信長公の四十九歳の考察その二。 | ガーラ・アマノ 天野 洋介オフィシャルブログ【一杯やるっすべ〜!!】

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ガーラ・アマノの天野です。「秋田のいいモノ、お国言葉でご紹介!口上人」プロデューサーと2013ミスユニバース秋田代表・久杉香菜のマネジメントをしております。Web制作、TV番組・CM制作、CGI開発など、秋田のNo.1クリエーション企業を目指して奮闘しています。

続きです。
なぜ、信長公の晩年に興味があるか。

公は、長年重臣として重用していた、佐久間信盛親子をある日突然追放するのである。
信長公のお父上、 織田信秀の代から長年仕えて来た重臣を、である。

その理由と言うのが、信長折檻状に残されているのだけど、簡単に言うと

▼光秀、秀吉はあんなにがんばって、領地を拡大しているのに、お前さんたち親子は
石山本願寺攻略に何の長略もできず、数十年もかかった。

▼数十年前、親父信秀の家督相続の際に、お前さんたちは、弟に味方し、
俺を殺そうとした。

こうである。

実は、この信秀公死去の際に、信長公の弟、信行と家督争いの際に、後の
信長の筆頭家老、柴田勝家(権六)も信行側につき、信長の謀殺に一枚かむ
のであるが、勝家はおとがめなしなのである。

さらに言うと、そんなに何十年も前の話をなぜ今さら。。。と言うのが
率直な気持ちだったと思う。

信盛親子は、織田家の筆頭家老から高野山追放へと、その人生を大きく
変貌させられる事になる。
 数十万の石高があった領地もすべて没収され、高野山に向かう際には
お供も数人だったらしい。

なぜ、信長公はそんな事をしたのか。
四十九歳間近の信長公に何があったのか。

信長の跡継ぎは、光秀だったと言う書物もあるくらい、光秀を重用して
いたのに、なぜ光秀は謀反を起こしたのか。

光秀公は、本当に知識人で、素晴らしい方だったらしい。
秀吉の様な卑しい下賤ではなく、今で言うエリート中のエリートだった。
その光秀が、なぜ五月終わりの雨の日に、謀反を愛宕神社で誓ってしまったのか。

色々な事が重なる、信長公の四十九歳と言う歳。
そう、その信長公の心の変化を知るのは、今同じ歳のこの年しかないのです。

四十九歳、と言う年には何があるのだろうか。
それを知りたい、と思っています。