70数年生きてきた。

大過なく、無事に。

でも、貴人ではありません。

 

このエッセイは、2016年10月の作品です。

 

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無事是貴人

                           森田 義夫

 

 「ぶじこれきにん」

 この言葉に出会ったのは、高校生の時だっただろうか。その時は、「ぶじこれきじんなり」と、読んでいた。黒板に書いた古文の先生が、確かにそう言った記憶がある。無事という言葉には、健康、平穏、安心というようなイメージがあった。波乱万丈の人生も大過ない人生もある。私は、後者だ。

それはそれで貴人の中に加えていただければ、良しとしていた。

 しかしながら、この言葉、禅語で、もう少し深い意味があると最近知った。読み方は、冒頭の「ぶじこれきにん」だそうだ。大きな病気もせず、毎日、平穏で安心して暮らしていたら、結構なことだが、どこか薄っぺらな人生にも思えてくる。ここでいう無事とは、外に対する欲望(馳求心『ちぐしん』というそうだが)を捨て去って、さわやかな心境に達することだそうだ。現状を考えると、健康だし、幸せだし、眠れない程(酷暑で眠れない時はあるが)の悩みもない。これでは、薄っぺらな貴人でしかない。馳求心を捨て切るとは、どういう心境だろうか。例えば、幸せや健康や平穏というものを自分の外に置いて、それを求めないということであり、それは、既に自分の中に備えられているということである。だから、外に向かって求める必要はない。しかも、爽やかな心境にあるということである。ここが難しい。ブレルのである。自分の中にある幸せは、ともすれば他人と交わることで簡単に崩れてしまう。そして、最終的には、自分の幸せを追認するのだが、そこには、もはや「爽やかな心境」と呼べるものはない。限りない妥協があるのみである。

 自分のありのままの姿を認め、それを良しとし、馳求心を捨て切るには、誰かが自分のことを「大丈夫」と太鼓判を押してくれる人が必要である。いや、人ではいけない。無限にして偉大なるもの、すべてを知り尽くし、覆い包んでくれるもの、その存在に気づき、その存在の中で生かされているという体験を得ることである。そこに、「さわやかな心境」が生まれ、何に出会っても、ブレルことなく、過ごすことができる。嗚呼、貴人には程遠きなるかな。

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最近、ある方から、「波乱万丈の人生だね」と言われた。

私にはふさわしくない生き方である。

貴人でもなく、才能の人でもなく、ただただ普通に生きたかった。

何が普通なのかは、分からないが・・・。

 

それも亦愉しからずやです。