記念すべき…いやしなくていいわ。

 

カテゴリ:「かませ犬」

今回は『正史三国志:曹操伝』に「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と評され、当代最強と言われた武将「呂布」です。

 

最強の武将!やっぱりどこの国、時代にも最強と呼ばれる人物はいるものです。日本史言えば、徳川家康の重臣本多忠勝とか剣豪宮本武蔵に当たる人物と思います。(宮本武蔵は武将ではないと思いますが)

?なのにカテゴリが「かませ犬」なのはなぜかは後々。

 

呂布は字(=あざな…当時成人した男性が名乗るニックネーム的なもの。親しい間柄だとこれで呼び合ったようだ)を奉先と言い、生まれは現在の首都北京から南西に約300キロほどの九原県(現在の内モンゴル自治区)の生まれらしい。

 

今で言う大相撲力士のようにモンゴルの血を受け継いでいる人が強いように、呂布も親のどちらかが蒙古系の人だったのか若いときから逞しく、武器の扱いには優れていたようだ。

 

そんな呂布が横山三国志に登場するのは黄巾の乱平定後、肉屋出身の大将軍何進による群雄召集で首都洛陽に来た并州刺史丁原※の義理の息子としてである。

 

※作中では荊州刺史として丁原は登場するが、正史呂布伝には并州刺史としているので正史に合わせます。

 

なぜ義理の息子なのかは定かではないですが、おそらく若く勇猛な青年呂布に目をつけた県知事丁原おじさんが養子として味方につけたのかなと。

 

そんな丁原さんと同じく洛陽に来た董卓将軍も呂布が欲しい群雄の一人。董卓は呂布に超早い馬「赤兎馬」が欲しかったら丁原を殺せと誘い、まだ世の中を知らなかった呂布は欲しいもののためならと、丁原をあっさりと殺してしまいました。

ちなみにこの赤兎馬、今の競馬界にいたら毎回20馬身差くらいつけて圧勝してしまうでしょう。レースが成り立たなくなります。

 

董卓の部下(また義理の息子になりました)になった呂布は、董卓の武将として大きな活躍を見せたが、自分の欲しいもののために、ましてやそれをすれば世界が平和になると言われたらやっちゃうのが呂布。司徒王允に唆さ絶世の美女貂蝉(=ちょうせん)が欲しい呂布は決心し、あっさりと董卓を殺した。

今日「裏切りの猛将」なんて異名をつけられる所以はここから始まっているが、本当の呂布はただ世間を知らないだけで、周りの大人達に良いように使われてしまった本当は誠実な若者だったんじゃないかなと。

 

董卓を殺した呂布。英雄扱いされるのかと思いきや、「親殺しの信用できない奴」と首都を追い出され各地の群雄を転々とし、最終的に徐州に落ち着く。

 

徐州に落ち着いた当初は持ち前の「最強の武力」を遺憾なく発揮し曹操、袁術などと互角に渡り合った。

しかし彼に伴わなかったのは知力。ゲームではほぼ必ずと言っていいぐらい知力ステータスがたとえば5段階なら最低の1。互角に渡り合えたのは参謀の陳宮などが知恵を振り絞っていたから。でもこの陳宮は呂布と喧嘩したのか、横山三国志終盤の場面では前線基地を守っており呂布から離れています。せっかく曹操が認めたくらいの人物だったのに呂布はもったいないことをした。

 

呂布は曹操により段々と窮地に追い込まれていく。曹操の策略によるものが大きいが呂布が今まで溜め込んだツケが回ってきたと言っても良い。

 

曹操に追い込まれた呂布は最後、自分の命が惜しくなった部下に裏切られて捕らえられてしまう。

 

曹操や劉備の前に引き出された呂布は命乞いをしたと言われます。曹操には「曹操!俺の武勇は欲しくないか?俺がいれば敵は簡単に打ち破れるぞ!」と自らを売り込んだが曹操は「君の武勇は欲しいがな。」とやぶさかではない様子だったが、劉備に問いかけ「どうだ?劉備殿、3人目の弟にしてみては?」とたずねた。劉備は「頼もしいですが私では扱いきれません。なにせ呂布は家族(部下)にすると途端に爆発しますから」と昔の呂布の行いを引き合いにバッサリ。曹操も正にその通りと納得し、曹操に早々に斬首されその生涯を閉じることになった。

 

かませ犬カテゴリ、「最強の武将呂布」は結果的に文武両道でなくては乱世を生き抜くことはできないことを曹操が証明するために必要な人物の一人であったと私は思う。