イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 5
イメージ 6
イメージ 4
 
青島・信号山北麓の変遷(旧リリー邸)
 
撮影地点 信号山展望台
撮影範囲 斉東路、信号山支路、伏龍路付近
写真1:絵葉書の一部(1930年頃か)
写真2・3・4・5:2008年
 
 70年以上経過した絵葉書写真の建物の中で残っているのはおそらく左側の3階建ての建物(斉東路8号)だけである。手前の岩山は削られて無くなっているようだ。
 伏龍路、斉東路一帯は比較的開発が遅かったためドイツ風の道路名はなく、1928年出版の『胶澳誌』によれば斉東路には6軒の戸建て住宅しかなかったという。
 今も残るこの建物は1926年から1941年にかけてアメリカの美孚(スタンダード)石油やタバコ会社の青島における責任者(経理)を歴任した詹姆斯・羅徳里克・彼得(ジェームス・ロデリック・ピーター)が借りて住んだ別荘で、青島で生まれたその子供ジェームス・ロデリック・リリー(中国名・李潔明、1928~2009)は太平洋戦争のはじまる1941年に父とともに帰国したが、中米国交回復後の1989年にアメリカの中国駐在大使として中国に着任し、10数年間を過ごした青島のこの別荘にも訪れ懐かしがったという
  スタンダード石油の青島支店は葉桜町(今の館陶路)7号に設けられ、江蘇路21号にも別荘があった。
(以上、『青島老別荘』を参考にした)
 
 同氏は『チャイナハンズ 元駐中米国大使の回想 1916―1991』 草思社1996年 という本を出している。  同書によれば、父親の名前は「フランク・ウォルダー・リリー2世」であり、一致しない。(P.20) 
 
 『青島老別荘』はこの建物に「詹姆斯(ジェームス)別荘」という名前を付けているが、ジェームスは駐中国アメリカ大使だった「チャイナハンズ」の著者のファーストネームであり、同家の姓は「リリー」なので「旧リリー邸」或いは「美国大使李潔明故居」とでもすべきだろう。
 
 「斉東路8号にあった私たちの家は、ドイツ式三階建てのゆったりした構えで丘の中腹に立っていた。二階にはバルコニーが二ヵ所、一階にはポーチが取り付けられていた。使用人は六人で、コック、小間使い、小間使いの助手、子供担当の阿妈(アマー)、洗濯専門の阿妈と、温室や家庭菜園を管理する庭師たちだった。」『チャイナハンズ』28Pより
 
 最後の組写真は『青島老別荘』青島出版社2006年より
 
 この建物は、建国後は文化芸術界聯合会が使用し、1955年以降は市の文化局が使用していたという。現在の用途は不明。