今日は久しぶりにレコーディング(今回はトラック(音)をPCに落として、その後声(歌)をいれるという作業をした)をした。一年ほど前はCDリリースのために一週間の内総時間を日数に換算すると、3日はスタジオにいることがざらで、深夜のタバコが嫌いになる{喫煙者にしかわからないイメージですみません/(_ _)\)}というイメージがリンクしたような印象をレコーディング作業に持ってしまう程であった。笑。
しかし、今日家を出る前、夏の終わりにさしかかった時期夕方からあるお祭りの前に入浴しその後、少し秋寒い爽快な風を浴びながら家を出る時のような、子供のころに味わった心情をこの冬寒い夜に、私は胸にいだいた。それは、レコーディングが久しぶりという理由だけでなく、現在の私の環境の変化ということも、大きく影響していることに相違ないことは否定しようの無い事実であると解っていた。機材を車に積み込み、忘れ物が無いことを確認した後、車を走らせた。私は先ほど感じた心情に拍車を掛けたいと思い、NasのStillmaticというアルバムに入っている一曲目のStillmaticをかけた。車の音量が17,8を越えるとブーストし、Hiの音域しか、のびないを知りながらもボリュームをあげた・・・・。
友人宅に着いた。今日はDjの友人宅でのレコーディング作業であったためである。レコーディング作業は2時間ほどで終了した。しかし私は、ぼんやりとした不安に包まれていた。レコーディング作業は音楽のできという方向性で、神経が敏感になるのは私に限った話では無いことは様々な知人を通して知っているが、この時それは原因とはいえなかった。むしろその曲に対する、出来の理想イメージがおおきくその想い(秋刀魚のブルーベリーガムの話し参照笑)をクオリティーとして表現するレベルに到達するために、最大限力を発揮仕切れないでいる、自分へという方向性で、夢(睡眠中の)の中で何かに追いかけられているのに早く走れないでいるもどかしさに、少し似たものであった。
その後、大学の友人とたまたま遭遇し、3人で地元のDELTAというアメリカンスタイルのダイニングバーに行った。ジャークチキンが美味しいという友人の進めに従って(その店は初めてだったので)、それはあまり好きではなかったが注文した。DELTAのジャークチキンは美味しかった。その影響も少しはあるかもしれないが、この時には既に先ほど感じたぼんやりした不安は無く、久しぶりに会った大学の友人との話しに興じた。
その後2人と別れ帰路につくため、車に乗り込んだ。私は、先ほどレコーディングした曲を確かめたいそう思い、そのCD-Rを再生した。なぜか先ほど感じた不安に似た心情よりも、「わくわく」した気持ちが先行した。ボリュームを32(ほぼMax)で再生した。課題として、感覚を支配することがこの時できた。細かい点で修正したい箇所は見つかったのである。解決する場所を体系的に把握することができ、「わくわく」した気持ちになった。そう思えば一年前のレコーディング作業は先ほど述べたイメージも勿論あったが、こうした「わくわく」した気持ちの連続だったことがあったのだと思い出した。もしかしたら友人宅に出かける前に感じた子供のころの心情、これは「わくわく」を反映したものそのものだったのかもしれない。わくわくはかなり大切だな~と思った。
現在様々な陰湿な事件が後を絶たない、いじめ、殺害、殺傷といったものが学校教育の現場でも多発していることは周知の事実である。現代の教育において決定的に欠けているものがある、私はその事実もそういったことひいては国内での様々な事件が起こる大きな要因の一つと考えている。私の考える、現代の教育の中で決定的に欠けているものとは、行動規範のある信念を持った人間を育てる、つまり『善い人』を育てるという教育である。
現代の資本主義社会とりわけ、今日の成熟化社会において価値観という言葉を大変よく耳にする。実際今日、初めて会う他人は同じ日本国内の中だけでも全く違う価値観を有していることが多々であり、論理的コミュニケーション能力がもてはやされているのもこういったことが背景にあるからであろう。価値観の違いで個性を表現することも多い。現代を様々な価値を内包する社会と言い換えることもできるであろう。そんな中、法律という枠があるにもかかわらず、強盗ひいては殺人をするという価値観をこの社会が生んでいることも事実である。野性(何の規制もない)の価値観を生むのが現代の社会であるといっても過言ではない。様々な情報がインターネット、TV等を通してシャワーのように一個人に浴びせかけられる、また友人間でそういったことに基づいた情報交換をする、そういった連続で価値観が形成された場合、善くない例で表現すれば例えばドッラク(麻薬)は本当に良い、何でも忘れられる等の情報を友人から持ちかけられた時、行動規範がなければ、受け入れてしまうという野性の価値観を生んでしまうことになる。
京都セラミックの稲盛和夫氏は人生・仕事というものを「能力」×「熱意」×「考え方」という方程式で提唱されている。氏の考えによると、この3つの中で最も重要なのは「考え方」である。~ができる「能力」、~に対し努力する「熱意」というものとは異なり「考え方」にはプラス、マイナスという概念が発生する、例えば、超一流の能力を持ち、その腕を磨くことに対して熱意を有する、暗殺者(マイナス)というものがあげられる。
つまり現代に最も必要なのは、教育において価値観をはぐくむということ以前に、何が善くて、何が悪いかということを判断でき、野性でなく行動規範を有する個性を持ち、善く生きることを選択でき、その方向での夢と情熱を持った人間を育てることであると私は考えている。その手段として、道徳、哲学を充実させ、それらを教える教師の人選をより徹底し、また民間企業の参入による教育社会の発展を主体性を育む、夢を膨らませる、情熱(私の主観的情熱に関する現時点での認識はここでは割愛させていただく)の花を咲かせる、という点でサポートする、ということを考えている。これらの手段を日本で構築したいと私は強く考えている。
日記とは日々の経験、主観的意思を書き留めることに他ならない。しかし、その日記の中身(CDで言えば内容、ドリルで言えば数センチの穴をあける結果、車で言えば快適な走行等、フィリップ・コトラーに言わせればCDで言えば中身がCDである・・・)の主観的意思、経験とはどのようなものであろうか?
説明責任(アカウンタビリティー)は現代この上なく重要である。周知のように、様々なフィールドにおいて、それをおろそかにしたことにより事件が多発してる。例えば、政府内での汚職、財務諸表虚偽(粉飾決算等)による企業不祥事、そういったことに関連した理由による企業倒産等が代表的な例としてあげられるだろう。CSR(企業の社会的行動責任)、IR(一般投資家等に対する企業情報の開示)、情報開示(ディスクロージャー)等がたびたび主張されるのも、そういったことが背景にあるのは言うまでもない。
私はこの説明責任(アカウンタビリティー)が個人に対しても重要な事柄なのではないかと現在考えている。一人一人の個人には、みな平等に、自由と責任がある。例えば大学の授業にしっかり出席していなければ(自由)単位を落とす(責任)であったり、就職しなければ(自由)フリーターになる(責任:断っておくがネガティブなニュアンスでは考えないでほしい)。全てのことに関して(例外として、人を殺すので罪をかぶるというような、善悪の悪になることは省く)、それは存在する。その自由と責任の意思決定を常に行い行動する上で、人という字が示すように人は一人で生きていない以上、意志を伝えることが必要になってくる可能性は十分にある。また、この世の中は大きく分けて、2つ方法で見つめることができると考えられる。まず一つ目に自然科学がある。物がニュートンの万有引力によって地に引き寄せられることや、1+1=2とった分野がその範疇となる。これはある意味で全ての人に通じる真理といっても過言ではない。2つ目は社会科学である。これは人が行うことで発生する全ての事象に関して扱う分野で、例えばスターバックのコーヒーが美味しいため多くの人々がそれを飲む、それによりスターバックスが流行るといった現象だったり、海外に旅行する人々が増加する旅行業界が流行るといった、感覚と理論が様々に絡みあった分野といえる。経営学や歴史、実践哲学(倫理)といったものがこの分野の範疇であると言える。つまりこの2つは人(人間全て)の外で起きている事象と、人内側を通した後にある事象ということができる。話しを戻すと、自由と責任の意思表明の時点では先に述べた、2つの方法の内の後者を採用するのが最も適した方法であり、言うなれば当然のことであるということができる。
後者の方法つまり、人間の内を通したことを最も合理的に把握する手段にアプローチする方法には、1+1=2といったような究極的な答えを導き出すことはできない(無知の知)。むしろ、人間の行動をそこまで究極的、普遍的に把握することができたという話があれば、それは大変信用し難い話しである。つまり、自由と責任の数だけ(上記した例外を抜く)形はあるといえるであろう。例えば~君が自由と責任にしたがって行動する時には、A,B,C,D・・・・といったように形は様々である。つまり、私は、人を通した全ての形の事象には上記した答えを見つけるという視点ではなく、何故そうなったかという時点でのロジックに基づいた説明が重要であると考えている。またそのロジックを越えた”何か(まだ説明できるレベルに到達してないので・・・)”の中にある「情熱」を発揮することが最重要であると考えている。そのことを俯瞰できる視点に立ち、上なる星空を認識した上で、内なる道徳法則(この言葉ができた時代は、哲学=自然科学、道徳=人間を対象とした学問全般(現在の経営学も含む)の意味であった)を重要視することの重要性を認識することは大切だと思う。そう知り、私という人間を通した事象(主観的意思、経験)を日記として書き留めるのは、当然と言われる説明責任の点からも、社会の問題点を解決するアクションを行う点からも、重要であると、私の場合は考えるぴょん。