昔話しパート4 | 気ままにブログ

昔話しパート4

さて、昔話しです・・・。

晴れて、国立館山海員学校へ入学。
「この牢獄のような佐藤家から脱出できる!!」それが一番嬉しかった・・。

父と母三人で、生活品一式(布団等も)車に積んで六時間(当時は高速が無くて時間掛かったのかなぁ)・・・寮に荷物入れて、簡単な入学式を終えて後、そのまま両親とはお別れ。
淋しそうに見えたけど、それより今は解放感とこれからの生活に胸いっぱい!・・・その時の私は何にも分かっていなかった、これからリアルに「牢獄生活」を送る事になろうとは・・!

一部屋に(私の部屋は)2年生1人、1年生2人。で、3年生の部屋を挟む形になる部屋割りだ。
寮の決まり事・・・
先輩の前では「俺」「僕」禁止、「自分」と言う。1年生はいつでも作業着上履き(海校での普段着は制服ではなく作業服)装着、部屋を出る時は帽子装着。放課後は外出禁止(日替わり)、で部屋に待機。
何故ならば・・・お隣の部屋から壁越しに「ドンドンドン」3年生の合図、すかさず帽子を装着して3年生の部屋へ、コンコン「失礼します」、3年生が小銭を差し出し一言・・「タバコ」。パシリ要因の為の部屋待機である・・そんな仕組みである。
夜中起こされて、チャリンコで20分先にあるコンビニへのパシリとか、イジメられた(可愛がられた?)1年生は、「そこの墓行って墓標(?)取って来い」等、たちの悪いパシリ等がある。

一日の流れ・・・
7時起床のチャイム、すかさず作業着上履き帽子装着後、3年生の部屋へ静かに入室「先輩、起床です」
と静かに囁く。その足で体育館へ、点呼。部屋割り順に1列に整列後、3年生が気怠そうに入ってくる。
2 3年生はそのまま食堂へ、1年生は自分の部屋と3年生の部屋を掃除、後、朝食そして登校(校舎迄徒歩30秒)。昼食も2 3年生が先に食堂へ向い、食堂が空になってから1年生の入室が許される。
放課後は、校内寮内の掃除。洗濯室や風呂場、各学年に設けられた娯楽室(1年生娯楽室は自動的に3年生娯楽室)。のち、部屋待機。見計らってお洗濯。
17時に上級生から夕食(早すぎ)。
風呂・・・3年生から、時間たっぷり10程シャワーがある浴場を4 5人でゆっくり利用。後2年生、そして残り2 30分間一気に1年生約40人。
そして門限の点呼前に双方の部屋を掃除(吸い殻の片付け等)。夜の点呼は全生徒部屋に待機で教官が巡回するやり方。教官といえば・・・!
寮には教官の当直室があり、毎日必ず1人教官もそこに一泊する。寮内ですれ違い、又は目撃した時は・・「パンパン!」手の平を叩く。生徒同士の合図である。タバコがバレると、3日間外出禁止&草むしり、それだけで済むけど・・お酒は停学、或いは退学・・厳しかった。
点呼後も1年生は部屋待機。そして22時消灯。廊下トイレ以外の電気(コンセントも)「カツーン」と音と共に全てシャットアウト。
そんな一日・・・。
この一日の流れの中で1年生が何かしら失敗してしまうと、その部屋の2年生が3年生にぶっ飛ばされ、ぶっ飛ばされた2年生が失敗した1年生をぶっ飛ばす・・・そんな仕組みである。
耐えきれずに、退学する1年生続出。入学式翌日に1人辞めてったのを覚えている。

・・・私も、一週間で家に逃げ帰りたくなった、あんなに出たかった「佐藤家」が、こんなに恋しく思う事になろうとは!!

入学して約一ヶ月、待ちに待った「ゴールデンウィーク」!10日間もの連休。滅多に着る事の無い制服(学ランで船乗りが被ってるような帽子)を身にまとい、もう「ワックワック」しながら「佐藤家」に帰ったあの頃の気持ちは忘れられられない。
町は、出てきた頃より緑が沢山で、たったの一ヶ月振りなのに見る物全てが懐かしくて別世界。家のドアを開けると母が「おかえり」、気持ち老けて見えたのを覚えている・・・それは多分、あの過酷な寮生活の中で思う事といったら「佐藤家」・・母や兄弟、父の事。淋しかったり辛かったりした時に頭に思い浮かべる母と・・現実とのギャップ・・?そんな心理的な不思議な感覚、経験だったのではないかと思うですよ。

1年生は「奴隷」、2年生で「人」になって、3年生になると「神」になる!!

我々第10期生(私は海校10期生)も「人」になり、「神」になった時代があるけど、自分等が嫌だった事(パシリだとか強制的に何かとか)、「そーゆーの俺達は止めようぜ」そう言い合いパシらせる事はしなかった(してる連中はいたけど)。でも卒業して後に思ったけど、一般社会でも「そーゆー事」ってあるし(さすがに墓標取ってこいは無いけど)、とっても大切な事だったんだなぁって思うのです。

つづく