アメーバ・ブログの画像フォルダが満杯になってしまいましたので、12月9日付でこちら に移転しました。
新しいURLはhttp://yosukenaito.blog40.fc2.com/ になりますので、お手数ですが、ブックマーク等の登録情報の変更をお願いいたします。
移転しました
いつも「郵便学者・内藤陽介のブログ」に遊びに来ていただいてありがとうございます。
さて、アメーバ・ブログの画像フォルダが満杯になってしまいましたので、12月9日付でこちら に移転しました。新しいURLはhttp://yosukenaito.blog40.fc2.com/ になりますので、お手数ですが、ブックマーク等の登録情報の変更をお願いいたします。(すでに、9日付の記事は移転先のみでの掲載となっています)
当面、このブログも残しておいて、こちらに頂戴したコメント等はこちらにお返事差し上げるようにする予定ですが、新URLのほうへ、再度お書き込みいただければ、そちらに優先的にお返事差し上げるようにします。
とりあえず、過去の記事は全て、新URLに移行いたしましたので、そちらでもお読みいただけます。ただし、カテゴリー分類などは、移転に伴い、若干変更いたしましたので、ご了承ください。また、カウンターの数字も新URLへ引き継いでいます。ブックマークその他の機能については、可能な限り移転先に移していくつもりですが、今しばらくのご猶予をいただけると幸いです。
今回の移転に伴い、いろいろと混乱もあろうかと思いますが、今後ともよろしくお付き合いいただけると幸いです。
ジョン・レノン
今日は12月8日。例年だったら、真珠湾がらみのブツを持ってくるところですが、今年は、ジョン・レノンの没後25周年ということで、この切手をアップします。
切手は、1988年、西ドイツ(当時)が発行した青少年の切手収集家のための資金を集めるために発行した寄付金つきのもので、バディ・ホリー、エルビス・プレスリー、ジム・モリソン(ドアーズ)といった伝説的なロック・ミュージシャンとともに、ジョン・レノンの肖像が取り上げられています。
この切手が出た当時、外貨目当てにいかがわしい切手を濫発する国ならともかく、まさか西ドイツのようなお堅い国から発行されるなどとは想像もできなかったので、日本の収集家は少なからずショックを受けたものでした。まぁ、この切手も収集家目当てといってしまえばそれまでですが、さすがはドイツ製。カリブ海で発行された怪しげな切手に比べると、格段に良いできです。
ちなみに、ジョン・レノンが亡くなったとき、僕は中学生でした。当時、ビートルズの曲は「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」等はさすがに知っていましたが、それほど詳しかったわけでもなかったので、自分の両親(当時40前後)の人たちが大騒ぎしているのを見ても、なんとなく実感が湧かなかったというのが正直なところでした。
その僕も、年が明けるとすぐに39歳。娘は来年中学生になります。25年という年月とはそういうものなのか、ということがなんとなく実感できるような気がしました。
さて、ここ数日の日記でもお話しているように、画像フォルダの要領があと数日で満杯になるので、近々、対策を講じます。作業が完了次第、皆様にご案内する予定です。この間、いろいろとご面倒をおかけすることがあるかも知れませんが、どうぞよろしくお願いします。
ニューファンドランドの犬
昨日はクリスマスの話題でしたが、そろそろ、年賀状の準備もしなければなりません。というわけで、今日は、犬切手の定番モノのひとつとして、この1枚をご紹介しましょう。年賀状作成のヒントにでもしていただけると幸いです。
この切手は、1888年1月、ニューファンドランド島で発行されたもので、犬の切手としては世界で最初の1枚ということになります。
ニューファンドランド島は、カナダ東岸の大きな島で、1857年1月から1949年3月末までは、カナダ本土とは別に、独自の切手が発行されていました。
切手に描かれている犬は、その名もズバリニューファンドランド犬。もともと、この島にいた犬と、バイキングの犬、さらにはヨーロッパ人が持ち込んだ犬などが掛け合わされて出来上がった原型を、18世紀ごろ、イギリスで改良して現在のような姿になったのだそうです。
実は、この切手は近々発売のある雑誌の表紙に使うことが決まっていて、昨日はその解説文を書いていました。で、その関係で調べていて分かったのですが、この犬の実際の毛色は黒や茶、もしくは白と黒の2色で、切手のように赤いわけではないそうで・・・。さすがに、切手のように真っ赤な犬がいるとは思いませんが、それでも、例によって僕は切手のデザインが頭にこびりついて、いわゆる赤毛の犬だとばかり思っていたので、ちょっとビックリしたというわけです。
ちなみに、1894年には、この切手と同じデザイン・額面で赤から黒に改色された切手が発行されていますから、年賀状には赤と黒の二つのバージョンを作って、相手によって使い分けてみても良いかもしれません。なんだか、ウイスキーの赤ラベルと黒ラベルみたいですが…。
なお、僕も年賀状には何らかのかたちで犬の切手を使うつもりですが、もうちょっとひねったものはないかと、現在、いろいろと探しているところです。
<お知らせ>
近々、画像フォルダの要領が満杯になりますので、それにあわせて、ブログのアドレスを移転する予定です。とりあえず、アメーバ内に別IDをとって、そちらに移転する予定ですが、どこか良いところがあれば、別のところにするかもしれません。
なにぶん、ネットやコンピュータのことについては詳しくないので、いろいろとアドバイスを頂戴できると幸いです。
(戦時下のクリスマス)イタリア・1943年
1943年6月、連合軍がシチリアに上陸すると、翌7月、イタリアの独裁者ムッソリーニが失脚。後を継いで発足したバドリオ政権は、同年9月、連合国との休戦を進めます。
これに対して、ナチス・ドイツはイタリア北部に侵攻。ローマ以北を征圧し、ムッソリーニを救出してイタリア社会共和国を樹立します。この結果、イタリアはドイツの勢力下にあったローマ以北の共和国と、アメリカ軍の後援するバドリオ政権の南部イタリアの王国に分裂。1945年4月にムッソリーニの共和国が滅亡するまで、内戦状態に陥りました。
その内戦最中の1943年のクリスマスにあわせて、イタリアに進駐した米兵が差し出したクリスマスカードが↓です。
葉書はアメリカ赤十字がイタリア駐留軍の兵士のために作ったもので、裏面には、1943年11月27日の第485野戦局(当時、イタリア南部のバーリにあった)の消印も押されています。シンプルなデザインを赤一色で印刷しただけの素朴なものですが、それだけに、戦地の雰囲気がよく伝わってくると言えるのかもしれません。
ところで、いい気になって毎日画像をつけていたら、画像フォルダの容量がそろそろ満杯になりそうです。まぁ、無料のブログなので文句は言えないのですが…。で、過去の画像を消してこのままのアドレスで続けたほうが良いのか、もう一つ別のアドレスを取得して、過去の記事と画像はそのまま残しておくのが良いのか、ちょっと悩むところです。みなさんのご意見をお聞かせいただけると幸いです。
タイ占領化のマライ
今日はタイのラーマ9世(いわゆるプミポン国王)のお誕生日だそうです。とういわけで、タイに関するモノの中から、今日はこんなものをひっぱりだして見ました。
第二次大戦中、タイは中立国でしたが、周囲を占領していた日本とは友好的な関係を保ち、日本軍にも協力的でした。ところが戦況が次第に日本にとって不利になってくると、タイは徐々に日本への協力を渋り始めます。このため、タイをつなぎとめておく必要に迫られた日本側は、1943年10月、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州(タイは、これらの地域を自国の領土として、長年、英領マライに返還を求めていた)をタイに割譲しました。
これに伴い、現地で使用するために、タイの国名表示をした切手・葉書が製造され、1944年1月から使用されました。これらの切手は、もともとタイ国内で使われていたものとデザインは同じですが、額面がバーツではなく、セントになっているので容易に区別できます。
今日ご紹介している葉書は、そうしたタイ占領下のマライ、アロスターから差し出されたもので、マライのイポー経由で昭南(シンガポール)まで届けられました。切手収集家が差し出した、いわゆるフィラテリックカバーですが、それでも、残っている量は決して多くはないので手に入れようとするとそれなりの出費が必要でしょう。
マライの北部4州のタイへの割譲に関しては、いろいろとおもしろいマテリアルが存在しているのですが、なかなかご縁がなく、現在のところ、この1点しか手元にはありません。来年のワシントンでの展覧会までに、なんとか、追加のブツを手に入れたいのですが…。
ランナー
師走という言葉は、普段、泰然と構えている教師のような人たちまで走り出すほど忙しいことに由来していると、子供の頃に聞いたことがあります。
僕は、本業の文筆活動のかたわら、週に何コマか都内の大学でパートタイム講師を担当していますので、いちおうは教師の端くれということになるのでしょうが、毎日、生活に追われて目一杯走っているような気がしてなりません。これから年内残りの日々、今まで以上に走らされることになるのかと思うと、それだけで気管支がヒューヒューと音を立てそうです。
さて、走るといえば、走っている姿を描いた切手や絵葉書というのは数多くありますが、そんな中から、今日はこの1枚を取り上げて見ます。
これは、1964年の東京オリンピックの聖火リレーがスタートしたのにあわせて、ギリシャで作られた絵葉書です。貼られている切手は、聖火を採取する場所、オリンピアを描いた1.5ドラクマの通常切手で、聖火リレースタートの記念印が押されています。
葉書には、日本人らしきランナーと日本を意識したと思しき風景が描かれていますが、なんとなく珍妙な雰囲気です。また、葉書の下に書かれている「第十八回オリンピック東京 一九六四年」の文字も金釘流で、こういっては失礼かもしれませんが、日本人が多数訪れる外国の観光地で売られているいかがわしいお土産のにおいがプンプンします。
東京オリンピックに際しては、少なからぬ国々が記念切手を発行しています。ただし、そうした切手の多くは、“日本”よりも“オリンピック”を強調したデザインとなっています。やはり、商品としての記念切手ということを考えた場合、この時点では、“日本”よりも“オリンピック”のほうがはるかに商売になると考えられていたのでしょう。当時の国際社会の認識では、東京オリンピックは“たまたま日本という国で開かれた大会”というイメージが強かったのかもしれません。
この辺のことについては、以前、『外国切手に描かれた日本 』という本にまとめて書いて見ましたので、ご興味のある方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
土侯国からUAEへ
今日(12月2日)は、アラブ首長国連邦(UAE)の建国記念日です。というわけで、こんな葉書をご紹介します。
この葉書は、連邦発足から間もない1972年5月にドバイから差し出されたものです。
UAEは、その名の通り、ドバイ、アブダビなど、ペルシャ湾岸の群小首長国からなる連邦国家で、1971年12月に連邦が成立する以前は、それぞれの首長国はイギリスの保護下に置かれていました。これらの首長国は、イギリスと休戦協定を結んでいたため、英語ではTrucial States(=休戦協定諸国)と呼ばれているのですが、日本では、“アラブ土侯国”との呼び名のほうが通りが良いかもしれません。
さて、各土侯国の郵政はUAEの発足により連邦郵政に統合され、土侯国ごとに新規に切手を発行することも禁じられました。そして、それに伴い、旧アブダビ切手に“UAE”の文字を加刷した切手が発行されています。
とはいえ、連邦郵政の発足後も、しばらくの間は、移行期間として旧土侯国時代の切手も有効でした。今回、ご紹介しているドバイの葉書も、そうした移行期間内のドバイ切手の使用例ということになります。ちなみに、UAEとしての万国郵便連合への加盟は1973年1月1日のことで、これをもって旧土侯国郵政は完全に消滅しました。
“アラブ土侯国”というと、ある年代以上の切手収集家の方なら、外貨目当てに自国とは何の関係もない切手を濫造・濫発した国々というイメージが強いと思いますが、彼らの発行した切手は、当然のことながら、彼らの支配地域では郵便に使うことができました。この辺の事情は、かつて『中東の誕生 』という本の中で簡単にまとめたことがあるのですが、真面目に取り組んでみるとなかなか歯ごたえがあって面白いテーマなので、その後もポツポツとマテリアルを買ったり、いろいろ調べたりして密かに展覧会に出品できる作品作りをめざしています。
そういえば、来年は、UAEの建国35周年ということで、アジア国際切手展がドバイで開催されるとか。せっかくなら、なんらかのかたちでこの地域に関連したコレクションを出品して現地にも行きたいところですが、となると、その前に出品資格を取らねばなりません。といっても、4月の全日展に出品しても、おそらく、出品申し込みの〆切には間に合わないでしょう。さてさて、どうしたものか…。
すべては戦線へ!
琴欧州が大関昇進を決めたということで、またもやブルガリア・ネタを探していたら、こんなものが出てきました。
この切手は、第二次大戦末期の1945年1月、ブルガリアで発行されたもので、「すべては戦線へ」という主旨のスローガンが加刷されています。
第二次大戦中、周囲を親独国家に囲まれていたブルガリアには、ドイツと敵対するという選択肢はありえず、1942年、枢軸側にたって米英に対して戦線を布告します。このため、1944年9月にはソ連軍が侵攻し、国内の共産主義者が武装蜂起し、権力を掌握します。
この切手は、そうした経緯を経て発行されたもので、共産政権となったブルガリアが、それまでの路線を180度転換してドイツと戦うことになったことを受けて、国民をあらたな戦争に動員するためのプロパガンダの一環として発行されました。それにしても、なんとも分かりやすいスローガンで、ある種の潔ささえ感じます。
それにしても、これまでブルガリアの切手には、ほとんど興味もなかったのですが、ブログの記事を書くためにあらためてカタログを眺めてみると、それなりに面白いものもありそうです。これから何かと話題の国にはなりそうですし、少し、勉強してみるのも悪くなさそうです。でも、ある程度、モノと知識が増えてきたころには、琴欧州のことなんて誰も話題にしなくなってたりしたら・・・そんな一抹の不安がないわけではありませんけどね。