郵便学者・内藤陽介のブログ -8ページ目

 国勢調査

 今日は5年に1度の国勢調査の日です。


 第1回の国勢調査は、当初、1905年に実施することが予定されていましたが、これは日露戦争のために延期されてしまいます。さらに、その後も内閣の交替その他の事情で延び延びになり、最終的に実施されたのは、1920年のことでした。で、その第1回調査を記念して臨時国勢調査局が発行したのが、↓の絵葉書です。


 第1回国勢調査の絵葉書


 絵葉書には、東征の最後にして最強の敵、長髄彦(ながすねひこ)との戦いの際、金のトビが天皇の弓に止まって輝きだしたという、有名な場面が取り上げられています。このトビの輝きに目がくらんで、長髄彦の軍隊は戦意を喪失し、敗走したという物語にちなみ、旧日本軍が兵士の武勲をたたえる勲章を“金鵄勲章”と命名したのは広く知られているところです。


 第1回の国勢調査の際には、さまざまな団体がさまざまな絵葉書を発行していますが、神武天皇を題材として取り上げたものがいくつかあります。おそらく、上記のような紆余曲折があってやっと調査が実施されたということもあって、“開闢以来、初めての調査”ということを強調するためのモチーフとして、こうした題材が選ばれたのでしょう。


 神武天皇と金鵄の物語というと、金鵄勲章のイメージが強いせいか、どうしても軍国主義・超国家主義のシンボルとして見られがちですが、大正期には、建国の物語のハイライトとして、もっと単純素朴なイメージで金鵄のエピソードをとらえていた面もあったのではないか・・・そんなことを連想させる絵葉書です。


 10月19日に平凡社から刊行予定の『皇室切手 』では、この葉書そのものは取り上げていませんが、“昭和の戦争”のヒステリックな時代とちがって、明治・大正期(特に大正期)は、天皇や皇室に対するまなざしは非常に大らかだったことを明らかにしようとしています。是非、ご一読いただけると幸いです。

 ボースのトラ

 プロ野球のセリーグはタイガースが優勝しましたね。僕は別段、ひいきのチームというのはないのですが(いつだったか、むさい男たちを見ているよりは綺麗なお姉さんたちを見てるほうが良いと冗談で言ったら、周りの連中はすっかり本気にしてしまい、以来、誰も野球やサッカーの話を僕には振ってくれなくなりました)、まぁせっかくの話題ですから、トラの切手の中からこんな1枚をご紹介しましょう。


 自由インド仮政府


 この1枚は、1943年にチャンドラ・ボースの自由インド仮政府が発行しようとして、果たせなかった“切手”です。


 イギリスの植民地支配下で、反英独立運動の闘士として戦っていたボースは、第二次大戦が始まると、“敵の敵は味方”というロジックでナチス・ドイツの協力を得てイギリスと戦おうとします。さらに、太平洋戦争が始まると、1943年、東南アジアを占領してインド侵攻を計画していた日本の要請を受け、ボースはドイツから潜水艦に乗って日本にわたり、同年10月21日、シンガポールで日本の支援を得て自由インド仮政府を組織しました。また、ボースは、日本軍の捕虜となったインド兵を中心に結成されたインド国民軍の最高司令官にも就任。インド国民軍が、日本軍とともにインパール作戦で戦ったことは広く知られています。


 さて、自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画。上に掲げたものを含めて切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品がドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けらることが困難となり、この切手も発行されないまま終わってしまいました。


 切手には、インド国民軍の旗が大きく取り上げられていますが、その中央にトラが描かれているので、今日の切手としてご紹介してみたというわけです。


 トラを取り上げた切手というと、8月24日の日記 でご紹介した台湾民主国の切手をはじめ、まだまだ、面白いものがいくつかあるので、日本シリーズで阪神が優勝してもネタに困るということはなさそうです。次は、パリーグの優勝チームにちなんだネタで何か探すことになりそうですが、さてさて、こちらはどうなるでしょう。

 ガブリエル

 今日(9月29日)はキリスト教では大天使ガブリエルの祝日だそうなので、こんな切手を持ってきました。


 パレスチナのガブリエル


 この切手は、2000年にパレスチナ自治政府が発行したクリスマス切手の1枚で、大天使ガブリエルによる聖母マリアへの受胎告知の場面(ジオットの絵画)が取り上げられています。


 パレスチナ自治政府は、自らの管轄する区域で1995年から切手を発行していますが、キリスト教を題材とした切手も少なからずあります。パレスチナ=アラブ系というイメージがこびりついていると、一見、奇異に見えますが、アラブというのは非常に単純化して言えば“アラビア語を母語とする人々”のことですから、アラブのキリスト教徒がいてもなんら不思議はありません。じっさい、レバノンはキリスト教徒が多数を占めるように作られたアラブ国家ですし、エジプトには相当数のコプト教徒(土着化したキリスト教徒)がいます。パレスチナの場合は、域内にマイノリティとしてのキリスト教系住民が生活していることにくわえ、イエスの故地ということで多くのキリスト教徒が巡礼の訪れるという事情もありますから、こうした切手を発行するのも充分な理由があるのです。


 ちなみに、キリスト教でガブリエルといえば受胎告知がすぐに連想されますが、イスラムでは、ガブリエル(アラビア語ではジブリール)は預言者ムハンマド(マホメット)に神の啓示を伝えた存在として知られています。その場面をイメージとして表現したのが、イランで発行された↓の切手です。


 イランのガブリエル


 切手では、ジブリールを示す翼の真中に“誦め(=声に出して読め)!”というアラビア語がデザインされています。この“誦め!”というのが、神からムハンマドに対して最初に下された言葉といわれているもので、下のほうに描かれた書物とあわせて、神がジブリールを通じてムハンマドにコーランを下したという内容が、イスラム教徒ならすぐに連想できる仕掛けになっています。


 それにしても、アイディア不足に悩まされながら、日々原稿の〆切に追われている僕としては、ほんの僅かでもいいから、ガブリエルなりジブリールなりが、なにか耳元でささやいてくれないかと、ついつい思ってしまいます。


 共同通信のインタビューほか

 昨日は共同通信社のインタビューを受けてきました。先方によると、特に何があったというわけではないのだが、人物紹介のコーナーで僕のことを紹介してくれるとのお話でしたので、喜んで出かけてきたというわけです。近日中に、皆様のごらんになっている新聞にも登場することになるかもしれません。


 せっかくの機会でしたから、昨日のインタビューでは、10月19日に刊行予定の『皇室切手 』にまつわる話をいろいろとしてきました。取材された記者の方は、戦後の皇室切手をめぐる宮内庁と郵政省の暗闘についてのエピソードなどに興味をもってくれたみたいです。まぁ、この辺の話題については、おいおい、このブログでも予告編というかたちで一部ご紹介していくことになると思います。


 なお、表紙のイメージは、結局、こんな感じ(↓)になりました。


 皇室切手


 ちょっとおとなしすぎるような気もしないではありませんが、まぁ、下手に刺激の強い内容にして無用のトラブルを起こすよりはいいと割り切るしかないでしょう。奥付上の刊行日は10月19日ですが、早ければ、10月15日頃には一部大規模書店の店頭に並んでいるかもしれません。見かけたら、手にとってやってください。


 さて、10月28日から始まる全国切手展<JAPEX >まで残り一月となりました。それに伴い、このページもちょっとレイアウトをいじって、右側のカレンダーの下にブックマークを置いて、その中に<JAPEX >のページを入れたり(ブックマークの中の並びは、切手の博物館 以外は50音順です)、その下のブログテーマ一覧に1945年 ( 28 ) のコーナーを作って、特別展示“1945年”の予告編になりそうな過去の記事を展示の予告編としてご覧いただけるようにしたりしてみました。近々、JAPEX のページにリンクを張ってもらう予定です。同じく、ブログテーマ一覧の中の皇室切手 ( 12 ) は、目白会場の皇室切手展のページができれば、そこにリンクを張ってもらいましょう。


 <JAPEX >がおわると、続いて11月1日からは白金の明治学院大学で”反米の世界史展”を開催する予定です。こちらについても、このブログで事前にご案内いたしますので、よろしくお願いします。(そういえば、今日発売の雑誌『SAPIO 』で、『反米の世界史 』が紹介されていました。ありがたいことです)


 斯様な状況ですから、これから一月はいろいろとばたばたして皆様にご迷惑をおかけすることも多々あるかもしれませんが、なにとぞ、大目にみてやってください。

 大嘗宮と稲穂

 昨日、天皇陛下が皇居内の水田で恒例の稲刈りをなさっている映像をテレビでみました。稲の苗は今年の春に陛下ご自身がお手植えになったもので、収穫した稲は新嘗祭など皇室の神事に用いられるとのことですが、こういうニュースを聞くと、すっかり秋になったなぁとあらためて実感します。

 

 さて、神道や皇室の儀礼が、さまざまなかたちでコメと関わってきたことはあらためていうまでもありませんが、そのことを一番ストレートに表現した切手が、昭和天皇の即位の大礼を記念して発行された↓の切手です。


 昭和大礼


 この切手は、カタログなどを見ると単に“大嘗宮”(大嘗祭の行われる場所)とのみ記されていますが、切手の下部には、しっかりと稲穂が描かれています。


 大嘗祭とは、天皇が即位後初めて行う新嘗祭(新穀を祀る儀式)のことで、以下のような手順で行われます。


 1)聖水沐浴 

 新たに即位した天皇が天羽衣(一種の湯帷子)を羽織って湯殿に入り、中の湯槽でこれを脱ぎます。そして、湯殿を出て新たな天羽衣に着替え、神饌(神に供える新穀)が用意された寝所に進みます。これは、新たに現人神となった天皇が地上に降臨した際に産湯を使ったことを意味するといわれています。


 2)神人共食

 新生した天皇は天照大神に神饌をそなえ、これを神とともに食べます。その際、天皇はまず大嘗宮東方の悠基殿(切手では右側の建物)で神饌を供した後、西方の主基殿(切手では左側の建物)でも神饌を供します。こうして、天皇には天照大神と同じ霊力が注入されます。


 3)御衾秘儀

 次いで天皇は、産着に包まれた赤子のような姿で皇祖神と神聖な共寝を行います。このときの天皇の姿は、穂に包まれた稲の姿を意味し、儀式としては稲魂の誕生が含意されているといわれています。


 以上のように、稲は大嘗祭において重要な題材であり、切手もそのことをふまえてデザインが作られたというわけです。


 なお、今上天皇の即位の礼に際しては、大嘗祭をめぐって“政教分離”の視点からの批判があるため、大嘗祭は天皇の国事行為ではなく、“皇室の公的行事”という位置づけで、宮廷費から費用を支出し、宮内庁の所管の下で皇居内で行う(昭和天皇以前は京都で行われていた)、ということで決着がはかられています。


 10月中旬に平凡社から刊行予定の拙著『皇室切手』では、大正・昭和・平成の3人の天皇の大礼ないしは即位の礼が郵便というメディアにおいて、どのように取り上げられてきたのか、比較しながら分析しています。是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 テロリスト図鑑(7) ゲオルギ・ディミトロフ

 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、貧しい労働者階級の子として生まれました。少年時代に植字工となった彼は、10代だった1901年に印刷工労働組合の書記に選任されたのを皮切りに労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党に入党します。同党の分裂後は、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員二就任。第一次大戦末期の1918年には政府の戦争政策に対する反対運動を行い、投獄されました。


 第一次大戦後は、1921年にコミンテルンに参加。1923年には革命を目指して武装蜂起を企てますが、失敗して国外に逃亡。欠席裁判として死刑判決を受けています。


 ブルガリアのローカルな革命家であった彼の名を一躍世界的に有名にしたのは、1933年のドイツでの国会議事堂放火事件でした。事件はナチスによるでっち上げでしたが、このとき、たまたまドイツに滞在していたディミトロフは、ナチスによる共産主義者弾圧の網に引っかかって、事件に関与したかどで逮捕されます。結局、裁判では無罪判決を勝ち取り、釈放されるのですが、この“勲章”を手に、1935年、彼はコミンテルンの書記長に就任。以後、1943年にコミンテルンが解散した後もモスクワにとどまり、スターリンの側近として“活躍”します。現在、ロシアのウリヤノフスク州には彼の名にちなんだ“ディミトロフグラード(旧メレケス)”という土地がありますが、このことは、彼がかつてのソ連において大きな力を持っていたことを髣髴させます。


 第二次大戦後、彼は祖国ブルガリアに帰国。ナチスと組んで枢軸側に立った旧政権が打倒されたのを受けて、ソ連の衛星国の首相に就任。早々に、反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、師匠のスターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所(収容所はBelene、Lovech、Skravena等にあったというのですが、さて、これらの地名はカナ書きではどう表示したらよいのでしょう)送りにしましたが、1949年、病を得て倒れ、療養先のモスクワ近郊の病院で亡くなりました。


 ゲオルギ・ディミトロフ


 かつて、共産主義諸国が多数存在していた時期には、ディミトロフは身体を張ってファシズムと戦った共産主義の英雄として(もちろん、多くの国民を粛清した恐怖政治家としてではなく)、各国の切手にも取り上げられました。ここでご紹介しているのは、そのうちの1枚で、1982年の生誕百周年を記念して北朝鮮が、友好国のブルガリアとの友好関係を謳いあげる意味も込めて発行したものです。


 昨日終わった相撲の秋場所では、ブルガリア出身の琴欧州の活躍が話題となりましたが、さて、ブルガリア出身の有名人って他に誰がいるだろうと考えてみたところ、ふとディミトロフの切手が目に留まったので取り上げてみたという次第です。

 

 博覧会場の皇太子

 愛・地球博(愛知万博)は今日が最終日だそうで、さきほど、皇太子殿下・小泉首相らが出席しての閉会式が行われたとのことです。


 皇太子という立場の人物が国内各地を積極的に行啓するようになったのは、皇太子時代の嘉仁親王(後の大正天皇)が最初のことで、戦前期には、行啓記念の記念スタンプがしばしば使われたほか、折からの絵葉書ブームともあいまって、行啓記念のプライベートな絵葉書が盛んに作られるようになりました。これに対して、行啓そのものを記念したわけではないものの、行啓があったという事実を別の機会に取り上げた絵葉書としては、↓のようなものがあります。


 台湾博覧会


 この絵葉書は、1922年に当時の台湾総督府が発行した絵葉書で、中央のシルクハット姿の人物が皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)です。写真は、同年6月17日、第一次大戦後の平和を祝福する目的で東京・上野公園で開かれた“平和記念東京博覧会”の台湾館を行啓した際の裕仁親王の姿を遠景でとらえたものです。


 1921年に外遊から帰国した裕仁親王は病身の大正天皇の摂政として、実質的に天皇の職務を代行していました。帰国後の皇太子は、国民の前に積極的に姿を見せるようになります。じっさい、帰国後まもなく、皇太子は外遊報道に貢献した新聞記者を接見した際、犬養毅は「皇室と申せばあたかも神様を仰ぐがごとく尊敬していた」ものの「親愛を欠く嫌いがあった」が、「ご帰朝とともに国民の皇室に対する感情は一変して尊敬より親愛になることと思ふ」と感想を述べています。この時代の人々の皇室に対するとらえかたが、現代の我々が“戦前”という言葉から連想するイメージよりも、はるかにリベラルなものであったことを物語る貴重な証言といってよいでしょう。


 東京博覧会・台湾館行啓の翌年にあたる1923年4月、裕仁親王は摂政宮として台湾そのものを行啓することになります。これは、当時の文官総督・田健次郎の下で進められていた宥和政策の一環として企画されたもので、本国政府の側にとっても、実質的な国家元首となった裕仁親王の存在を植民地の住民に認識させる上で重要な意味を持っていたいました。その意味では、今回ご紹介している絵葉書は、郵便というメディアを通じての、その“予告編”という役割を担っていたということも可能かもしれません。


 10月中旬に平凡社から刊行予定の拙著『皇室切手』では、この葉書を含めて、大正時代、皇太子(裕仁親王)の肖像が郵便というメディアにおいて、どのように取り上げられてきたのか、さまざまな角度から分析しています。ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。


 錦帯橋

 テレビを見ていたら、先日の台風14号での錦川(山口県岩国市)の増水により、橋杭が流されて一部不通になっていた錦帯橋が、昨日(23日)仮復旧し、5連の橋全体が通行できるようになったというニュースをやっていました。本格的な復旧工事は冬の渇水期に行い、来年2~3月に終わる見込みだそうです。


 台風の被害を受けた錦帯橋の復旧というと、切手収集家であれば、この切手を思い出す人が多いのではないでしょうか。


 錦帯橋


 この切手は、1951年から発行が開始された「観光地百選」切手のうちの“建造物”部門に取り上げられた錦帯橋の切手です。


 「観光地百選」というのは、観光地を10部門に分けて人気投票を行い、各部門のベスト10を集めて、計100の観光地を選ぼうという毎日新聞社の企画(1950年に実施)です。この企画は、投票が葉書によって行われたため、観光地の中には地元の郵便局を巻き込んで組織的に大量の葉書を毎日新聞社に送るところが続出。郵政省にとっては、おもわぬ“特需”の到来となりました。このため、郵政省も、これだけ国民の関心が高いのなら、切手を出しても人気が出るだろうと考え、各部門の1位となった観光地を題材に観光地百選切手を発行することになったというわけです。


 錦帯橋は、そのうちの建造物部門の第一位となったわけですが、実は、投票〆切直前の1950年9月14日、キジア台風で流失してしまいました。


 このため、投票で1位を獲得した後、現物が流失してしまったことを理由に、錦帯橋を切手にすべきではないという意見も根強く、郵政省内にも錦帯橋を失格として第2位の耕三寺(広島県)を繰り上げ当選にすべきという意見も強かったようです。


 結局、1950年末になって、当初の予定通り、錦帯橋が切手に取り上げられることが決定。このときは、橋の再建費用を捻出するためにも、錦帯橋の切手をシリーズ第一弾として発行することも検討されました。しかし、現物の橋が存在していないのに切手を発行するのはいかがなものか、とのクレームがついたことから、この案は撤回され、切手は橋の再建を待って発行されるということで決着がつきました。他の観光地百選切手が、すべて1951年中の発行なのに対して、錦帯橋のみが1953年の発行となっているのはこのためです。


 さて、橋の再建工事は、1952年末にほぼ完了し、1953年1月、渡初式が行われました。当初、郵政省としては、渡初式にあわせて切手を発行する予定だったようですが、同年5月初の完工式にあわせての切手発行となりました。ここでご紹介しているのは、2種類発行された切手のうちの1枚で、外信書状用の24円切手ですが、このデザインは、渡初式当日に撮影された写真をもとに、郵政省のデザイナー吉田豊が橋を支える框組がはっきり分かるよう補正したものです。


 なお、この切手以外にも、観光地百選の切手にはいろいろと面白いエピソードがあるのですが、その辺の話にご興味をお持ちの方は、以前、僕が書いた『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』もお読みいただけると幸いです。

 孫文のお墓

 今日はお彼岸の中日。お墓参りの日です。(僕は、今年も仕事に追われていて行きませんでしたが…)


 というわけで、何かお墓がらみの面白いブツはないかと思って引っ張り出してきたのが、↓の絵葉書です。


 孫文のお墓


 これは、日中戦争下の1942年、日本軍占領下の南京にあった親日政権、汪兆銘政府が発行したもので、紫金山の国父陵(孫文のお墓)が取り上げられています。


 9月14日の日記 でも簡単に触れましたが、汪兆銘の南京政府は、自分たちこそが中国の正統政府であると主張していました。このため、南京政府としては、(彼らの主張によれば)日本との提携を訴えた国父・孫文の遺志に忠実なのは、日本と戦争をしている蒋介石の重慶政府ではなく、自分たちの方なのだ、ということをしめすために、こうした葉書を発行したというわけです。


 なお、葉書の右側には、汪兆銘の揮毫で「勵行新國民運動 完成中國革命 實現東亞解放」の文字が入っています。ここでいう“新國民運動”とは、一言で言ってしまえば、“日本と協力して東亜解放の戦争を戦うため”のプロパガンダとまとめてしまうことができましょう。“完成中國革命”のフレーズは、孫文が「革命いまだならず」と言い残して亡くなったことを踏まえ、国父陵の写真とともに、自分たちこそが孫文の遺志を継いでいるのだということを示すためのものと理解できます。


 昭和の戦争を題材とした作品を作るとき、汪政権の話は避けて通ることができないものですが、案外、気の利いたマテリアルというのは少ないものです。その意味では、こういう分かりやすいマテリアルは使い勝手がよく、作品構成の上で重宝しています。


 * 10月28~30日、池袋のサンシャイン・文化会館で開催の全国切手展<JAPEX>において、特別企画出品として“1945年:戦後世界の形成”(仮題)を出品します。そこで、会期も近づいてきましたので、以前の日記で書いた記事のうち、その作品で展示する予定の切手やカバー(封筒)の予告・解説記事になりそうなものを、“1945年”というテーマで一まとめにしてみました。記事は、左側のテーマ一覧のうちの1945年 ( 28 ) をクリックしていただければ、ご覧になれますので、展示の予告編としてご活用いただけると幸いです。

 イラン・イラク戦争

 今日(9月22日)は、いまからちょうど25年前の1980年、イラン・イラク戦争が勃発した日です。


 イラン・イラク戦争の本質は、1979年のイスラム革命でイラン国内が混乱している隙に乗じて、国境問題を有利に解決しようとしたイラクのサダム・フセイン政権が起こした侵略戦争ですが、当時の国際社会は、革命の波及を恐れて、とにかくイランを勝たせないように、イラクを支援していました。そのことが、後にイラクの軍事大国化を招いたことは周知の通りです。


 さて、イラン・イラク戦争に際しては、両国がさまざまなプロパガンダ切手を発行しているのですが、今回は、前回の拙著『反米の世界史』(講談社) に収録しそこなったこんな絵葉書をご紹介します。


 イランイラク戦争


 絵葉書は、イランの革命戦士(右側の黄色の人物。帽子にはイランの国章が入っている)が、銃を片手に侵略者をぶっ飛ばしているというデザインです。革命戦士の背後には、ホメイニとおぼしき人物の肖像やイスラム共和国の国旗もかかげられており、なんとも分かり安い構図です。なお、侵略者は、恐らく、イラク兵のつもりなのでしょうが、見ようによっては米兵のようにも見えます。まぁ、どっちにしても、当時の革命イランから見れば不倶戴天の敵であることに変わりはないのですが…。


 この絵葉書には、「イランイスラム共和国」の銘が絵面の下に白地でも入っていますからおそらく、オフィシャルなモノであることは間違いないのですが、詳細については分かりません。ただ、裏面には切手が貼られ、1981年7月の消印が押されていますから、戦争の勃発後、比較的早い時期に作られたものであることだけは間違いなさそうです。


 先ほど、イラン・イラク戦争に関してはプロパガンダ切手が数多く発行されていると書きましたが、『イラン・イラク戦争』というタイトルで展覧会の作品を構成する場合、切手だけでは、どうしても単調なものになってしまいます。やはり、こういう官製の絵葉書の類や軍事郵便や捕虜郵便の封筒・葉書などを入れると、作品として仕上げた時にパンチが効いてくるので、大事にしたいマテリアルです。(なにより、絵のインパクトが強いので、お気に入りです)

 なお、全くの余談ですが、イラン・イラク戦争が勃発した当時、僕は中学生で、お彼岸のお墓参り(そういえば、もう何年も行けないでいます)から帰ってきて、夕飯を食べながらテレビを見ていたら、ニュースで戦争が始まったことを伝えていたのを鮮明に覚えています。1979年のイスラム革命の直前(1978年中だったと思いますが)、テヘランから引き揚げていた商社マンの子供がクラスに転入してきたこともあって、なんとなく、イランのニュースに関心を持っていたことも影響していたのかもしれません。あれから、25年も経ったのか、と思うと、ちょっと感慨深いものがあります。