実父は電力会社に勤めていた転勤族だった。
おかげで、北は北海道、南は九州(私は未経験)へと日本全国を股にかけて歩き回ったことになる。
そういう意味では、私も人が味わえない経験をいっぱいさせてもらったなって感謝している。
これもお陰様で嫌な思い出がないのだ。
引越に関しても、友達と別れることにも、尾を引かないタイプだったからかもしれない。(笑)
そんな父が、母を早くに亡くして、この名古屋の地に根を生やすことになるとは、偶然とはいえ、今やここが私の故郷になってしまった。
父はこの地に、終の棲家を建て、私を送り出してくれた。
父の故郷に帰るという選択肢もないことはなかったが、実家は母親を介護してくれた妹に譲ったので、新たにこの地に自分の実家を造ったのだった。
そんな父も、晩年は病魔に襲われ、3年ばかり介護が必要になってしまった。
途中から同居を決めてくれた姉夫婦には感謝しかない。
父は娘たちには愛情あふれる人だったが、婿殿たちには娘を盗った憎きもののイメージが消えないでいたような人だった。(笑)
だから、姉はそれなりに苦労したことと思っている。
そんな父親の介護をすることになったのだが、私もちょくちょく父に会いに行っていた。
父は私たち親子の救世主でもあったので、私もどこかで父を引き取って介護をしてもいいとさえ思っていた。
でも、私は仕事を持っていたし、子供も3人いた。
ところが、姉は、当たり前のように父の介護をしてくれたのである。
晩年の父は、本当に好々爺で、いつも静かに笑っているような人だった。姉にワガママ言うこともなく、一人で歩くこともままならなかったけど、椅子から落ちて軽く怪我をしても、文句も言わずバンドエイドを貼ってもらっているような人になっていた。
どこぞの大騒ぎする老人とは違ったね。(笑)
父は死ぬ間際に、姉に感謝の言葉を残して亡くなっていったが、生前元気なうちに遺言書も書いて残していた人だった。
私は父を看取ってくれた姉に、財産の全てを譲っていいと思っていたが、遺言があったため、姉はそうはいかないと言い出した。
父は次女の私もこよなく愛してくれたし、3人の孫も本当に可愛がってくれたのだ。
孫の世話をすることに生き甲斐さえ感じていた人だった。
思えば「イクジイ」のはしりだった。
夫は、私の父への精神的支えは大きかったから、財産を分けてもらうことにためらうことはないよと、助言してくれた。
今、私の実家は娘宅に変身している。
負の財産になるかもしれない土地が、活かされたと言うことだ。
我家はうまくいったケースだが、財産分与で骨肉の争いが起こっているところもたくさんあるんだろうな。
それできょうだいが仲たがいを起こしたなんていう例はたくさん聞いてきた。
私たち夫婦は、財産は残しません。
旅行に一緒に行ったり、美味しいものを食べに行ったりすることで、生前贈与だね、な~んてね。
長い老後を子供に迷惑をかけないことが財産かなって思っているので。あはは、良いこと言っちゃって、ホンマかいな。