団地の中に、文章クラブができた。

平成13年の事だから、今年で22年目である。

半年に一回発行しているのが、「余暇草」、今年5月で第41号、

最終号である。講師のT先生が一身上の都合で引っ越されたので、

余暇草メンバーも第41号を発行して、解散することとなった。

22年の歴史に幕を閉じたのである。

 

このエッセイは、その思い出を綴ったものである。

平成23年の作品なので、10年の思い出という事になる。

 

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 思い出十篇

 

 始まりは、廣岡さんの一言だった。「余暇草創刊号」を見ながら、「文章講座に来ませんか?」義父の家に立ち寄った時の出来事だった。ここから余暇草ライフがスタートしたのである。

 

 余暇草第二号にデビュー作が掲載された。「三つの顔」十年経った今は二つの顔ぐらいだろうか?昼も夜も働いていた時代、確かに十年前は若かった。外なる人は衰え続けるが、内なる人は日々新たなり、といきたいものである。

 

 平成十六年は、一発屋の匂いがする賞をいただいた。この十年、後にも先にもこの賞が唯一の賞である。そう言えば、最近応募することさえ忘れてしまっている。忙しいのを言い訳にはしたくないが、何かと忙しいのである。

 

 創刊号からいるメンバーは多賀先生を除くと二名。牛島さんと重岡さんである。他界された人、引越しされた人、また新しく入ってこられた人、辞められた人、それぞれの個性が余暇草を彩っている。ちなみに、私と中村さんは二号から、江島さんは七号、堤さんは十号から参加されている。

 

 久保さんを最後に見かけ、話したのは平成十八年だったろうか、義父を迎えに行った福大病院の待合室で息子さんと二人で座っていた。「検査入院なの」と明るく応えられていたが、程なくして、天国へと旅立ってしまった。

 

 毎年五月は、JOMO童話の締切日である。毎年毎年ぎりぎりで郵送するのだが、送られてくるのは「童話の花束」という本のみ、「大賞です」という電話が欲しい。でも、数千という作品の中から選ばれるのは至難の業か。提出する度に無力感もひとしお。

 

 平成二十年頃になると、手作りの余暇草作業も板につき、HPも整い、メンバーも落ち着き、順風満帆の安定行路を突き進んでいるように思えたが、私自身は創作にマンネリを覚える頃だった。殻を破りたいが破れない自分がそこにいた。

 

 この頃、武田さんが加入され、私の「ぎんなんの笑顔」という童話を読んで、「東京育ちですか?」と尋ねられたことがあった。(私の中に都会的センスがあるんだ)というような勘違い人生はまだまだ続いているのである。今も・・・。

 

 余暇草第十五号からは、賑やかな永尾さんが加入することとなる。口では謙遜しておられるが、どうしてどうして文章は相当なものである。隅に置けない存在となった。

 

 こうして十年が経過すると、その重みをズシッと感ぜずにはいられない。この重みに耐えかねて発展的解消をするのか、はたまた、その重みを糧に次のステップに進むかは、明日の心だ。

 

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第40号で記念のユーチューブを造り、第41号が最終号となりました。

何となく、もうそろそろかなと思っていましたので、

ユーチューブを造り、アップしました。

先生の姿もアップされています。

「先見の明」ありという事か、ちょっと寂しい気もしますが・・・。

先生の引っ越し理由を聞くと、人生何が起きるか分かりません。

来年には、その理由も語れそうですが・・・。