「人間50年、化天のうちに比ぶれば」と織田信長が舞ったのは、16世紀。

今は21世紀、500年の間に、人生100年時代を迎えている。

人間50年の本当の意味は、違うところにあるようですが。

金なく、力なく、貌なく、人なく、ないないづくしの私には

日々自分の愉しみを追っていくことぐらいが関の山である。

 

このエッセイは、2019年4月の作品です。

 

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遅すぎる?

 

 最近、はまっているものがある。ユーチューブである。欲するものは大抵ある。今年のピアノの発表会の連弾曲を何にしようかと検索したら、「いきものがかり」の「ありがとう」が出てきた。初心者コースでしかも楽譜までも案内がしてある。ピッタリである。ヤマハのプリント楽譜で購入し、早速、練習にはいる。昔だったら、曲選びにも難渋するだろうし、楽譜を見つけるのも一苦労したことと思う。検索から楽譜購入まで三十分。便利である。

 今、この原稿を書きながら、テレビ画面には、森昌子のライブの映像が流れている。ユーチューブである。パソコンとテレビをHDMI端子でつないでいる。パソコンの小さな画面をテレビの大きな画面で見ることが出来る。こうして、いろいろな人のいろいろな曲が聞ける。自動的に。検索をかけると好きな曲も聞ける。実に、便利である。

 私は、何事も始めるのが遅いようである。ギターは二十歳過ぎ、小説と卓球は五十歳過ぎ、ピアノは六十六歳から。それでも楽しくはやっているのだが、披露する程の、自慢する程の腕ではない。今の時代、十代で世界のトップと覇を競い合っている。その人たちは三歳ぐらいから打ち込んでいるようである。そんな環境が整っているということでしょう。私が生まれた時に家にあったものは、電化製品では電灯ぐらいか。これでは、何かに打ち込む余裕はない。

 それでも、人生百年時代と言われる今、遅すぎるということはないと思う。仕事を辞してから、ニ、三十年はある。その間に、趣味もなく、ライフワークも持たず、地域との関わりもないとしたら、どのようにして過ごすのでしょうか。私には耐えられません。だから、遅すぎるということはないのです。やりたかった事はありませんか?行ってみたい所はありませんか?書き残した事はありませんか?遅すぎるとか今更とか、考えないで、本当にやりたいことがあれば、遅すぎるということはないのです。私は、まだまだ謳歌するつもりです。好きな事だけを!

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自分がやっていることが誰にもどこにも貢献していない。

でも、80億の一人でもヒットしていれば、それはそれで良い。

 

それも亦愉しからずやです。