脱北者のファン・ミソンさん(42)=仮名=は、中国に抑留されている脱北者のことが話題に上ると涙を流した。夢にまで見た韓国にやって来たのは2006年1月。初めて脱北してから9年が過ぎていた。この9年間は文字通り、暗黒の時期だった。北朝鮮を脱出するため豆満江を3回渡ったが、うち2回は中国の公安(警察)に身柄を拘束され強制送還された。
咸鏡北道茂山郡で生まれたファンさんは、鉱山で働く両親の間に生まれた5人きょうだいの一番上だった。1日3食など望むべくもなく、ただひたすら腹をすかせていたころ、隣に住んでいた7人家族が一度に餓死するのを目撃した。1997年8月にファンさんは初めて豆満江を渡った。「まずはとにかく北朝鮮を脱出しよう」とただひたすら考えていたという。
「最初に北朝鮮を脱出したのは27歳のときだったが、持っていたのは自分の体だけ。直後に延辺の朝鮮族集落で1人暮らしをしていた30代の男性に、2万元(現在のレートで約25万7000円、以下同)で売られた。昼も夜も奴隷のように過ごしていた」
偽の戸籍証を持って市場でキムチを売りながら、何とか食いつないでいたファンさんは、2002年11月に初めて中国の公安に身柄を拘束された。17平方メートルほどの拘置所には、ファンさんのような脱北者が30人以上いて、全員が恐怖におびえていた。公安は室内に狩猟用の犬を放した。昼間は犬にかまれ、夜は寝ているとき公安に起こされ、ただひたすら殴られていた。1カ月後には北朝鮮に送り返されたが、それから6カ月後、ファンさんは強制労働の隙に警備の目を盗んで再び豆満江を渡った。
傷だらけの体で街をうろうろしていたファンさんに救いの手を差し伸べたのは、韓国からやって来たある慈善団体だった。健康を回復して日々何とか過ごしていたときに、再び悪夢が訪れた。ファンさんは2004年に延辺市街地でまたも中国の公安に身柄を拘束され、今度は生まれ故郷の茂山郡にある保衛部に送られた。
角材で激しく殴られて右肩を骨折し、両耳はほとんど聞こえなくなったが、絶命する直前に釈放された。しかし、それからわずか2日後に再び、はうようにして豆満江を渡った。「韓国に行きたい」という強い思いがそうさせたのだ。
歯を食い縛って耐え抜きファンさんは脱北ブローカーの助けを得て、タイ経由で2006年1月に韓国にたどり着いた。ファンさんが乗った飛行機が仁川空港の滑走路に降りたとき、ファンさんの目から涙が流れた。ファンさんは今年1月、自分を担当する江西警察署のチェ・ミョンヒョン警衛の支援で肩の手術を受け、現在も治療を続けている。骨の中にまで広がった炎症はかき消せたが、まだ何度か手術を受けなければならないという。しかしファンさんは今「幸せだ」という。これまで拷問の後遺症で直接世話ができなかった4歳の娘も、今では自分の手で育てることができるようになった。ファンさんは「北朝鮮から脱出したがっている家族も、全員が一日も早く韓国にやって来て、私のように幸せになってほしい」と述べた。
(この記事は韓国(朝鮮日報日本語版)から引用させて頂きました)
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