中学校3年生。突然の引っ越し。
引っ越し荷物も片付かないまま、
直ぐに両親は仕事。サラリーマンとは違い、
朝早くから夜遅くまで働き詰めの毎日が始まりました。私はいきなり家事を全面的に任されることになり、お手伝い程度しかやったことがない私は
まともに出来るわけがありません。
また、転校先はガラが悪いとの事で越境入学。
隣の町までバスで通学するようになりました。
帰って直ぐに、私達家族が帰ってきたのを聞きつけて、小学校1年生から習ってたマリンバの先生が訪ねて来てくれました。
(お金は要らないから、良子ちゃんを預けて欲しい。必ず立派なマリンバ奏者にするから)との事でした。それから音楽の道へ行くためのレールが作られたのです。
中古のピアノを買ってもらい、自宅までマリンバの先生の娘さんがピアノを教えに来られる。
マリンバは近くの商店街にある楽器店の2階で
習う。
学校では剣道部に入部。
この学校でも女子はいなかったのですが、既に
初段を持っていた私は直ぐに入部させてもらいました。それから次々と下級生が入部してきて、
剣道女子部は活気あふれるものになりました。
剣道が面白く、学校だけじゃなく近くの道場まで通う事にしました。
又教育熱心な母は女の子だからとお茶にお花を習いに行くように、既に先生も決めてきました。
宗教は相変わらず熱心で、毎週日曜日には欠かさず集会へ通っていました。
そんな忙しい中、だんだんと勉強もしなくなりました。高校は何処の高校を受験したらいいのか?滋賀県では、進路も決まり夢に向かって頑張っていたのに、転校先では何処に行くのか全然わかりませんでした。
勉強も面白くない。行きたい高校もない。
もう、何処でもいいや、学歴だけつけばいいじゃない。と投げやりになっていました。
そんな中当時誰でも行けそうな、女学校がありました。それは母も通っていた学校です。
昭和9年生まれの母の時代はお金持ちしか行けない、お嬢様学校で有名だったのです。
自分が行った高校だから間違いないから。との事
結局、その高校へ行く事になるのです。
その高校では母の時代に習った国語の先生がいました。昭和32年生まれの私と昭和9年生まれの母と同じ高校で同じ先生から学ぶ事は珍しいのではないでしょうか?
伝統ある女学校。私の時は、〇〇女子高等学校
でしたが、珍しいのが作業着がモンペなんです。
伝統を守るという事で、モンペです。
当時でもモンペの作業着は珍しかったものです。
そういえば、活発な私は(モンペと私)という題名で、弁論大会で優勝し、地元の中学校へ模範弁論として何校か行かされたのを思い出しました。内容は覚えてませんが、題名だけは今も覚えています。
体育では薙刀(なぎなた)がありました。
薙刀は女性の武道と言われ、女子校ならではの授業だったのかもしれませんが、又それも珍しかったと思います。
高校では剣道部はありませんでした。
仕方なく、剣道は道場だけ。
放送部と弦楽部に入り、放送部ではアナウンスの勉強。弦楽部ではコントラバスを。
アナウンスの勉強は
後に、凄く役に立つ事になります。
高校に入り、宗教ももっと熱心になり、
日曜日以外にもいろんな事に参加していました。
家事に、部活。剣道にお茶にお花。
そしてマリンバにピアノ。
そんな多くの事をこなしていける
わけはありません。
次第に、ブランクがあったマリンバは少しずつ
行かなくなりました。
お茶やお花も適当。何もかもが、中途半端。
また忘れられないのが、学校帰りに友達と喫茶店に行き、家に帰って母に (〇〇の喫茶店に行ってきた)と話をすると、(懐かしい〜その喫茶店は私も女学生の時はよく通ったわ〜)って言った時でした。昭和一桁の人が、喫茶店に通う?
やっぱりお金持ちの子だったんだ〜っと思った瞬間でした。
今日は中学校3年生での転校からの高校。
大きな変化の3〜4年間を書かせていただきました
振り返れば振り返る程
波瀾万丈な人生でした。
続く
[喜多川歌麿]による洗濯作業をする浮世絵
今でもモンペはたくさん売ってます。
当時はこのモンペの横をしぼめて、カッコよく
おしゃれに作って履いてる生徒ばかりでしたが、
私はそのまま使う事でした。(笑)
(薙刀)
今でもたくさんの道場があるみたいですね。


