ライフワークは、着々と進んでいます。

旧約聖書は、来年で終わる予定です。

新約聖書は、こつこつとやっていきます。

予定では、あと、5年ぐらいで終わる予定です。

 

このエッセイは、平成23年5月に書いたものです。

今から12年前になります。

 

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ライフワーク

 

 何のインパクトもない我が人生なんだが、ライフワークと呼べるものがひとつある。それは、聖書の創世記から黙示録までの一章一章をメッセージ化することである。一九九九年から始めたので十二年になる。今はエステル記に入っている。黙示録の最終章にたどり着くまで後二十年はかかるであろう。

 何でこのようなことを始めたのか。それは、一九九○年まで遡らねばならない。その年に会社を辞し、未知の世界へと旅立った。自分の夢を実現させるというよりも、妻の夢を実現させるために自分を捨てる旅でもあったのである。しかし、そのことに気づくのは随分後のことではあるのだが。取りあえず、母教会へ戻ったものの受け入れてもらえず、霊的指導者を求めてさまよい歩き、最後に拾われたのが、韓国の教会だった。そこで六年程霊的指導を仰いだもののカルト集団だったので、心も体も家庭もぼろぼろとなり、**団地へと引っ越してきた。自分の無力さとキリスト教会の不条理さに二度と戻るまいと決意して。イエス・キリストは好きだが、イエス・キリストを信じる人たちは大嫌いとなってしまった。

 かくしてすべてを失ってしまった私は途方に暮れてしまった。明日からの生活に窮したのである。恥も外聞も無くお金を借り、昼も夜も休み無く働いた。そんな生活が七年程続いた。明日が見えない日雇い労働者のようだった。そんな生活を支えたのは聖書だった。聖書の言葉を人に伝える気持ちはさらさらないが、自分自身に対するメッセージとしてまとめようとする気持ちが芽生えてきた。時を同じくして義父がパソコンを買ってくれたので、このライフワークに突き進むことができたのである。

 始めた時がもっと遅ければ間に合わなかったかもしれないが、八十五歳まで生きれば十分に間に合うはず。神の許しがあれば、ライフワークの成就と共に天国へ行ける、それが夢なのです。

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夢の実現まで目途がたったような気がします。

粛々と進めるだけです。

この時は、まだ負の気持ちを引きずっていたようです。

でも、今はマイナスがプラスになったようです。感謝!

 

これもまた愉しからずやです。