粗忽者は、大勢いるけれども、自分が死んでいるという事に

気が付かない程の粗忽者は、落語以外ではいないことでしょう。

しかし、段々と粗忽者が住みづらい世の中になってきているような気がする。

少々の粗忽さえも許されないような・・・

粗忽者には無関心なような・・・

 

70歳を過ぎると、粗忽者にはなれないし、

そうでなくても、相手にされないような・・・

粋な粗忽者になりたいなぁ。

 

2010年8月の作品です。

 

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  粗忽長屋

 

 「え~、落語によく粗忽者というのが出てきます」

 

 落語の「粗忽長屋」はこれから始まります。粗忽者ばかりが住んでいる長屋に脳天の熊五郎とその友達が隣同士で住んでいます。ある日、その友達が町を歩いていると人だかりがします。何だろうと思って前の方に出ると行き倒れで人が死んでいると言うのです。その顔を見ると熊五郎。今朝会ったばかりなのにどうしてここで死んでいるんだろうと思い、役人に聞くと夕べからここで行き倒れになっているとのこと。熊の野郎、粗忽者だからまだ自分が死んでいることに気付いていないのだろうと呼びにいく。連れてこられた熊五郎、最初は自分の死体に気味悪がっていたが、だんだん哀れみ深くなって、最後は自分の死体を抱きしめる。そして、一言「抱かれているのは確かに俺なんだけど、抱いているこの俺は一体誰なんだ」

 

 自分で自分を証明するものは何だろうか。何も無いような気がしてくる。この肉体が確かに森田義夫なんだということを何を持って証明したらいいのだろうか。ひょっとして生まれてすぐに取り違えられていたら全く違う人間が森田義夫になっていることになる。何とももどかしい話である。自分で自分を証明できないなんて。

 でも、自分以外の人間は自分と言う人間を証明できる。母親は生まれた時から私という人間を見ているから、家族と共に私が森田義夫ということを証明できるのである。今までの人間関係で得た友人知人も証明できるわけである。

 では、年を重ねて人間関係も希薄となって、まわりの人間も何の証明もしてくれなかったら、自分は死んでいるのにいつまでも生きているようなおかしな事となる。自分が死んだと言うことを自分自身で報告できないので第三者に委ねるしかない。第三者が何も報告しないならば二○○歳も可能となってくるのである。

 

 もう十数年前の話であるが、義父と麻雀仲間との会話。

「年金は月に十六万、二ヶ月に一度振り込まれるから三十二万円」

「そうですか、私はもう八十過ぎましたが、それ以上あるんですよ。家族もしっかり当てにしてましてね。『おじいちゃんを塩漬けにしても生かし続けんといかんね』と冗談で言ってますよ」

 

 冗談ではない現実が今拡がっている。粗忽者と笑っていえる落語の世界ならいいのだが・・・。 

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自分で書いていながら、どういう意味?

13年前は、夜の仕事から昼の仕事へと移行する過渡期の時だったような

毎日、金策に走っていたような

今もあまり変わりませんが・・・。

それも、また、愉しからずやです。