郵便学者・内藤陽介のブログ -15ページ目

 試験の解説(2)

 昨日に引き続き、試験問題の解説です。


 大レバノン


 この切手は、1924年、フランスが“大レバノン”で用いるために発行した加刷切手です。


 第一次大戦中、イギリスは、アラブがオスマン帝国に対して反乱を起こす代わりに、戦後のアラブ国家樹立を認めるという密約を結びます。これをもとに、大戦後、現在の国名でいうとシリア・レバノンの地域を占領したファイサルは、アラブ王国の建国を宣言し、アラブ国家の存在を既成事実化しようとしました。


 しかし、同じくイギリスと大戦後の中東分割について密約を結んでいたフランスは、シリア・レバノン地域を自分たちの勢力下におくことを強硬に主張。結局、フランスのこの主張が通り、1920年7月、ファイサルの勢力はシリア・レバノン地域から駆逐されてしまいます。


 その後、フランスはこの地域を委任統治下に置き、レバノン国・ダマスカス国・アレッポ国・アラウィ自治区に分割。各地域に知事を置き、これを高等弁務官が統括するという古典的な分割統治政策を行いました。


 このうち、レバノンに関しては、1920年8月、“大レバノン”が設置され、オスマン帝国時代の1860年に設置された旧レバノン県(キリスト教徒自治区)にトリポリ、ベイルート、シドンなどの海岸地区とベカー高原を加えた区域が、内陸シリアとは別の行政単位となりました。この“大レバノン”は、旧レバノン県に比べて面積は2倍以上になりましたが、キリスト教系住民が人口の過半数を維持することを最優先にして、これ以上は拡大されませんでした。これは、フランスが“大レバノン”を、イスラム教徒が多数を占める内陸シリアから分離して、中東支配の拠点として育成しようとしたためです。


 ところで、当初、フランスの委任統治下に置かれたシリア・レバノンの全域では、共通の切手が使われていましたが、1924年、フランスの分割統治が軌道に乗ってきたことで、それぞれの地域で別個の切手が使用されるようになり、ここに取り上げた“大レバノン”加刷の切手が発行されるようになったというわけです。


 その後、フランスは1926年5月、委任統治下の保護国として“レバノン共和国”を創設。これにより、“大レバノン”という呼称は使われなくなりました。なお、現在のような完全な独立国家としてのレバノン共和国が発足したのは、1943年のことです。


 試験の解答としては、まず、フランスによるシリア・レバノン地域の分割統治政策に沿って、第一次大戦後、新たに“大レバノン”という行政区域が創設されたことをきちんと指摘したうえで、切手の説明をしているかどうかが大きなポイントになります。その上で、旧レバノン県との比較や、内陸シリアと“大レバノン”を分割しようとしたフランスの意図が説明できていれば、完璧といえましょう。

 試験の解説(1)

 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。


 僕の授業は基本的に通年科目なので前期試験はやらないのですが、1ヶ所だけ前期試験をやった学校があります。その試験には、当然、授業内容とからめて切手を題材に出題した問題もありますので、今日から何日かに分けて、その解説をしてみたいと思います。


 さて、初回の今日は、↓の切手です。


 エジプト・シリア合邦


 この切手は、1958年2月、エジプトとシリアの国家連合が成立し、アラブ連合共和国(UAR)が発足したことを記念して発行されたものです。左側がエジプトの発行、右側がシリアでの発行です。デザインは、エジプトとシリアの地図を「アラブ連合共和国」の文字の入ったアーチでつなぎ、新たな時代の夜明けを象徴する太陽を背後に配したものとなっています。“合邦”の表現として、両国ともに同じデザインの切手となっていますが、通貨の統合は行われなかったため、エジプトのミリーム(切手上の表示はM)、シリアのピアストル(切手上の表示はp)は、従来どおり使われています。


 いわゆるアラブ民族主義は、アラブ諸国は西欧の植民地主義によって分断されている現状を打破するためには、各国で共和革命を起こして西欧諸国におもねらない独立の民族主義政権を作り、そうした国々が連帯してアラブを再統合し、その力をもってパレスチナ問題を解決する、というプランを持っていました。


 1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)の結果、ナセルの権威はアラブ諸国でゆるぎないものとなり、彼の唱えるアラブ民族主義は大きな影響力を持つようになります。しかし、当時の東西冷戦の文脈では、アラブ民族主義は“ソ連寄り”というレッテルを貼られ、西側諸国は民族主義政権のエジプト・シリアの封じ込めを狙います。特に、シリアがヨルダンの民族主義者を支援して発生したクーデタを、ヨルダン王室がアメリカの支援を受けた鎮圧すると、シリア・アメリカ関係は極端に悪化しました。


 このため、外圧に抵抗する必要に迫られたシリアは、同じく民族主義政権のエジプトとの国家連合によって事態を乗り切ろうとします。そして、米英への対抗上、ソ連からの支援を受けて、経済建設を進めようとしたのでした。ちなみに、UARの大統領はエジプトのナセルで、シリアの大統領だったアサリは副大統領に就任しました。


 UARの誕生は、当初、アラブ民族主義の理想が実現に向けて動き出した第1歩として高く評価されました。しかし、政権内の指導権争いや、統制経済の度合いが強いエジプトの政策がシリアでも実施されていったことによる摩擦、さらには、経済的な格差に起因するシリア側のコンプレックスとエジプト側の尊大な態度などが絡み合い、国家連合の内実は悲惨なものでした。


 結局、1961年9月、シリアでクーデタが発生し、新政権はUARからの脱退を宣言。アラブ民族主義の盟主であったナセルの権威は大きく傷つくことになりました。


 試験では、上記のような歴史的背景に触れつつ、この切手について説明することを求めましたので、おおむね、僕がここに書いたようなことが書けていれば、その学生さんには、ほぼ満点を差し上げます。

 反米の世界史・拾遺

  『反米の世界史』の刊行から1ヶ月が過ぎ、ボツボツ、いろんな方からご意見・ご感想などを頂戴しています。その中で、ある読者の方から、「こんな話もあるよ」というご提案をいただきましたので、ご紹介しましょう。


 まずは、下の切手を見てください。


 マリエンヴェルダーの切手    米・第一次大戦勝利


 このうち、左の切手は、第一次大戦後、国際連盟の管理下に置かれていたマリエンヴェルダーで発行されたものです。マリエンヴェルダーはドイツとポーランドの国境地帯にあり、大戦後は連盟の管理下に置かれていましたが、1920年に住民投票でドイツへの帰属が決定されました。


 切手は、連盟の管理下にあることを示すため、女神の背後に4大戦勝国の国旗を掲げていますが、そのうちの一つが日章旗です。(ちなみに、外国の切手としては、これが日章旗を描いた最初の例となります)


 一方、右側はアメリカが発行した第一次大戦勝利の記念切手ですが、こちらも、女神の背後に主要な戦勝国の国旗を掲げるという構図を取っています。ところが、こちらの切手には、日章旗は取り上げられていません。


 第一次大戦を通じて、日本はアジア・太平洋地域での勢力を急速に拡大しましたが、そのことに強い警戒感を持っていたのが、フィリピンを領有していたアメリカでした。このため、アメリカは、アジア・太平洋地域の戦後処理として、ワシントン条約体制を作り上げ、“現状維持”の名の下に日本の拡大を食い止めようとします。


 アメリカの大戦勝利の記念切手に日章旗が取り上げられていないのも、そうしたアメリカの日本に対する警戒感が背後にあったのではないか、という推測は十分に可能なものと思われます。


 ワシントン条約体制は、いわば太平洋戦争のルーツともいうべきものですから、『反米の世界史』でも相応のスペースを割いて説明していますが、マリエンヴェルダーの切手とアメリカの切手を比較することはしていませんでした。まぁ、この話は“反米”というよりは“反日”に近いものではありますが、当時の日米関係を考える上で興味深いエピソードであることだけは、間違いないでしょう。

 スーパーJチャンネル

 突然ですが、先ほど、テレビ朝日から電話があり、本日夕方の「スーパーJチャンネル」にVTR出演することになりました。時節柄、昭和史ネタのコメントです。


 放送時間の関係で、14:00までにスタジオ入りしなくてはなりませんので、いまから家を出ます。


 詳細は、帰宅後、ご報告いたしますので、今しばらくお待ちください。


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 たったいま、撮影が終わって戻ってきました。


 今回は、幻といわれていた国策映画のフィルムが3本(「東亜の鎮め:陸軍記念日を祝う歌」、「愛国行進曲」、「生きた慰問袋」)が発見されたので、その内容について、簡単にコメントするという仕事でした。


 3本とも、いわゆるプロパガンダ映画なのですが、それなりに興味深い点もいくつかありました。


 「東亜の鎮め」では、各国の軍事的脅威を国民に見せ、だから日本の陸軍も頑張らないといかんのだ、という作りになっていましたが、各国の軍事力の紹介部分は各国の宣伝映画からパクっているため、歩兵の行進ばっかりの日本軍にくらべて、アメリカやソ連の強さばかりが目立ってしまい、おもわず、「これじゃ戦争に負けるのも仕方ないわな」と思ってしまいました。


 2番目の「愛国行進曲」は、あの「愛国行進曲」を広めるために作られたもので、一部、現在のカラオケにも通じるつくりなのが新鮮です。


 3番目の「生きた慰問袋」で、慰問袋を作る女性や子供の映像とか、慰問袋の中身、袋の集荷・配布の様子など、資料的には、いちばん興味深く見ることができました。


 放送は18:15~18:20ごろからの3分程度ということなので、僕自身はまぁ30秒も映れば御の字でしょう。ご興味をお持ちの方は、その時間、テレビ朝日系列(東京では10チャンネル)をご覧いただけると幸いです。

テロリスト図鑑(5) アブラハム・シュテルン

 昨日の日記にも少し書きましたが、イギリスの委任統治下にあったパレスチナでは、ユダヤ系入植者を受け入れることになっていましたが、在地のアラブ系パレスチナ社会の実情を考慮して、受入数には制限がありました。その制限が緩和されると、入植者が増えてアラブ系が反発し、逆に、制限が厳しくなると入植できなくなる移民希望者が増えてユダヤ系あるいはシオニストが反発。それぞれ、パレスチナ社会の不安定要因になるという状況が続いていました。


 こうした中で、シオニストの立場から、イギリスからの独立を唱えて過激なテロ活動を展開し、1978年にはイスラエル建国の“英雄”として切手にも取り上げられたのがアブラハム・シュテルンです。


 アブラハム・シュテルン


 アブラハム・シュテルンは、1907年、ポーランドで生まれ、1925年にパレスチナに移住しました。その後、フィレンツェ大学で西洋古典学を学ぶため、一時、パレスチナを離れますが、1929年、ハガナ(シオニストの民兵組織。現在のイスラエル国防軍の前身)に加入します。しかし、1929年のアラブ側の大規模な反ユダヤ暴動を機に、シオニストたちの間には、より直接的にユダヤ国家の独立を目指す勢力が生まれ、彼らは1931年にイルグンを組織。アブラハムも、このイルグンに参加しました。


 さて、1939年、シオニストたちを激昂させた「マクドナルド白書」が発表されると、アブラハムは、イルグンと袂を分かって、レヒ(イスラエル解放戦士団。ただし、この名前が正式に採用されるのは彼の死後のことです)を組織。パレスチナへのユダヤ系移民の入植を制限するイギリス当局に対するテロ活動を展開し、イギリス当局によって逮捕・投獄されています。ちなみに、レヒは反英テロリストとして名を売ったリーダーのアブラハムにちなんで“シュテルン・ギャング”と呼ばれていました。


 アブラハムは、イギリスを打倒するためなら、ユダヤ最大の敵であったナチス・ドイツと手を組むことさえ厭わないと主張しており、イギリスの戦争遂行上の大きな障害となっていました。このため、1942年2月、イギリス当局は彼を暗殺します。


 しかし、レヒのテロ行為はその後もとどまるどころか、いっそう過激化し、1944年のイギリスの植民地大臣ウォルター・モインの暗殺、1948年4月のデイル・ヤーシーン村でのアラブ系住民254人の虐殺事件、同年9月のスウェーデン赤十字総裁フォルク・ベルナドッテ伯暗殺などを通じて、“シュテルン”の名は凶悪なテロリストの代名詞として全世界に広く知れ渡るようになりました。その一方で、彼らのテロ行為が、結果的に、パレスチナからアラブ系住民を追い出し、イスラエル国家の建国を前進させることになったことも事実で、そのことが、現在のイスラエル国家はシュテルンを“英雄”視する原因となっています。


 いずれにせよ、パレスチナをめぐる“テロ”というと、どうしても日本ではアラブ側のやることというイメージが強いのですが、イスラエル国家が建国されていく過程では、シオニスト側も相当に過激なテロを展開していたことを見逃してはならないでしょう。

 リトアニアのユダヤ人

 第二次大戦下の1940年、リトアニア には、ナチス・ドイツの迫害を逃れてヨーロッパから脱出しようとするユダヤ系難民があふれていました。彼らに対して、7月18日から9月4日までの間に、2000枚以上の日本通過ビザを発給した杉原千畝のエピソードは、広く知られています。(杉原千畝については、大正出版の社長で、牛切手の世界的なコレクターでもある渡辺勝正さんの『杉原千畝―六千人の命を救った外交官 』、『決断・命のビザ 』、『真相・杉原ビザ 』が詳しいので、ご興味をお持ちの方は、ご一読をおすすめします)

 さて、そのことにちなんで、今日はこんなカバーをご紹介しましょう。


 リトアニアのカバー


 このカバーは、まさにこの時期のリトアニアからパレスチナ宛に差し出されたカバーで、封筒にはリトアニア語・ヘブライ語・英語で「100万人のユダヤ人がイギリスによるバルフォア宣言の履行を求めている。ユダヤ国際嘆願書に署名しよう!」との文言が入っています。


 “バルフォア宣言”というのは、第一次大戦中、イギリスが、外相バルフォアの名前で、イギリス・シオニスト連盟会長ロスチャイルドに送った書簡の中で、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する」ことに同意をしめしたものです。イギリスがヨーロッパやアメリカのユダヤ人の支持を獲得し、また、ユダヤ系財閥の財政的支援を取り付けるために出されたもので、戦後、独立アラブ国家の建設を認めていた“フサイン・マクマホン協定”とは明らかに矛盾するもので、現在のパレスチナ問題の直接的なルーツといってよいでしょう。


 大戦間期のパレスチナでは、このバルフォア宣言をもとにパレスチナにユダヤ系移民が大量に流入したことで、在地のアラブ系パレスチナ人との間に摩擦が絶えませんでした。これに対して、パレスチナを委任統治領としていたイギリス当局の政策はまさに行き当たりばったりで、問題の解決は先延ばしにされていましたが、1939年、アラブ人の土地所有の保護や、ユダヤ人入植者の大幅な制限、アラブ主導のパレスチナ国家の独立をうたった“マクドナルド白書”をパレスチナ統治政策の柱として打ち出します。


 当然、シオニスト側は、マクドナルド白書に反発します。特に、ナチスの迫害を逃れてパレスチナへ避難することを求めるユダヤ人が急増している中で、パレスチナへのユダヤ人の入植を制限しようとするイギリス当局の姿勢は、彼らの目からすれば、バルフォア宣言を反故にした裏切り行為以外の何者でもありませんでした。


 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の中でつくられたもので、バルフォア宣言の履行、すなわち、パレスチナでのユダヤ国家の建設とユダヤ系移民の入植制限の撤廃を求めたものです。ナチスの迫害で生命の危機にさらされている彼らとしては、まさに必死の訴えだったといえます。


 

 切手市場とガレージセール

 昨日は久野徹さん主催のイベント、切手のガレージセール・横浜 (以下、横浜ガレージ)に出かけてきました。例によって、『反米の世界史』の行商(笑)です。


 久野さんのイベントは、以前は目白でやっていたのですが、今年の6月から会場をパシフィコ横浜に移し、目白のほうは高崎真一さんが切手市場 というかたちで引き継いでいます。横浜ガレージ、切手市場ともに、原則毎月開催です。


 さて、今月は6月20日に『反米の世界史』が刊行されてから1ケ月以内ということなので、切手市場・横浜ガレージの両方にテーブルを出して本を売らせてもらいました。


切手市場の写真  切手市場のときの写真です。


 どちらのイベントも基本的には切手を買いにくるお客さんを対象としたフリーマーケット形式のものなので、僕の本が飛ぶように売れるというわけには行かないのですが、それでも、1日(切手市場の場合は午前中のみ)、テーブルの前に座って本を並べていると、ポツポツ、お買い上げいただく方がいて、最終的にはそこそこの売り上げになります。まさに、「ちりも積もれば」といったところでしょうか。


 それよりも、著者としてお客さん(読者の方)と直接お話ができるのは嬉しいものです。やっぱり、今後のマーケティングのためにも、切手収集家の方々の反応というのは押さえておきたいですから。


 今後も、新しい本を出したときなど、機会があれば切手市場や横浜ガレージには顔を出すつもりです。その場合には、このページでも告知しますので、このページを書いている内藤が、一体どんな奴なのか、実物を見てみたいという方は是非、遊びに来てください。

 テロリスト図鑑(4) 辛光洙

 現在の日本人にとって、最も身近な話題となったテロといえば、北朝鮮による拉致事件ということになりましょう。


 その実行犯の一人で、原敕晁さんを拉致した北朝鮮の元スパイ、辛光洙(シンガンス)が、北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんと横田めぐみさんの教育係であったことが2~3日前の新聞等で報じられ、話題となりました。


 辛は、北朝鮮の元工作員で、1980年6月、原さんを宮崎県の青島海岸から誘い出し拉致し、その後は原さんになりすまして日本のパスポートを取り、アジア各国で出入国を繰り返していました。そして、1985年に韓国で逮捕され死刑判決を受けたものの、1999年末に恩赦で釈放され、2000年9月、非転向長期囚として北朝鮮に送還されました。


 ちなみに、非転向長期囚を迎えた北朝鮮は、2000年12月、彼らの帰還の日の写真を取り上げた切手の小型シートを発行し、その余白に非転向長期囚の顔写真を並べています。(↓)


 非転向長期囚    シンガンス


 小型シートに取り上げられた非転向長期囚のうち、下から3列目の一番右側には、辛の顔もしっかりと取り上げられており(下はその拡大図です)、北朝鮮側が辛を“英雄”視していることが分かります。


 国家テロの実行犯を“英雄”として切手に取り上げるという神経は、我々には到底理解しがたいものですが、それこそが、“テロリスト国家”の面目躍如ということなのかもしれません。

 幻の東京五輪

 1940年の皇紀2600年にあわせて、東京オリンピックと万博が計画されていたものの、日中戦争によっていずれも中止に追い込まれたことは広く知られています。


 1940年にオリンピックを東京で開催することが正式に決まったのは、1936年7月31日(ベルリンオリンピック開会式の前日)。日本政府が正式に大会の開催中止を決定したのは1938年7月15日でしたから、この間、日本では1940年のオリンピックを宣伝するマテリアルがいろいろと作られました。↓のカバー(封筒)もその一例です。


東京五輪宣伝カバー


 カバーの封筒は、日本郵船がつくったもので、同社の所有する客船の船室にも備え付けられていたものと思われます。このカバーの場合は、1938年3月、同社の所有する龍田丸の乗客がアメリカ宛に差し出したものです。なお、この封筒は大量に作られたため、大会の中止が決定された後、オリンピックの文字を抹消して使用されました。


 1940年の東京オリンピック関連のマテリアルは、“幻のオリンピック”のドラマ性もあって昔から人気があり、マーケットではそれなりの値段で取引されています。


 中国政府のオリンピック開催能力に?が付けられたり、新たにオリンピックの会場となったロンドンがテロに見舞われたりしていますが、今後も“幻のオリンピック”が生まれる可能性はあるのでしょうか。


 もっとも、仮に中国でのオリンピック開催が不可能となったとしても、すでに2008年のオリンピックに向けて中国が発行した切手類は大量に市場に出回っていますから、それらが“お宝”になるのは期待できそうにありませんが。


 

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 (詳細は同イベントのHP をご覧ください)


 

 テロリスト図鑑(3) ロベスピエール

 “テロリズム”という言葉は、フランス革命時のジャコバン派による“恐怖政治(regime de la Terreur 1793年6月 - 1794年7月)が語源となっています。で、その恐怖政治の主役だったのが、今日ご紹介するロベスピエールでした。


 マクシミリアン・ロベスピエールは、もともとは弁護士で、1789年、三部会にアルトワ州の第三身分代表として参加しました。同年、革命が起こると、最左翼ジャコバン派に属して頭角を現し、国王ルイ16世の処刑問題では主導的な役割を果たしました。革命の収束をめざすジロンド派内閣と対立し、サンキュロット(職人などの労働者庶民階級)の支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放。同年7月、彼は独裁的な権力を掌握します。そして、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して、“恐怖政治”を断行し、反対派を次々とギロチン台に送って粛清し、独立小生産者による共和制樹立を目指しました。1793年10~12月までの処刑者は177名です。


 しかし、革命後の混乱の中でジャコバン派の経済統制は期待された成果を挙げることがなく、ハイパーインフレが進行。また、革命で土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者が保守化し、ジャコバン派の独裁と恐怖政治に対する不満が強まるなかで、1794年7月27日反ジャコバン派の起こしたテルミドールのクーデターによって逮捕、処刑されました。


 ロベスピエール


 さて、ロベスピエールの肖像は、1950年に、彼に処刑されたダントンら他の革命指導者とともに寄付金つき切手に取り上げられています。


 ロベスピエールに関しては、死後ながらく、恐怖支配を主導した“ルソーの血塗られた右手”とのネガティブ・イメージが強かったのですが、20世紀になると、彼個人の清廉潔白なキャラクターが見直され、恐怖政治は革命を守るための非常手段であったという再評価がなされるようになっています。切手の発行も、そうした歴史の見直しに沿って行われたものであることは間違いありません。


 7月14日のフランス革命記念日ということで、今日は、元祖“テロリスト”のロベスピエールを取り上げてみました。



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