自分で書いたエッセイなのに、その真意が分からないエッセイが多々ある

その一つがこのエッセイである。

多分、言葉に酔っていたのでしょう。

どこかにあった表現を使ってみたかったのでしょう。

無価値な体験を何か価値あるものとして綴ってみたかったのでしょう。

 

2011年11月の作品です。

 

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恋と愛のはざまで

 

♪ 逢っている時は、何ともないが、さよならすると、涙がこぼれちゃう ♪

 

 布施明が歌う「恋」の一節であるが、恋は一緒に住めない人に対する憧れの気持ちである。だから、逢っている時の気持ちと逢えない時の気持ちの落差が激しい。逢っている時でも、別れる時が来るのを知っているので、だんだんと息苦しくなってくる。そして、その対象は極めて狭い。その人しか見えないのである。「恋は盲目」と言われるのもその所以なのかもしれない。そう言う意味で、私が恋をしたのは、ただ一人、あとにも先にも一回だけである。でも、苦い思いだけが残っている。恋とはそういうものなのかもしれない。

 

 ♪ 愛、あなたと二人 花、あなたと二人 恋、あなたと二人 夢、あなたと二人 ♪

 

 ここに出てくる愛は全世界にまたがり、花にも夢にも空にも丘にも、恋までをも包含したものである。この全世界を愛する気持ちや花や空を愛する気持ちは私にはない。自分独りで恋する分には良いが、二人で育てる愛の感覚はない。愛には犠牲的な愛があり、友情的な愛があり、家族的な愛があり、肉体的な愛がある。私にあるのは肉体的な愛のみである。つまりエロスの愛のみなのである。ここまで言い切ると誤解を招くような気がするが、ただ私の中でいつも欲望と理性の戦いで理性がわずかに勝っているだけである。

 

 恋と愛のはざまで私は沈黙する。確かに今も恋をしている。されど、若い時のようなときめきもなければ、「恋は曲者」というような行動もとらない。ましてや、映画「卒業」のラストシーンに至ることはない。これが恋といえるのだろうか。告白もなければ、熱意もない。いや、私の頭の中では、確かに告白し、熱く語り、激しく求めてはいる。しかし、それは全く表には出ないことである。もはや恋ではない、友情的な愛にとどまるものでしかない。だけど、♪ 僕のこの胸は 恋にふるえてる ♪ この気持ちを何としよう。

 

 恋と愛のはざまで私は葛藤する。恋愛と言えるかどうかは判らないが、そんな時期があり、結婚して、子どもが生まれ、やがて子どもに手がかからなくなり、夫婦だけとなってゆく。しかし、ここに私の愛は注がれてきたのだろうか。妻への愛はあったのだろうか、子どもへの愛はあったのだろうか。確かに一緒に暮らし、一緒の空気感を味わい、一緒に時代を生きてきた。だけど、そこには本当の私が見えてこない。あるのは醒めた姿だけである。ルシファの目のように漠然とした不安をみつめている姿だけである。

 

 そして、やがて私は恋にも愛にも関係なく、ただただ呼吸をするだけの人間になってゆくのだろうか。いや、それはよそう。恋と愛のはざまで沈黙せざるをえなくなっても、無意味な恋、無価値な愛になろうとも、息を引き取るその刹那まで恋を語り、愛に溺れることにしよう。それが、生きてきた証しなのかもしれないから。

 

 ♪ 逢うたびに嬉しくて 逢えば又切なくて ♪

♪ 逢えなけりゃ悲しくて 逢わずにいられない ♪ 

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やっぱり良く分からない。

自分でも分からない、説明できない、そんなエッセイを読んで

他人が分かるはずはない。でも、それらしき説明を加えてくる人も出てきたりして、

 

それも亦愉しからずや です。