この物語は【あいつしか愛せない】です 原作とは全く違う世界なので嫌な方はスルーしてくださいね
駅の屋根を叩く雨音が、どんどん大きくなっていた
最初は
「すぐ止むよね」
そう思っていた
遊園地を出た時だって、まだ笑っていられた
濡れながら駅まで走ったことさえ、今日のデートの思い出になると思っていた
でも――
『現在、大雨の影響により、運転を見合わせております』
そのアナウンスを聞いてから、胸の奥に小さな不安が生まれた
「……入江くん」
隣を見る
あいつは何も言わず、電光掲示板を見上げていた
「電車……いつ動くのかな?」
「さあ」
「さあって……。」
「復旧の見込みが立ってないんだろ」
「……うん」
分かってる
分かっているけど――
「でも、もう少し待てば動くよね?」
「さあな」
相変わらず淡々としている
あたしは窓の外を見る
雨は、さっきよりさらに激しくなっていた
駅前の道路は、もうところどころ水が溜まっている
車が通るたびに、大きな水しぶきが上がる
傘を差している人たちも、ほとんど意味がないくらい濡れていた
「……すごい雨」
思わず呟く
あいつは答えない
ただ、腕時計を見る
それから駅の案内板を見る
また時計を見る
「……。」
そんなあいつを見ているうちに、少しずつ現実が見えてきた
もう夜だった
このまま電車が動かなかったら――
家に帰れない
「ねえ……」
「何」
「もし……」
言葉にするのが怖かった
「今日、電車が動かなかったら……どうするの?」
あいつが、初めてこちらを見る
「どうするって?」
「だって……帰れないんでしょ?」
「そうだな」
あまりにもあっさり言われてしまう
「……。」
あたしは黙り込んだ
帰れない
その言葉が、さっきより現実味を帯びてくる
それから三十分
一時間
時間だけが過ぎていった
駅の中には、どんどん人が増えていた
遊園地から戻ってきた人たち
家族連れ
旅行帰りらしい人
仕事帰りの人
みんな駅員さんに尋ねたり、掲示板を見上げたりしている
「まだ動かないのかな」
「復旧の見込みは?」
そんな声があちこちから聞こえてくる
でも、返ってくる答えは同じだった
『現在も安全確認を行っております』
『運転再開の見込みは立っておりません』
「……。」
あたしは時計を見る
もう、こんな時間
さっきまで楽しかったのに
遊園地で笑っていたのに
観覧車から見た景色も、まだ鮮明に覚えている
なのに今は――
胸が落ち着かない
「入江くん……。」
「ん?」
「あたし達、本当に帰れないのかな」
あいつは少し黙った
そして
「たぶんな」
短く答えた
「……そっか」
なんだか急に寂しくなった
今日が終わってしまうことが嫌だった
でも、それ以上に――
このままどうなるのか分からないことが怖かった
するとあいつが
「ホテル探すぞ」
と言った
「……え?」
思わず顔を上げる
「ホテル?」
「電車が動かないなら、泊まるしかないだろ」
「……。」
泊まる
その言葉を聞いただけで、心臓が大きく鳴った
もちろん、帰れないんだから仕方ない
それは分かっている
分かっているけど――
「……二人で?」
思わず口から出てしまった
あいつは不思議そうにこちらを見る
「他に誰がいるんだよ」
「そ、そうだけど……。」
顔が熱くなる
「……。」
あたしは何を考えているんだろう
あいつは、そんなこと全然気にしていないみたいだった
「駅員に聞いてくる」
「え?」
「この辺に泊まれるところがあるか」
そう言って、あいつは駅員のところへ向かった
あたしはその背中を見ながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた
しばらくして、あいつが戻ってきた
「駅の近くに何軒かあるらしい」
「本当?」
「ただ……」
「ただ?」
「今日はかなり混んでるみたいだ」
「……。」
嫌な予感がした
「泊まれるかな?」
「電話してみる」
駅の片隅にある公衆電話
あいつが受話器を取る
あたしは少し離れたところで待っていた
「……はい」
あいつが電話をしている
短い会話
それから――
「分かりました」
受話器を置いた
「どうだった?」
「満室」
「……そっか」
次のホテル
また電話
「……はい」
しばらく話して
「そうですか」
受話器を置く
「そこも?」
「ああ」
「……。」
だんだん不安になってくる
外では雨が降り続いている
駅の時計を見る
時間だけが過ぎていく
「入江くん……」
「何」
「大丈夫かな」
「何が?」
「今日、泊まるところ……。」
あいつは少し考えるように黙った
「まだある」
「え?」
「もう一軒」
そう言って、また公衆電話へ向かう
あたしはその後ろ姿を見つめていた
受話器を耳に当てる
何か話している
その横顔は、いつもと変わらない
焦っていない
困っているようにも見えない
なのに――
あたしの心臓だけは、ずっと落ち着かなかった
やがてあいつが電話を切った
「……どうだった?」
「一部屋だけ空いてる」
「……!」
胸が跳ねる
「本当に?」
「ああ」
「よかった……。」
思わず息を吐く
これで帰る場所はある
そう思った瞬間――
別のことが頭に浮かんだ
「……一部屋」
呟いてしまう
「何?」
「え?」
「今、一部屋って言っただろ」
「あ……。」
顔が熱くなる
「う、ううん。何でもない」
入江くんは不思議そうにあたしを見る
でも、それ以上は何も聞かなかった
「行くぞ」
「うん……。」
駅を出る
外へ出た瞬間、雨音が一気に大きくなった
「きゃっ……!」
風も強い
傘を差していても、横から雨が吹きつけてくる
「濡れるぞ」
「うん!」
あたしはあいつの後を追った
駅前の道路には水が溜まり、靴の中まで濡れてしまいそうだった
あいつは時々振り返る
「ちゃんと来てるか?」
「いるよ!」
「ならいい」
その一言だけ
でも――
こんな状況だからなのか
その言葉が、妙に嬉しかった
ホテルまでは、それほど遠くなかった
ようやく看板が見えた時、あたしは思わず足を止めた
「……あった」
あいつが先に入口へ向かう
あたしも後を追う
濡れた髪
濡れた服
冷たい風
そして――
今日一日の出来事
遊園地で笑ったこと
観覧車から見た景色
一緒に走った帰り道
そして今
「……。」
あたしはホテルの入口を見上げた
今日という日は、もう終わったと思っていた
でも――
まだ終わっていない
むしろ、ここから先のことなんて、何一つ分からない
「相原」
「……え?」
振り返る
あいつが入口の前で待っている
「早く来い」
「……うん」
あたしは小さく頷いた
そして――
あいつの後を追って、ホテルの入口へ足を踏み入れた
この先に何が待っているのか、あたしはまだ知らなかった
…………
ホテルのフロントで手続きを済ませる
「こちらのお部屋でございます」
渡された鍵を見つめる
「……本当に泊まるんだ」
まだ少し現実感がなかった
今日の朝は、ただのデートだった
遊園地へ行って
笑って
一緒に帰るはずだった
それなのに――
大雨のせいで電車が止まり、今は二人でホテルにいる
「相原」
「え?」
「先に部屋行ってろ」
「入江くんは?」
「隣のコンビニ行ってくる」
「コンビニ?」
「ああ」
あいつは、濡れた服を見下ろした
「このままじゃ風邪ひくだろ」
「あ……。」
そうだった
二人とも、駅まで走ったせいでかなり濡れている
髪もまだ乾いていない
「何買うの?」
「食べ物とか、必要なもの」
「じゃあ、あたしも行く!」
「お前は部屋で待ってろ」
「でも……」
「濡れてるんだから、早く着替えた方がいいだろ」
「……うん」
あいつはそう言うと、ホテルを出ていった
ガラス越しに、雨の中を隣のコンビニへ向かっていく背中が見える
「……。」
あたしは、その背中をしばらく見つめていた
相変わらず、ぶっきらぼう
でも――
ちゃんとあたしのことを考えてくれている
そう思うと、胸が少しだけ温かくなった
だからなんとなく部屋には行かずにここにいた
しばらくして、あいつが戻ってきた
手には、大きなビニール袋
「何買ったの?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「食べるものとか」
「見せて!」
「部屋で見ればいいだろ」
「もう……。」
あたしは笑いながら、あいつの後について歩いた
雨のせいで予定は全部変わってしまった
それでも――
今日はまだ、終わっていない
…………
部屋のドアが開いた
「……わぁ」
思わず声が漏れる
ホテルの部屋なんて、入ったことがない
まず目に入ったのは、大きなベッドだった
白いシーツが綺麗に整えられていて、その向こうには窓がある
窓の外は――相変わらず雨
ガラスを流れる雨粒の向こうで、街の明かりがぼんやり滲んでいる
部屋の隅には小さなテーブルと椅子
壁際にはテレビと電話
そして、入り口の近くには荷物を置くためのスペースがあった
思っていたより、ずっと普通の部屋だった
「……。」
だけど
普通のホテルの部屋なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう
だって――
今、この部屋にはあたしとあいつしかいない
「相原」
「え?」
振り向く
あいつは持っていた荷物を置いていた
「先に風呂入れよ」
「……お風呂?」
「ああ」
「でも、入江くんが先でいいよ」
「お前、ずぶ濡れだろ」
「……。」
そう言われて、自分の服を見る
確かにひどい
髪もまだ湿っているし、袖も重たい
「本当に風邪ひくぞ」
「……うん」
あいつは、さっきコンビニで買ってきたものを袋から取り出していた
そして、その中からひとつの茶色い袋を取り出す
「これ」
「……何?」
「風呂場で開ければ分かる」
「え?」
あたしは袋を受け取った
思ったより軽い
「何が入ってるの?」
「だから、風呂場で見ろ」
「教えてくれてもいいじゃん」
「いいから」
相変わらず、説明が足りない
「……もう」
袋を抱えたまま、あたしは浴室の方を見る
するとあいつが、もうひとつ何かを手に取った
「それと、これ」
「……?」
渡されたのは、ホテルに用意されていたバスローブだった
「着替え終わったら、それ着ればいい」
「……うん」
バスローブを受け取る
柔らかい
「じゃあ……」
あたしは茶色い袋とバスローブを抱えた
「先に入ってくるね」
「早くしろよ」
「分かってるってば」
浴室へ向かう
ドアを閉める直前、なんとなく振り返った
あいつは、もうこちらを見ていなかった
テーブルのところで、買ってきたものを整理している
「……。」
なんだか少しだけ安心した
あたしは浴室のドアを閉めた
浴室の中は、ほんのり暖かかった
鏡
洗面台
タオル
そして、きちんと用意されたアメニティ
「ホテルって、こうなってるんだ……。」
思わず周りを見てしまう
そして――
手に持っていた茶色い袋を見る
「……これ、何なんだろう?」
あいつは
『風呂場で開ければ分かる』
と言っていた
「……。」
少しだけ不思議に思いながら、袋を開ける
中を見た瞬間――
「……え?」
言葉が止まった
そこに入っていたものを見て、あたしは一気に顔が熱くなった
「……。」
思わず袋を閉じる
「……入江くん……。」
声にならない
雨で濡れたままのあたしが困らないように――
あいつは、ちゃんと必要なものを買ってきてくれたのだ
それが分かっただけなのに
どうしてこんなに恥ずかしいんだろう
あたしは赤くなった顔を両手で覆った
「……もう……。」
浴室の向こうには、あいつがいる
そう思うだけで、また胸がどきんと鳴った
でも――
今は余計なことを考えない
まずは、濡れた服を着替えて、身体を温めなくちゃ
あたしは深く息を吐いて、もう一度袋の中身を見た
そして、恥ずかしさを隠すように小さく呟いた
「……入江くんの、ばか」
外ではまだ、雨が激しく降り続いていた
…………
浴室の中は、静かだった
外から聞こえてくるのは、激しい雨の音だけ
あたしは鏡に映った自分の顔を見る
まだ赤い
「……もう。」
さっき見つけたもののことを思い出すだけで、また恥ずかしくなる
でも――
あいつは、あたしが困らないように買ってきてくれた
そう思うと、少しだけ嬉しかった
「……優しいんだよね」
学校では、あんなに冷たいのに
こういう時だけ、何も言わずに気にかけてくれる
あたしは小さく笑って、身支度を整えた
そして、恐る恐る浴室のドアを開ける
「……。」
部屋に戻る
あいつは窓際の椅子に座っていた
外を見ている
窓ガラスには、雨粒が絶え間なく流れていた
「入江くん……」
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、俺も入ってくる」
「……うん」
あいつは立ち上がると、浴室へ向かった
すれ違う瞬間――
ふわっと、シャンプーの匂いがした
「……。」
あたしは思わず振り返る
浴室のドアが閉まる
「……。」
二人きり
その言葉を、改めて意識してしまった
ホテルの部屋
外は大雨
帰りの電車は動かない
そして今、この部屋にはあたし達しかいない
「……落ち着け、あたし」
自分に言い聞かせる
あたしは部屋の中を見回した
ベッド
テーブル
椅子
テレビ
窓
どこにでもありそうな、普通のホテルの部屋
なのに――
今日は、何もかもが特別に見えた
テーブルの上には、さっきあいつが買ってきた袋が置いてある
中から飲み物や食べ物を取り出して並べる
「……こんなに買ってきたんだ」
お菓子
飲み物
パン
簡単に食べられるもの
それから、ホテルで使うもの
「……ふふ」
なんだかあいつらしい
必要なものを、必要なだけ
余計なものは買わない
そんなところまで、いつも通りだった
その時――
浴室のドアが開いた
「……。」
あたしは思わず顔を上げる
「入江くん」
「何」
「……なんでもない」
あたしは慌てて視線を逸らした
「飯、食うか?」
「うん!」
二人でテーブルを挟んで座る
「いただきます」
「いただきます」
買ってきたものを食べる
それだけなのに、妙に緊張する
学校なら、こんなことは何でもない
でも今は――
ここが学校じゃないから
「……おいしい」
「コンビニのだろ」
「そうだけど」
あたしは笑う
「でも、入江くんと一緒に食べてるから」
「……。」
あいつが一瞬だけこちらを見る
「何?」
「別に」
そう言って、また食事に戻る
「……。」
あたしは少しだけ頬を緩めた
やっぱり、この人は分からない
だけど――
分からないからこそ、もっと知りたい
恋人になったんだから
これから少しずつ知っていけばいい
そう思っていた
食事を終える
あたしは窓の外を見る
「……まだ雨、降ってるね」
「ああ」
さっきより激しくなっている
窓を叩く音が、部屋の中まで聞こえてくる
「明日には止むかな?」
「天気次第だろ」
「もう……入江くんって、そういう答え方ばっかり」
「事実だろ」
「そうだけど……」
思わず笑ってしまう
でも――
時計を見る
もう、かなり遅い
「……ねえ」
「何」
「あたしたち……」
言いかけて、少し迷う
「今日は、本当に帰れないんだよね」
「電車が動かないんだからな」
「そっか……」
分かっていたことなのに
改めて言われると、少しだけ胸が高鳴る
今日はここで過ごす
あいつと二人で
それは、今まで一度もなかったことだった
「……。」
部屋が静かになる
外では、まだ雨が降り続いている
あたしはベッドを見る
そして――
あいつを見る
「……入江くん」
「ん?」
「あの……」
「何だよ」
「寝る時って……どうするの?」
自分で聞いておきながら、心臓が大きく鳴った
あいつは、あたしを見る
「寝るんだろ」
「……そうじゃなくて!」
思わず声が大きくなる
「分かってるよ」
「……。」
あいつが、ほんの少しだけ笑ったように見えた
「お前、わかりやすいな」
「だ、だって……!」
顔が熱くなる
「……もう」
あたしは俯いた
外では相変わらず雨が降っている
今日一日、ずっと一緒だった
そして今夜も――
まだ終わらない。
胸の奥が、また小さく高鳴った
「……。」
あたしはそっと息を吐いた
明日の朝、雨が止んでいるのか
電車が動いているのか
そんなことは、まだ分からない
ただ一つ分かっているのは――
今夜は、入江くんと二人でこの部屋にいる
それだけだった
…………
部屋の中が、急に静かになった
さっきまで二人で話していたのに、今はテレビの音だけが小さく響いている
あたしはソファに座ったまま、何となく画面を眺めていた
でも――
何をやっているのか、全然頭に入ってこない
ちらっと隣を見る
あいつは、いつものように落ち着いている
「……。」
なんでこの人は、こんなに平気なの?
あたしだけが、さっきからずっと落ち着かない
今日一日、ずっと一緒だった
遊園地に行って
一緒に笑って
一緒にご飯を食べて
雨に降られて
そして今は――
ホテルの部屋で、二人きり
「……入江くん」
「何?」
「今日……楽しかったね」
「そうだな」
短い返事
でも、それだけで嬉しくなる
「あたしね、遊園地なんて久しぶりだったから」
「そうなのか?」
「うん。あんなに一日中遊んだの、初めてかも」
思い返す
ジェットコースター
お化け屋敷
観覧車
雨の中を二人で走ったこと
どれも全部、この間までのあたしなら想像もできなかった
「……ありがとう」
「何が?」
「今日、一緒に来てくれて」
「お前が誘ったんだろ」
「そうだけど……」
思わず笑ってしまう
「それでも、ありがとう」
あいつは何も言わなかった
ただ、あたしを一度見た
その視線だけで、胸が少し熱くなる
「……。」
時計を見る
もう、かなり遅い
窓の外では、まだ雨が降っている
ザーッという音が、途切れることなく続いていた
「……明日には止むかな」
「たぶんな」
「電車も動く?」
「雨が止めばな」
「そっか……」
明日になれば、帰る
そう考えたら――
急に寂しくなった
「……終わっちゃうんだね」
「何が?」
「今日が」
あたしは窓の外を見る
「なんか……嫌だな」
「何で?」
「だって……」
言葉にするのが少し恥ずかしい
「今日、すごく楽しかったから」
「……。」
「明後日になったら、また学校でしょ?」
「そうだな」
「そしたら、いつもみたいにみんながいて……」
そこで、あたしは少し笑った
「今日みたいに二人きりではいられないから」
あいつが黙ってあたしを見る
「……。」
その視線に、少しだけ緊張した
「何?」
「別に」
「またそれ」
あたしは笑う
でも、胸の奥はドキドキしていた
恋人になった
その事実を、今日は何度も実感した
だけど――
まだ知らないこともたくさんある
あいつが何を考えているのか
あたしのことを、どんなふうに思っているのか
恋人になった今でも、それだけは分からない
だから、少しだけ怖かった
「……入江くん」
「ん?」
「ひとつ聞いていい?」
「何だよ」
あたしは指先を握った
「……あたしたちって」
一度、言葉を止める
「本当に、恋人なんだよね?」
言ってしまった
恥ずかしくて、顔を上げられない
しばらく何も聞こえなかった
やっぱり聞かない方がよかったかな
そう思った時――
「そうだろ」
静かな声が返ってきた
「……え?」
顔を上げる
あいつは、まっすぐあたしを見ていた
「俺が付き合うって言っただろ」
「……うん」
「だったら、恋人だろ」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく
「……そっか」
嬉しい
ただ、その一言が嬉しかった
あたしは小さく笑った
「へへ……」
「何だよ」
「ううん」
首を横に振る
「嬉しいだけ」
あいつは何も言わない
でも――
今度は、視線を逸らさなかった
外は相変わらず大雨
窓を叩く雨音だけが、二人の間を埋めている
あたしは少しだけ息を吸った
「……ねえ」
「何?」
「今日は……」
また言葉に詰まる
でも、今度は逃げたくなかった
「もう少しだけ、一緒にいたい」
あいつがあたしを見る
「……いい?」
「後悔しないな?」
「……うん」
あたしは笑った
そして、そっと隣に座り直した
肩と肩の距離が、ほんの少し近くなる
心臓の音が聞こえてしまいそうだった
それでも、離れなかった
あいつも、何も言わなかった
ただ隣にいる
それだけなのに――
今までとは違う夜だった
「……入江くん」
「何?」
「今日は、本当にありがとう」
今度は、ちゃんと顔を見て言った
あいつは少しだけ目を細める
そして――
「……こちらこそ」
小さな声だった
聞き間違いかと思うくらい
「え?」
「何でもない」
「今、ありがとうって言った?」
「言ってない」
「言ったじゃん!」
「うるさい」
「もう!」
笑ってしまう
雨は、まだ止まない
でも――
今はもう、不安じゃなかった
明日になれば、この夜は終わる
それでも
…………
あいつとあたしは結ばれて一つになった
今思えば この時が一番幸せだったのかも知れないね
だって…この日を境にあたし達は変わってしまったのだから……。
つづく
駅の屋根を叩く雨音が、どんどん大きくなっていた
最初は
「すぐ止むよね」
そう思っていた
遊園地を出た時だって、まだ笑っていられた
濡れながら駅まで走ったことさえ、今日のデートの思い出になると思っていた
でも――
『現在、大雨の影響により、運転を見合わせております』
そのアナウンスを聞いてから、胸の奥に小さな不安が生まれた
「……入江くん」
隣を見る
あいつは何も言わず、電光掲示板を見上げていた
「電車……いつ動くのかな?」
「さあ」
「さあって……。」
「復旧の見込みが立ってないんだろ」
「……うん」
分かってる
分かっているけど――
「でも、もう少し待てば動くよね?」
「さあな」
相変わらず淡々としている
あたしは窓の外を見る
雨は、さっきよりさらに激しくなっていた
駅前の道路は、もうところどころ水が溜まっている
車が通るたびに、大きな水しぶきが上がる
傘を差している人たちも、ほとんど意味がないくらい濡れていた
「……すごい雨」
思わず呟く
あいつは答えない
ただ、腕時計を見る
それから駅の案内板を見る
また時計を見る
「……。」
そんなあいつを見ているうちに、少しずつ現実が見えてきた
もう夜だった
このまま電車が動かなかったら――
家に帰れない
「ねえ……」
「何」
「もし……」
言葉にするのが怖かった
「今日、電車が動かなかったら……どうするの?」
あいつが、初めてこちらを見る
「どうするって?」
「だって……帰れないんでしょ?」
「そうだな」
あまりにもあっさり言われてしまう
「……。」
あたしは黙り込んだ
帰れない
その言葉が、さっきより現実味を帯びてくる
それから三十分
一時間
時間だけが過ぎていった
駅の中には、どんどん人が増えていた
遊園地から戻ってきた人たち
家族連れ
旅行帰りらしい人
仕事帰りの人
みんな駅員さんに尋ねたり、掲示板を見上げたりしている
「まだ動かないのかな」
「復旧の見込みは?」
そんな声があちこちから聞こえてくる
でも、返ってくる答えは同じだった
『現在も安全確認を行っております』
『運転再開の見込みは立っておりません』
「……。」
あたしは時計を見る
もう、こんな時間
さっきまで楽しかったのに
遊園地で笑っていたのに
観覧車から見た景色も、まだ鮮明に覚えている
なのに今は――
胸が落ち着かない
「入江くん……。」
「ん?」
「あたし達、本当に帰れないのかな」
あいつは少し黙った
そして
「たぶんな」
短く答えた
「……そっか」
なんだか急に寂しくなった
今日が終わってしまうことが嫌だった
でも、それ以上に――
このままどうなるのか分からないことが怖かった
するとあいつが
「ホテル探すぞ」
と言った
「……え?」
思わず顔を上げる
「ホテル?」
「電車が動かないなら、泊まるしかないだろ」
「……。」
泊まる
その言葉を聞いただけで、心臓が大きく鳴った
もちろん、帰れないんだから仕方ない
それは分かっている
分かっているけど――
「……二人で?」
思わず口から出てしまった
あいつは不思議そうにこちらを見る
「他に誰がいるんだよ」
「そ、そうだけど……。」
顔が熱くなる
「……。」
あたしは何を考えているんだろう
あいつは、そんなこと全然気にしていないみたいだった
「駅員に聞いてくる」
「え?」
「この辺に泊まれるところがあるか」
そう言って、あいつは駅員のところへ向かった
あたしはその背中を見ながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた
しばらくして、あいつが戻ってきた
「駅の近くに何軒かあるらしい」
「本当?」
「ただ……」
「ただ?」
「今日はかなり混んでるみたいだ」
「……。」
嫌な予感がした
「泊まれるかな?」
「電話してみる」
駅の片隅にある公衆電話
あいつが受話器を取る
あたしは少し離れたところで待っていた
「……はい」
あいつが電話をしている
短い会話
それから――
「分かりました」
受話器を置いた
「どうだった?」
「満室」
「……そっか」
次のホテル
また電話
「……はい」
しばらく話して
「そうですか」
受話器を置く
「そこも?」
「ああ」
「……。」
だんだん不安になってくる
外では雨が降り続いている
駅の時計を見る
時間だけが過ぎていく
「入江くん……」
「何」
「大丈夫かな」
「何が?」
「今日、泊まるところ……。」
あいつは少し考えるように黙った
「まだある」
「え?」
「もう一軒」
そう言って、また公衆電話へ向かう
あたしはその後ろ姿を見つめていた
受話器を耳に当てる
何か話している
その横顔は、いつもと変わらない
焦っていない
困っているようにも見えない
なのに――
あたしの心臓だけは、ずっと落ち着かなかった
やがてあいつが電話を切った
「……どうだった?」
「一部屋だけ空いてる」
「……!」
胸が跳ねる
「本当に?」
「ああ」
「よかった……。」
思わず息を吐く
これで帰る場所はある
そう思った瞬間――
別のことが頭に浮かんだ
「……一部屋」
呟いてしまう
「何?」
「え?」
「今、一部屋って言っただろ」
「あ……。」
顔が熱くなる
「う、ううん。何でもない」
入江くんは不思議そうにあたしを見る
でも、それ以上は何も聞かなかった
「行くぞ」
「うん……。」
駅を出る
外へ出た瞬間、雨音が一気に大きくなった
「きゃっ……!」
風も強い
傘を差していても、横から雨が吹きつけてくる
「濡れるぞ」
「うん!」
あたしはあいつの後を追った
駅前の道路には水が溜まり、靴の中まで濡れてしまいそうだった
あいつは時々振り返る
「ちゃんと来てるか?」
「いるよ!」
「ならいい」
その一言だけ
でも――
こんな状況だからなのか
その言葉が、妙に嬉しかった
ホテルまでは、それほど遠くなかった
ようやく看板が見えた時、あたしは思わず足を止めた
「……あった」
あいつが先に入口へ向かう
あたしも後を追う
濡れた髪
濡れた服
冷たい風
そして――
今日一日の出来事
遊園地で笑ったこと
観覧車から見た景色
一緒に走った帰り道
そして今
「……。」
あたしはホテルの入口を見上げた
今日という日は、もう終わったと思っていた
でも――
まだ終わっていない
むしろ、ここから先のことなんて、何一つ分からない
「相原」
「……え?」
振り返る
あいつが入口の前で待っている
「早く来い」
「……うん」
あたしは小さく頷いた
そして――
あいつの後を追って、ホテルの入口へ足を踏み入れた
この先に何が待っているのか、あたしはまだ知らなかった
…………
ホテルのフロントで手続きを済ませる
「こちらのお部屋でございます」
渡された鍵を見つめる
「……本当に泊まるんだ」
まだ少し現実感がなかった
今日の朝は、ただのデートだった
遊園地へ行って
笑って
一緒に帰るはずだった
それなのに――
大雨のせいで電車が止まり、今は二人でホテルにいる
「相原」
「え?」
「先に部屋行ってろ」
「入江くんは?」
「隣のコンビニ行ってくる」
「コンビニ?」
「ああ」
あいつは、濡れた服を見下ろした
「このままじゃ風邪ひくだろ」
「あ……。」
そうだった
二人とも、駅まで走ったせいでかなり濡れている
髪もまだ乾いていない
「何買うの?」
「食べ物とか、必要なもの」
「じゃあ、あたしも行く!」
「お前は部屋で待ってろ」
「でも……」
「濡れてるんだから、早く着替えた方がいいだろ」
「……うん」
あいつはそう言うと、ホテルを出ていった
ガラス越しに、雨の中を隣のコンビニへ向かっていく背中が見える
「……。」
あたしは、その背中をしばらく見つめていた
相変わらず、ぶっきらぼう
でも――
ちゃんとあたしのことを考えてくれている
そう思うと、胸が少しだけ温かくなった
だからなんとなく部屋には行かずにここにいた
しばらくして、あいつが戻ってきた
手には、大きなビニール袋
「何買ったの?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「食べるものとか」
「見せて!」
「部屋で見ればいいだろ」
「もう……。」
あたしは笑いながら、あいつの後について歩いた
雨のせいで予定は全部変わってしまった
それでも――
今日はまだ、終わっていない
…………
部屋のドアが開いた
「……わぁ」
思わず声が漏れる
ホテルの部屋なんて、入ったことがない
まず目に入ったのは、大きなベッドだった
白いシーツが綺麗に整えられていて、その向こうには窓がある
窓の外は――相変わらず雨
ガラスを流れる雨粒の向こうで、街の明かりがぼんやり滲んでいる
部屋の隅には小さなテーブルと椅子
壁際にはテレビと電話
そして、入り口の近くには荷物を置くためのスペースがあった
思っていたより、ずっと普通の部屋だった
「……。」
だけど
普通のホテルの部屋なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう
だって――
今、この部屋にはあたしとあいつしかいない
「相原」
「え?」
振り向く
あいつは持っていた荷物を置いていた
「先に風呂入れよ」
「……お風呂?」
「ああ」
「でも、入江くんが先でいいよ」
「お前、ずぶ濡れだろ」
「……。」
そう言われて、自分の服を見る
確かにひどい
髪もまだ湿っているし、袖も重たい
「本当に風邪ひくぞ」
「……うん」
あいつは、さっきコンビニで買ってきたものを袋から取り出していた
そして、その中からひとつの茶色い袋を取り出す
「これ」
「……何?」
「風呂場で開ければ分かる」
「え?」
あたしは袋を受け取った
思ったより軽い
「何が入ってるの?」
「だから、風呂場で見ろ」
「教えてくれてもいいじゃん」
「いいから」
相変わらず、説明が足りない
「……もう」
袋を抱えたまま、あたしは浴室の方を見る
するとあいつが、もうひとつ何かを手に取った
「それと、これ」
「……?」
渡されたのは、ホテルに用意されていたバスローブだった
「着替え終わったら、それ着ればいい」
「……うん」
バスローブを受け取る
柔らかい
「じゃあ……」
あたしは茶色い袋とバスローブを抱えた
「先に入ってくるね」
「早くしろよ」
「分かってるってば」
浴室へ向かう
ドアを閉める直前、なんとなく振り返った
あいつは、もうこちらを見ていなかった
テーブルのところで、買ってきたものを整理している
「……。」
なんだか少しだけ安心した
あたしは浴室のドアを閉めた
浴室の中は、ほんのり暖かかった
鏡
洗面台
タオル
そして、きちんと用意されたアメニティ
「ホテルって、こうなってるんだ……。」
思わず周りを見てしまう
そして――
手に持っていた茶色い袋を見る
「……これ、何なんだろう?」
あいつは
『風呂場で開ければ分かる』
と言っていた
「……。」
少しだけ不思議に思いながら、袋を開ける
中を見た瞬間――
「……え?」
言葉が止まった
そこに入っていたものを見て、あたしは一気に顔が熱くなった
「……。」
思わず袋を閉じる
「……入江くん……。」
声にならない
雨で濡れたままのあたしが困らないように――
あいつは、ちゃんと必要なものを買ってきてくれたのだ
それが分かっただけなのに
どうしてこんなに恥ずかしいんだろう
あたしは赤くなった顔を両手で覆った
「……もう……。」
浴室の向こうには、あいつがいる
そう思うだけで、また胸がどきんと鳴った
でも――
今は余計なことを考えない
まずは、濡れた服を着替えて、身体を温めなくちゃ
あたしは深く息を吐いて、もう一度袋の中身を見た
そして、恥ずかしさを隠すように小さく呟いた
「……入江くんの、ばか」
外ではまだ、雨が激しく降り続いていた
…………
浴室の中は、静かだった
外から聞こえてくるのは、激しい雨の音だけ
あたしは鏡に映った自分の顔を見る
まだ赤い
「……もう。」
さっき見つけたもののことを思い出すだけで、また恥ずかしくなる
でも――
あいつは、あたしが困らないように買ってきてくれた
そう思うと、少しだけ嬉しかった
「……優しいんだよね」
学校では、あんなに冷たいのに
こういう時だけ、何も言わずに気にかけてくれる
あたしは小さく笑って、身支度を整えた
そして、恐る恐る浴室のドアを開ける
「……。」
部屋に戻る
あいつは窓際の椅子に座っていた
外を見ている
窓ガラスには、雨粒が絶え間なく流れていた
「入江くん……」
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、俺も入ってくる」
「……うん」
あいつは立ち上がると、浴室へ向かった
すれ違う瞬間――
ふわっと、シャンプーの匂いがした
「……。」
あたしは思わず振り返る
浴室のドアが閉まる
「……。」
二人きり
その言葉を、改めて意識してしまった
ホテルの部屋
外は大雨
帰りの電車は動かない
そして今、この部屋にはあたし達しかいない
「……落ち着け、あたし」
自分に言い聞かせる
あたしは部屋の中を見回した
ベッド
テーブル
椅子
テレビ
窓
どこにでもありそうな、普通のホテルの部屋
なのに――
今日は、何もかもが特別に見えた
テーブルの上には、さっきあいつが買ってきた袋が置いてある
中から飲み物や食べ物を取り出して並べる
「……こんなに買ってきたんだ」
お菓子
飲み物
パン
簡単に食べられるもの
それから、ホテルで使うもの
「……ふふ」
なんだかあいつらしい
必要なものを、必要なだけ
余計なものは買わない
そんなところまで、いつも通りだった
その時――
浴室のドアが開いた
「……。」
あたしは思わず顔を上げる
「入江くん」
「何」
「……なんでもない」
あたしは慌てて視線を逸らした
「飯、食うか?」
「うん!」
二人でテーブルを挟んで座る
「いただきます」
「いただきます」
買ってきたものを食べる
それだけなのに、妙に緊張する
学校なら、こんなことは何でもない
でも今は――
ここが学校じゃないから
「……おいしい」
「コンビニのだろ」
「そうだけど」
あたしは笑う
「でも、入江くんと一緒に食べてるから」
「……。」
あいつが一瞬だけこちらを見る
「何?」
「別に」
そう言って、また食事に戻る
「……。」
あたしは少しだけ頬を緩めた
やっぱり、この人は分からない
だけど――
分からないからこそ、もっと知りたい
恋人になったんだから
これから少しずつ知っていけばいい
そう思っていた
食事を終える
あたしは窓の外を見る
「……まだ雨、降ってるね」
「ああ」
さっきより激しくなっている
窓を叩く音が、部屋の中まで聞こえてくる
「明日には止むかな?」
「天気次第だろ」
「もう……入江くんって、そういう答え方ばっかり」
「事実だろ」
「そうだけど……」
思わず笑ってしまう
でも――
時計を見る
もう、かなり遅い
「……ねえ」
「何」
「あたしたち……」
言いかけて、少し迷う
「今日は、本当に帰れないんだよね」
「電車が動かないんだからな」
「そっか……」
分かっていたことなのに
改めて言われると、少しだけ胸が高鳴る
今日はここで過ごす
あいつと二人で
それは、今まで一度もなかったことだった
「……。」
部屋が静かになる
外では、まだ雨が降り続いている
あたしはベッドを見る
そして――
あいつを見る
「……入江くん」
「ん?」
「あの……」
「何だよ」
「寝る時って……どうするの?」
自分で聞いておきながら、心臓が大きく鳴った
あいつは、あたしを見る
「寝るんだろ」
「……そうじゃなくて!」
思わず声が大きくなる
「分かってるよ」
「……。」
あいつが、ほんの少しだけ笑ったように見えた
「お前、わかりやすいな」
「だ、だって……!」
顔が熱くなる
「……もう」
あたしは俯いた
外では相変わらず雨が降っている
今日一日、ずっと一緒だった
そして今夜も――
まだ終わらない。
胸の奥が、また小さく高鳴った
「……。」
あたしはそっと息を吐いた
明日の朝、雨が止んでいるのか
電車が動いているのか
そんなことは、まだ分からない
ただ一つ分かっているのは――
今夜は、入江くんと二人でこの部屋にいる
それだけだった
…………
部屋の中が、急に静かになった
さっきまで二人で話していたのに、今はテレビの音だけが小さく響いている
あたしはソファに座ったまま、何となく画面を眺めていた
でも――
何をやっているのか、全然頭に入ってこない
ちらっと隣を見る
あいつは、いつものように落ち着いている
「……。」
なんでこの人は、こんなに平気なの?
あたしだけが、さっきからずっと落ち着かない
今日一日、ずっと一緒だった
遊園地に行って
一緒に笑って
一緒にご飯を食べて
雨に降られて
そして今は――
ホテルの部屋で、二人きり
「……入江くん」
「何?」
「今日……楽しかったね」
「そうだな」
短い返事
でも、それだけで嬉しくなる
「あたしね、遊園地なんて久しぶりだったから」
「そうなのか?」
「うん。あんなに一日中遊んだの、初めてかも」
思い返す
ジェットコースター
お化け屋敷
観覧車
雨の中を二人で走ったこと
どれも全部、この間までのあたしなら想像もできなかった
「……ありがとう」
「何が?」
「今日、一緒に来てくれて」
「お前が誘ったんだろ」
「そうだけど……」
思わず笑ってしまう
「それでも、ありがとう」
あいつは何も言わなかった
ただ、あたしを一度見た
その視線だけで、胸が少し熱くなる
「……。」
時計を見る
もう、かなり遅い
窓の外では、まだ雨が降っている
ザーッという音が、途切れることなく続いていた
「……明日には止むかな」
「たぶんな」
「電車も動く?」
「雨が止めばな」
「そっか……」
明日になれば、帰る
そう考えたら――
急に寂しくなった
「……終わっちゃうんだね」
「何が?」
「今日が」
あたしは窓の外を見る
「なんか……嫌だな」
「何で?」
「だって……」
言葉にするのが少し恥ずかしい
「今日、すごく楽しかったから」
「……。」
「明後日になったら、また学校でしょ?」
「そうだな」
「そしたら、いつもみたいにみんながいて……」
そこで、あたしは少し笑った
「今日みたいに二人きりではいられないから」
あいつが黙ってあたしを見る
「……。」
その視線に、少しだけ緊張した
「何?」
「別に」
「またそれ」
あたしは笑う
でも、胸の奥はドキドキしていた
恋人になった
その事実を、今日は何度も実感した
だけど――
まだ知らないこともたくさんある
あいつが何を考えているのか
あたしのことを、どんなふうに思っているのか
恋人になった今でも、それだけは分からない
だから、少しだけ怖かった
「……入江くん」
「ん?」
「ひとつ聞いていい?」
「何だよ」
あたしは指先を握った
「……あたしたちって」
一度、言葉を止める
「本当に、恋人なんだよね?」
言ってしまった
恥ずかしくて、顔を上げられない
しばらく何も聞こえなかった
やっぱり聞かない方がよかったかな
そう思った時――
「そうだろ」
静かな声が返ってきた
「……え?」
顔を上げる
あいつは、まっすぐあたしを見ていた
「俺が付き合うって言っただろ」
「……うん」
「だったら、恋人だろ」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく
「……そっか」
嬉しい
ただ、その一言が嬉しかった
あたしは小さく笑った
「へへ……」
「何だよ」
「ううん」
首を横に振る
「嬉しいだけ」
あいつは何も言わない
でも――
今度は、視線を逸らさなかった
外は相変わらず大雨
窓を叩く雨音だけが、二人の間を埋めている
あたしは少しだけ息を吸った
「……ねえ」
「何?」
「今日は……」
また言葉に詰まる
でも、今度は逃げたくなかった
「もう少しだけ、一緒にいたい」
あいつがあたしを見る
「……いい?」
「後悔しないな?」
「……うん」
あたしは笑った
そして、そっと隣に座り直した
肩と肩の距離が、ほんの少し近くなる
心臓の音が聞こえてしまいそうだった
それでも、離れなかった
あいつも、何も言わなかった
ただ隣にいる
それだけなのに――
今までとは違う夜だった
「……入江くん」
「何?」
「今日は、本当にありがとう」
今度は、ちゃんと顔を見て言った
あいつは少しだけ目を細める
そして――
「……こちらこそ」
小さな声だった
聞き間違いかと思うくらい
「え?」
「何でもない」
「今、ありがとうって言った?」
「言ってない」
「言ったじゃん!」
「うるさい」
「もう!」
笑ってしまう
雨は、まだ止まない
でも――
今はもう、不安じゃなかった
明日になれば、この夜は終わる
それでも
…………
あいつとあたしは結ばれて一つになった
今思えば この時が一番幸せだったのかも知れないね
だって…この日を境にあたし達は変わってしまったのだから……。
つづく