流石家元 | 吉田篤史 オフィシャルブログ 「よそう又夢ンなると不可ねえ」 Powered by Ameba

流石家元

「講談も覚えてぇなァ」そう思って
家元(談志)の「三方ヶ原軍記」
聴いてたんだけど

流石です!!!!!!!

これだけの事が出来るなら
何を言っても許される
そう思ったッ!!!!!

よーし!!
こうしちゃいられねぇ
私も「三方ヶ原軍記」を覚えよう

まずは百遍稽古だッ!!

頃は、元亀3年壬申年10月14日甲陽の太守武田大僧正信玄、甲府において七重のならしを整え、3万余騎を従え、甲州八花形の館を来初なし、遠州周智郡乾の城主天野宮内左衛門、並びに信州の大将蘆田下野守両人を案内者となして、先手の大将、山縣三郎兵衛昌景に5千余騎をさし添え、遠州飯田多々羅両城を攻め落とし、久能の城へと攻めかかる。城主久能三郎右衛門宗義剛勇にして用心堅固に守る故、中々落城いたし難し。よってここで、押さえの兵を残し置き、在々所々を乱暴なし、民家町家を焼きたて、木原、西島、袋井畷、姫子山の麓まで押し出し堂々として屯をはる。浜松への注進櫛の歯を挽くが如く、神君諸士を集めて軍議におよばれたり。この時、酒井、石川、大久保等進み出で、「お恐れながら、君ご出馬の儀はお止めあらせられ、尾州織田家への加勢到着を待って、その上にてご進軍然るべく存じ奉る」と言上すれば、神君憤然とお怒りあり、「やあやあ、言い甲斐なき者どもかな、わが領分を敵に荒らされ、なんぞやみやみと籠城致さるべきや、領主たるものは、民と共に苦しみ、衆と共に楽しむが天理なり、臆病者は籠城せよ心ある者は我が供をせよ」と仰せられ、はや席を蹴立って立ち上がり、物の具着け玄関より駆出だして大音なあげ、「舎人、馬曳け馬曳け」とおっしゃると舎人別当御乗馬を曳き来る。神君鞍の山形へ手をかけヒラリと跨り一騎がけにて乗り出だす。さて、その日の扮装はと見てあれば、朱のタクボクの大鎧、金にて鍬形打ったる前立てに金六十四間白星の兜、白檀磨き赤銅造りの小手脛当貞宗の太刀、藤四郎吉光の短刀を帯び朝霞と名付けたる駿足に金覆輪の鞍を置き金唐草の押当て、紅白紫三段の厚房を掛け、唐草象嵌の伊達鐙、七五三戸〆の鞭を上げ平一散に乗り出だす。ソレと言うので後に続く人々は、大久保七郎右衛門忠世、同じく右衛門忠佐、本多平八郎忠勝、内藤三左衛門信成、平岩七之助親吉を初め、その勢1300人、揉みに揉んで進発なし、大天龍、小天龍をうち渡る。

まだまだ続く!!
(笑)