これは、確か、「余暇草」の巻頭言だったかな?
この時期は、比較的本を良く読んでいたようだ。
今は、ほとんど読まない、聖書以外は。
本屋の平積みが私を呼ばない。
だから、本屋にも寄らない。
コロナ以降、それが顕著である。
このエッセイは、2015年7月の作品です。
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未来草稿
草枕、文鳥、霧の城、鬼弾、悪党の戦旗、朝の霧、のぼうの城、忍びの国、
信長の血脈、剣と紅、三好長慶、前田慶次郎、崖っぷち侍、花の館、刀伊入寇、
沙門空海唐の国にて宴す、長曽我部最後の戦い、実朝の首、箱根の坂、光圀伝。
漱石を除いて時代小説あるいは歴史小説に類する本である。今年は、何だか歴史物を無性に読みたくなった。年間百冊を読破すると感嘆の声が聞こえそうだが、五十数冊では、中途半端な数である。しかし、これが僕の限界だ。
読むと書きたくもなる。書くと行き詰まる。またぞろ、読みたくなる。そして、ペンを執る。そこに成長した自分を見出すのは皆無に等しい。陳腐な文章でもマンネリズムな表現でも独りよがりな言葉でも、それはそれでいい。何を伝えたいかは、ない。読んだ人が何かを感じれば、それがメッセージだ。自分を分かって欲しいという気持ちは、ない。自分自身も分からないのに他人が分かるはずがない。でも、書きたい。残された未来に向けて、読破した本がそのまま私の草稿だ。
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いま、エッセイ集の編集作業中だ。
「手ほどの雲 その一」
書いたエッセイに、その時の心情、状況、環境等々を加筆している。
自分の生きた証しにもなるので、それはそれで面白い。
それも亦、愉しからずや」です。