毎日何がしかの原稿は書いてるし、

今までエッセイもたくさん書いたし、

小説も短歌も俳句も詩も書きました。

 

でも、自己満足の世界で終わってしまっている。

高尚な文章はひとつもない。

多分、そんな人たちは湧きあがってくるのでしょう。

私には、絞っても絞っても、そんな高尚な文章は出てこない。

だから、いつまでも、ダマンキでアブラムシのような生き方しかできない。

 

このエッセイは、2010年12月の作品です。

 

*************************************

 ダマンキとアブラムシ

 

 別に怪獣戦争が勃発したわけではない。〝ダマンキ〟というのは長崎で幼年時代に使っていた言葉である。本気ではないことをいう。たとえば、じゃんけんで負けた時に、「いまんとは、ダマンキさ」と言って、勝負を反故にする。だから、この言葉を使う人は同い年か年下である。可愛いから許されるのである。でも、この言葉を年上が口にすると、どうにもいただけない。人間性さえも疑いたくなる。 

〝アブラムシ〟という言葉は、妻が福岡で子供時代に使っていたものらしい。「この子は、まだ小さいけん、アブラムシにしとこ」というような使い方をする。遊びのルールは適用させずに自由に遊ばせてやる、いわばおにいちゃんやおねえちゃんの年下に対する面倒見の良さを遊びで肩代わりしているようなものだ。これはこれで納得のいく良きシステムである。

 この〝ダマンキ〟にしても〝アブラムシ〟にしても、幼いから許される話で、これが大人になっても、続いていたらおかしいし、続けていきたいという思いを持つとしたら、これまたおかしな話である。ところが、七人兄姉の末っ子であるこの私は、時々〝ダマンキ〟扱いや〝アブラムシ〟待遇を受けているような気がする。兄姉の中で大事な話に付き合ったこともないし、相談を受けたこともない。幼い頃から今日までもそうである。普通ならば自ら飛び込んで関わろうとするのだが、それがない。

 私の人生は、いつも〝ダマンキ〟であり、本気にはなりえない。本気になると自分の実力を知ることとなり、愕然となるのである。また、〝アブラムシ〟魂(?)から一向に抜け出そうともしない。ぬるま湯の世界がとっても好きなのである。これから始まる残された時間を〝ダマンキ〟という怠惰な心と〝アブラムシ〟感覚で過ごすには何ともやるせない。あとは、自分のすべてを知りつつも笑い飛ばすしかないのである。笑ってさえいれば何とかなることを信じよう。

**************************************

 

最近は、開き直って、下手の文章に満足しています。

文章の良し悪しよりも書き続けることを良しとしています。

それも、また、愉しからずや! です。