作家久坂葉子の事は、今の今まで忘れていた。

自分が書いたエッセイを読みながら、思い出していた。

あの時の感動というか、ワクワクドキドキはどこへいったのだろうか。

そういえば、今はほとんど感動はない、でも、涙は流れる。

 

このエッセイは、2013年1月の作品です。

 

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作家久坂葉子のこと

 

 彼女の名前を初めて目にしたのは、日本経済新聞のコラム「春秋」の中だった。心惹きつけられたキーワードは、「伝説の作家」「女太宰治」「男爵家出身」「川崎製鉄所創業者のひい孫」「二十一歳で鉄道自殺」、恥ずかしながら一度も聞いた記憶がない作家。そんな彼女に魅入られてしまったのだ。早速、数箇所の書店をあたってみたが、品切れか絶版。芥川賞にノミネートされた「ドミノのお告げ」は絶版、自殺前に書かれた「幾度目かの最期」は品切れ。でも、「幾度目かの最期」の方は、一月末に重刷する予定だとのことで、注文することにした。久しぶりに気持ちが昂揚し、何だかわくわくしてきた。待ち遠しいのだ。ところが、何気なく総合図書館のホームページから検索してみたら、「久坂葉子全集」も「ドミノのお告げ」も備えていたのだ。何でもっと早く気づかなかったのかと思いながらも予約を入れた。全集も「ドミノのお告げ」もすぐに手元に入ってきた。でも、書店で注文したことには悔いはなかった。手元に一冊ぐらいは持っておきたかったからだ。

 早速、「ドミノのお告げ」を読み始めた。没落貴族の話。主人公の雪子は二十代半ばで独身、賭け事好き。父は喘息持ちの寝たきり病人、母は神霊教という神道の一派の信者。兄は、肺結核で入院中。弟は音楽を目指している学生。みんな働いてないのに、どうして生活をしているのか。家にある財産を売って生活をしているのだ。雪子は、世間体があるという理由で働くのを両親から止められている。しかし、両親に見つからないように働いて何がしかの収入を得ている。ある日、貴金属を売りに町へ出かけ、何とはなしに八卦見でみてもらうと、「今月中に動という字が出てますから、何か、あなた自身か家族に変動があると思います」ということだった。これが、「ドミノのお告げ」だ。ドミノというのは象牙でできた西洋カルタ即ちトランプである。その翌日、いつも咳をしている父親が静かなので部屋を覗いてみると自殺をはかって既に死んでいた。葬式を終えたある日、親戚四人でカードの卓をかこんでいた。賭け事をしながら雪子は述懐する。「この時だけ命を燃やしていると感じる」と。ここには、雪子が、「人生は賭け、そうであるならば賭けに生きよう」という決意がにじみ出ている。

 太宰治の「斜陽」に似た雰囲気で物語は進んでいくが、私が生まれた翌年に阪急六甲駅で電車に飛び込み自ら命をたってから六十年、今私がこの作品に出会ったのは何の意味があるのだろうか。また、久坂葉子という作家に惹かれたのは何なのだろうか。「今知らず、後に知るべし」だろうが、ただ、今言えるのは、何篇かの作品を読み進むうちに自分の感性に近いものがあるということだ。言わば共感できる作品のひとつということだ。

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11年前は確かに共感し、彼女の本を読んだはずだが、あまり覚えていない。

その時の感動も共感した事も記憶にない、加齢の為なのか?

忘却とは、忘れ去ることなり、忘れえずして、忘却を誓う、心の空しさよ。

誓わなくても、忘れてしまっているのも、虚しいものです。

 

それも亦愉しからずやです。