隠居 ・・・ 江戸時代のテレビや映画を見ると、朝から釣り竿片手に釣りへ

       帰ってからは、近所の友と碁をうち

       家に帰って晩酌というようなイメージでしょうか

さて、現代のご隠居さんはどうしているのでしょうかね。

もはや隠居という言葉もその人自身もいないのかも

 

このエッセイは、平成24年9月の作品です。

 

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隠居の時代へ

 

 隠居のイメージは、例外はあったとしても決して若くはない。忙しい仕事の時間はなくても趣味を楽しむ時間はある。ローンを組むだけの余力はないが、今を楽しむだけの蓄えはある。子供は、もう独立していて、何の憂いもない。自分の好きな事だけに自由に時間を使える。ライフワークの集大成のために生き生きとしたプランを持っている。

 だが、しかし、果たして隠居生活をしている人がどのくらいいるのだろうか。細川護煕のような殿様でないと一般庶民ではそれは、はなはだ難しいものがある。「明日から隠居」と宣言できるだけの余裕が欲しいものである。現実を見ると、死ぬまで働き続けなければならないし、今を楽しむどころか、日々の糧を得るのに必死である。子供の将来もいつまでたっても不安といえば不安である。これでは、自分の時間が持てないし、ましてやライフワークなぞ夢のまた夢である。

 最近、街を歩いていても、車を運転していても、人々の動きが見えない。予測不能なのだ。ゆったりと道を渡る人たち、車が近づいても振り向きもしない。クラクションを鳴らしても平然としている。赤信号を渡る人たち、急いでいるのかと思ったら、渡り終えるとなおもゆっくりと歩いている。駐車場の出入り口に平気で駐車している。駐車場は空いているのに、路上駐車している。右ウインカをあげているのに、急に左に曲がる車がある。見ると、お年寄りだ。人口が多いせいか、お年寄りが目立つ。みんな、何かに向かって急いでいるようだが、果たして何かを掴んでいるのだろうか。

 そこで、私も早めの隠居生活を始めることにした。何かを掴むどころか、生きているのさえ分からないようになる前に。しかし、イメージとはかけ離れたものとなるかもしれない。まず、仕事は死ぬまでやめられないので、続けざるを得ない。そうすると、残された時間は極めて限られてくる。その中で優先順位を決めていくと、私にとって順位の低いものは捨て去るしかない。優先順位が一番高いのは、ライフワークの集大成である。創世記から黙示録までのメッセージ化である。今はヨブ記が終わる所だが、ここ三ヶ月ほどは滞っている。次に、趣味で書いている小説、十一月までに七十枚程書かなければならない。これも進んではいないのだ。そうすると、時間を圧迫しているものを切り捨てなければならない。まずは、管理組合の仕事を今年度でやめることにしよう。午前様の仕事もきついし、小さな数字を追うのも辛いことだ。それに何よりも緊張感がなくなってきた。他にも多くの時間を割かれていることがある。少しづつ整理することにしよう。来年は息子の結婚も娘の就職もほぼ決まっている。余裕の隠居生活ではなく、切迫の隠居生活になりそうだが、心だけにはゆとりを持ちたいものである。せめて、道路を横断する時ぐらいは、笑顔の会釈を返したいものである。

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私が仕事を持ってないなら、自由気ままな隠居暮らしでしょうが、

今のところ、まだ仕事に忙殺されています。

 

それも亦、愉しからずや です。