お金も時間もない私には、取材と言っても歩いて行ける所が最適だ。
何か小説の題材にならないかと思って、近くを歩いてみた。
「リビング福岡」で以前読んだ記事が頭に浮かび、その近辺を歩いてみた。
その時の様子を取材ノートとして、まとめてみた。
取材ノート①が2009年、②が2011年に書いたものです。
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取材ノート①
金屑川と室見川に挟まれた地域は昔から稲作に適した地である。そこの一画に有田地区がある。早良郡誌によれば、有田地区はその地勢や諸条件から天恵の地であったと記されている。東は油山、西は飯盛、南には背振、九千部の連峰があり、北には船頭原という所があり海に面している。原始時代からこの地には原住民が住みついていたらしい。山近く、燃料や木材に事欠かず、鳥獣も捕獲しやすい。海近く、魚介類も多く、衣食住に心配なく、人が住むには最適の地であったことだろう。また、生活上の必要条件として交通関係がある。樋井川を渡り、六本松から原四つ角を抜けて今宿への道。早良口から有田、金武を経て、佐賀への道。また、有田、広石、女原への道。海は今よりも有田の近くまできていたので、荷物の輸送も有田を通過したものと考えられる。
名庄屋松尾孫三郎が生まれたのは、この有田地区であり、そして、命をかけて直訴したのは享保の大飢饉の時であった。いかに豊かな地であったとしても天変地異には勝てなかった。
しかし、松尾孫三郎の勇気ある行動によってこの地区の村民の多くが助けられたのである。
ミニコミ誌「リビング福岡」に掲載されていた「やすかば食堂」に寄ってみた。チャンポンを注文してミニコミ誌を見せながら、いろいろと話を振ってみたが、土地の者ではないようだ。ミニコミ誌に紹介されていた坂口英治さんの家を教えてもらった。電話も教えましょうと言うので、待っていたがなかなか出てこない。何やら探しているようだが見つからないようだ。「もう、いいですよ」と奥に声をかけて「やすかば食堂」を後にした。本場「長崎ちゃんぽん」の味を知っている私には、ちょっとコクがないチャンポンだった。
取材ノート②
名庄屋松尾孫三郎の碑は有田天満宮の一角に立っている。碑の表には「義民 松尾孫三郎の碑」とあり、裏には、その功績を称える文言が彫られている。やすかば食堂で聞いた坂口栄治さんの自宅は、松口病院から北へ五十メートル入った所にある。突然の訪問は失礼だと思い、松尾孫三郎のお墓がある西応寺へと足を向ける。
西応寺は浄土真宗西本願寺派で開基は恵正(えしょう)という人物、現在の当主は十四代目にあたる。松尾孫三郎の事件が二八○年程前、小田部氏が守っていた荒平城が落城したのが四三○年程前。そして、小田部氏の家臣であった小林氏の某が恵正らしい。年代的にはほぼ符号する。
西応寺のチャイムを押すと坊守らしき人物が出てきた。坊守とは本来、寺の番人のことだが、浄土真宗では妻帯が認められていたので、住職の配偶者をそう呼んでいる。松尾孫三郎の墓は寺の西側に祀られていた。高さ五十センチ程でラグビーボールを縦にして上から圧力をかけたような形である。左側に孫三郎、右側に妻きよの墓が並んでいる。
詳しい人がいないかと尋ねたが、もうほとんど死んでしまったということであった。詳しい話が本になっていると、持ってきたのが「有田郷土史」、もう既に図書館で読んだ本だった。寺の額には「荒平山」、表札は「小林」となっていた。なるほど、荒平城の主であった小田部氏の家臣だという話には頷けるものがあった。
寺の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。寺を辞するきっかけとなり、失礼したが、お孫さんだろうか。荒平城の出城だった月城(げっしょう)は今の講倫館、その前にある有田天満宮には孫三郎を徹夜で待った「お日待ち」の行事があり、講倫館から北への道は馬場通り、その途中に西応寺がある。果たして孫三郎の時代にはどんな状況だったのだろうか。
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「お日待ち」というタイトルで小説にしようと書き始めましたが、
原稿用紙5枚程度で未完となっています。
生きているうちに仕上げたいと思っていますが、
どうなることやら、あと2作未完の小説があります。
是も亦、愉しからずや です。