分の不安は消えないから。
 
 役立つ方法とか置いといて、とりあえず黙って聞く。
 解決するのはその人。

 書いてて、案外自分てガマン効かんのな、と思った。