とは言うものの、かっこよさって具体的に何?って聞かれるとゴニョゴニョとした答えしか出すことができない。

 

僕にとってのかっこよさとは、あえて言えば、なんてゆうか、大人な、上辺だけじゃない、内側からジュンジュン染み出る、色気?、みたいなやつだ。

 

いつかに見かけた、汚い居酒屋のカウンター席で一人、芋焼酎のロック片手に本を読む無精髭の似合う細身のお兄さんがまさにそれであった

 

しかし、じゃあ汚い居酒屋で汚い無精髭伸ばしっぱで、焼酎ひっかけりゃかっこいいんかと言われると、そんなことはなくて、それはただの汚い店の汚い客でしかない。

 

僕の中で髭が似合うかどうかと言うのが、かっこよさのバロメーターになってくるわけだが、髭がなくたってかっこいい人はたくさんいるのであって、髭の有無がかっこよさの必要条件であるとは言えない。

 

顔の良し悪しがかっこ良さと関係してくることは間違いないが、顔がいいからってカッコイイとは限らない。

東京で暮らしていれば、顔がいいだけの薄っぺらいイケメンがこの世にどれだけいるかに気がつくはず。

そんなイケメンは自分が薄っぺらいと思われていることを露とも知らないのだから、これまた始末が悪い。

 

むしろ、そんなに優れた容姿ではない人にこそカッコよさを感じることが度々ある。

 

かっこよさとは、よくわからないものなのだ。

 

九鬼修造とは

九鬼は8年間のヨーロッパ留学の中で、大哲学者ハイデガーらに学び、帰国後すぐ『「いき」の構造』を発表した。
ハイデガーとは、20世最大の哲学者と呼ばれるあのハイデガー。
20世紀最大の難書『存在と時間』を著した(しかも未完!)あのハイデガー。
ナチスとの繋がりを噂され、ハンナアーレントというこれまたドイツを代表する哲学者との世紀の大不倫で哲学界を賑わせたあの問題児ハイデガー。
 
九鬼はハイデガーから”現象学”という哲学的武器を手に入れる。
現象学とは、ザックリ言うと「うだうだ理屈抜かさずに物事をありのまま見てみる哲学」。
プラトンの時代からうだうだ理屈をこねくり回し続けてきた哲学にとって、現象学は爆弾であり救世主であった。
 
生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあるとこを知っている。しからばこの現象がいかなる構造をもっているのか。「いき」とは畢竟わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得させるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。
 

『「いき」の構造』

九鬼の目には「いき」はどの様に映ったのか。
  1. 媚態
  2. 意気地
  3. 諦め
1.媚態
 媚態とは、一元的自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。
要は、「え、私たち付き合ってんの?付き合ってないの?」みたいな関係のことだ。
あやふやな、危うい、今にも崩れてしまいそうな、それでも引き合ってしまうアンビバレントな関係にこそ色気が含まれる。
 
もちろん、「え、私たち付き合ってんの?付き合ってないの?」という問いに対して、「え、あ、まーそうねー」なんて間延びした返しをする男に媚態はない。
なぜなら男はその関係に安住して、楽してるわけで、そこには関係の危うさがない。
こいつは野暮である。
 
2.意気地
「宵越しの金は持たない」「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉がまさにそれ。
その内実には武士道的理想が息づいていることを九鬼は見抜いている。
この日本的男らしさが意気地である。
 
そこには矛盾する様だが、異性に対する反抗をも内包していて、これが媚態と交わる事で一種のアクセントになる。
 
3.諦め
 「いき」は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持ちでなくてはならぬ
例えば、どこか遠い目をした、虚しげな表情に人はなぜか惹かれてしまう。
 
「月にむら雲 花に風 思うこと叶わねばこそ浮き世」なんてのは好色一代男の名文句だが、過ぎゆくものに心なびかせ、執着から抜け出した、仏教的諦観に人は儚げな美を感じる。
 
別れた後も未練タラタラな男がダサいのは、つまりそういうことだ。
 

例えば、着物は横縞より縦縞の方が粋らしい。

まず平行線は決して交わらず、揺れる着物の中にあっても、それはあくまで直線的に描かれる。
線と線とのつかず離れずの関係と、しかし必ず交わることがない無骨な態度が表されている。
 
縦縞の方が横縞より優れているのは、左右に並行に置かれた両目にあっては、垂直の線の方が、平行線の関係を認識しやすいかららしい。
 
また縦縞には、上から下へと流れる、雨粒や水流といった自然の流れが表されている。ここにこそ、無為な、欲の無い、一種の軽やかさが含まれている。
 

じゃあ例の兄ちゃんはなんでかっこよかったのか

それは「いき」の要件を満たしていたからだ。

まず、居酒屋で本を読むという行為こそが媚態であろう。
居酒屋は酒を飲んで飯を食って愚痴をこぼす場所であって、本を読む場所ではない。
しかも汚い居酒屋のカウンター。
臭いと、店員の動きと、客の笑い声で集中できるはずがない。
交わらない居酒屋×読書という組み合わせを自然にミックスしてのけている。
二元的関係から媚態が見出せる。

第2に芋焼酎ロック。
読書を遮るサラリーマンの不愉快な笑い声をかき消すかの様に飲み干す、喉を焼かせる乙類焼酎。
割らずにオンザロックのところがポイント。
これがソーダ割だったり、はたまた、柚みつサワーだったりしたらダメ。
芋ロックが正解。
別解はウィスキー。もちろんロックであるべきだ。
 
最後は細身で無精髭のルックス。加えて少し猫背な方がいい。
読む本も『30代にしておきたい17のこと』みたいな、余生を幸せに暮らす気満々の自己啓発本よりは、坂口安吾とか伊藤整、檀一雄みたいな無頼派を読んでおいてほしい。
あとなるべく、筋トレとかはしないでほしいし、タバコも吸っておいて欲しい。
 
 
僕もあの兄ちゃんを見習い、無精髭に文庫本片手に居酒屋に繰り出そうかと思ったが、「かっこよく見られたい」と思ってる時点で、全く「いき」じゃない。
かっこよくなるのは、やっぱり難しい。

・ここ最近、村上春樹にハマっている

 きっかけはラジオ。

 今、僕の家にはテレビがなくて、一人暮らしの家は妙に静かでサワサワしてしまう。youtubeを垂れ流していた時もあったけど、5分おきに不愉快な筋肉増強剤のCMが挟み込まれるので、近くのディスカウントストアで500円の昔ながらのハンディーラジオ(おじいちゃんが川辺で座りながら競馬中継聞いてるアレ)を買って、無音を紛らわしていた。その後radikoの存在を知ってからは使わなくなってしまって、燃えないゴミの日に出してしまったけど。

 

 そうしてラジオが日常的な存在になったある日、「村上ラジオ」なる番組が不定期で放送されていることを知った。パーソナリティーの村上春樹がおすすめの曲をダラダラ流していく番組で、最高に楽しい番組な訳ではないけど、無音を紛らわすにはちょうどいい番組だった。

 こんばんは。村上春樹です。「村上RADIO」、今年もよろしく……なんて言っている暇もなく、もう2月の末になってしまいました。お元気ですか? 今年もなんとか健康に乗り切りましょうね。いろいろあるとは思いますが、やはり健康がいちばんです。「一に足腰、二に文体」というのが僕の人生のモットーです。

 「一に足腰、二に文体」ーー。

 そう語る村上春樹は(僕は村上春樹を彼の本とラジオでの喋り口しか知らないけれど)至って普通の、なんならちょっと野暮ったくてダサめの、ジャズとビーチボーイズとランニングと猫が好きな中年オヤジという印象。

 だけど、このおっちゃんの書く文体のイキで、ワイルドで、シニカルで、リズミカルでカッコいいこと。

 このギャップに僕はハマってしまっている。

 

・『女のいない男たち』

 このタイトルはヘミングウェイの『Men without Woman』から引っ張ってきたタイトル。愛する女を失った男たちをモチーフにした短編集。

 なぜ、女は男の前から姿を消したのか。

 とどのつまり、NTR、ネトラレ、寝取られたのである。

 

 この本の始めに収録されている『ドライブマイカー』では主人公の中堅俳優・家福が新しくドライバーとして雇う無口なヘビースモーカーの女・みさきに、亡き妻と、妻と関係を持っていた男の話を語る。

 家福の妻は女優で彼より二つ年下。顔も美しい、いわゆる美人女優で、家福は妻のことを愛していた。家福は妻以外の女と寝たことはなかった。

 しかし妻はそうではなく、ある時から同じく俳優の男たちと次々と関係を持つようになる。家福はそれに気付いていたし、だからと言って妻を咎めるようなこともしなかった。

 ある日妻が子宮癌で死ぬ。その後家福は、妻と関係を持っていた男の一人と友達になろうとする。

 「どういえばいいのかな……僕は理解したかったんだよ。どうしてうちの奥さんがその男と寝ることになったのか、なぜその男と寝なくてはならなかったのか。少なくともそれが最初の動機だった」

 高槻というその男はいわゆる二枚目。顔が良くて身長も高いが、演技がうまいわけでもなく味もない、爽やかなだけの薄っぺらい役者だった。家福は高槻に話しかけ、酒を飲み交わすようになり、亡き妻(高槻にとっては一度寝た女)について語り合うようになる。

「でも、はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。性格はいいかもしれない。ハンサムだし、笑顔も素敵だ。そして少なくとも調子の良い人間ではなかった。でも敬意を抱きたくなるような人間ではない。正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。それに対して僕の奥さんは意志が強く、底の深い女性だった。なのになぜそんななんでもない男に心惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか、そのことが今でも棘のように心に刺さっている。」

(中略)

「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」とみさきはとても簡潔に言った。「だから寝たんです」

・男は大層傷つきやすい

 男ってなんて弱い生き物なんだろうか。
 女を失った男たちは一様に、自分の価値の無さに打ちのめされる。
 女に怒りをぶつけるわけでもなく、寝とった男に復讐するわけでもなく、自分の存在を否定し、心に追った深い傷をグッと奥底に仕舞い込んで、何もなかったかのように振る舞う。女を奪われた事実を客觀視し、諦観の姿勢を装う。けれど、隅に追いやった精神の痛みは呪いみたいにつきまとってくる。
 僕の経験上、女の人は昨日別れた男の悪口を平気で言うけど、男は口が裂けてもそんなこと言えない。代わりに呪詛のように、自分のダメなところを並べ立ててどんどん卑屈になっていく。自分を卑下するのに疲れると、仕事に勉強に勤しんで、意識的に彼女のことを忘れようとするけれど、夜寝る前なんかにフッと彼女の怨霊が枕元に現れて、罵声を浴びせてきて眠れなくなる。
 そうして、また卑屈になって、生活に忙殺されることで思考を停止させ、忘れた頃にまた怨霊が現れる。
 いつになったら心の傷を癒せるのかというと、新しい女と出会った時であって、また何時その新しい女に手痛く傷つけられるかもわからない。
 女の仕打ちを罵ることも、苦しさに涙流すことも許されない。男だから。男はいかなることも他人のせいにしてはいけないし、男は弱さを見せてはいけないから。
 
 そう考えると、この短編集は村上春樹の作品でたびたび登場する”タフ”であったり”ハードボイルド”といった概念を裏面から見たような作品になっているようにも思える。
 何より、文体の軽快なリズムがよくって、とても読みやすい。
 男の人も女の人もおすすめ。
 

 あと今(まさに今、一個上の行まで書き終えてこの文章終わろうとしてた時!)知ったんだけど、『ドライブマイカー』映画化するんですってね!!!!福家が西島秀俊で高槻が岡田将生!!!監督は黒沢清!!!!最高ですっ!!!!!!!!!!!

 
 
 

「まずいスープ」という小説を読んだ。

 

作は戌井昭人。

鉄割アルバトロスっていう最高に面白い劇団?余興集団?を率いて活動をしていて、僕が昔いた文学座の研究所の先輩らしい。

 

鉄割については2〜3年に一回ペースで公演やってる。

youtubeとかで検索すれば動画が上がってると思う。

例えばこれなんかお気に入り。

最高にファンキー。

 

僕は鉄割のファンだ。

 

しかもこの戌井昭人さんは、文学座の創設に携わった重鎮、故・戌井市郎の孫。

日本演劇史の登場人物の孫が、こんなナンセンスな作品を作ってるってのが惹かれる。

 

***

 

「まずいスープ」は141回芥川賞候補に選ばれた作品。

まずまずの評価ではあったが、”何かが足りない”て感じでぼんやりと受賞を逃してしまった。

 

その評はわからないこともない。

この本、すごく掴み所がないのだ。

 

上野のアメ横の団子屋でアルバイトする主人公。

ある冬、バイトから帰ってくると父が作ったスープが食卓に並ぶ。

これがめちゃくちゃにまずい。

 

それは、とにかくまずいスープだった。表面には粉々になったガラスみたいに浮かんだ油が散らばり、ぶつ切りにされた魚の身や骨が無残に沈んでいた。味を思い返すと、今でも口の中には直接、まずさが蘇ってくる。沼みたいなスープだった。まずさが沼の底に沈殿するように、俺の記憶に沈んでいる。

そして数日経ったところで、父が失踪する。

行方不明の父を探しに、父の仕事場の雑居ビルの一室に忍び込むと、そこはもぬけの殻。

しかし、天井裏からビニール袋に入った大麻が見つかる。

そのままにしておいても危険だし、金のない主人公は、知り合いに大麻を一袋売りつける。

そんなこんなしてるうちに父の目撃情報。伊東の温泉宿にいるらしい。

宿に向かい父から話を聞くと、実はロシア人から拳銃密輸の片棒を担がされそうになり、身の危険を感じて姿を眩ましていたのだとか。

翌日、父はどこからかタコを買ってきて、宿の厨房でタコ汁を作る。今度は美味しかった。

主人公が魔法瓶にタコ汁を入れて、東京行の電車に乗っている描写で、この話は終わり。

 

***

 

粗筋だけ書き出すと、拳銃だの大麻だの、なんともハードボイルドでサスペンス。

だけど本を読む限り、一切アクションがない。動きがない。

すごく静かに、ともすればダラダラと時間が流れていく。

 

グラグラとした、いつ破局してもおかしくないシチュエーションの中で、絶妙なバランスを維持しつつ、話が進んでいく。

 

主人公をはじめとして、その腹違いの妹、やたら酒飲みの母親。

団子屋の女亭主に、生意気な息子といった登場人物の造形とその関係こそがこの小説の勘所。

彼らから感じる下町情緒というか独特の余裕な空気が、全体にじんわりとした重みとヌルさを与えている。

 

暖かいんだか冷たいんだか、悲しいんだか面白いんだか、重いんだか軽いんだかよくわからない。

絶妙に”中途半端”な奇妙な読後感。

 

あと、大麻の描写がやけに生々しい

いやいや、絶対吸ってるでしょ。この人。

大麻を吸う人間の描写、大麻パーティーの描写、大麻による幻覚の描写。

まるで見てきたかのような描写。

絶対クロだ。

***

読んだあとなんだかムズムズするし、よくわからない本。

つまらないと思う人は「意味わかんねー」て感じでポイッと捨ててしまうだろうと思う。

 

でも僕自身、”意味わかる本”と”意味わかんない本”なら後者を手に取ってしまう。

しかも、”意味わかんない本”の中でも「まずいスープ」は”意味わかんないけど何かを感じる本”だと僕は思った。

 

もっというと、本とか映画において一番大切なことは”意味わかんないけど何かを感じる”てことだとも思う。

 

「最後の最後にどんでん返しが〜」とか、「○○での伏線がラストで回収されて〜」とかそういう、言語化可能な面白さよりも、「よくわかんないんだけど、いいよね〜」ていう、言語化不可能な面白さの方が価値を感じる。

 

もっともっというと、そういう言語化不可能な面白さを、なんとかして言葉にしようとすることにも価値があるんじゃないかしら。

だから、読書感想文とか、映画評とか、コラムとか、レビューとかは面白いんだと思う。

 

ま、いろいろ蛇足で語ってしまったけど、「まずいスープ」面白いんでおすすめです

↓↓↓↓↓↓↓

 

”バケツをひっくり返したような雨”という慣用句が好きだ。

 

とても豊かな言葉だと思う。

 

突然の大雨。空前絶後、天変地異の大雨。まさに”バケツをひっくり返したような雨”。

 

でも、この文には、その前日の、雨の予感も感じさせない真っ青な青空の景色が含まれている。

晴々とした青空があるからこそ、”突然の”大雨なのだ。

 

一生振り続けるんじゃないかというぐらいの大雨。

しかし、バケツを一度ひっくり返せば、バケツの中身は空になる。

今までの雨が嘘のような、雲を割ったような快晴。地面には大きな水たまり。水面に反射する太陽光。

 

一つのレトリックに三様の景色が包含されている。それぞれがとても美しいと思う。

 

美しいだけじゃなくて、この言葉を聞くと憂鬱な雨の日が愉快に思えてくる

 

まず、水いっぱいのバケツをひっくり返して、雨を降らす図を想像する。

真っ白の、上にのれて移動できるタイプの雲に、

キリストとモーゼと仙人のあいのこみたいな神様がいる。

便所掃除用の、いかにもバケツらしいバケツに、タプタプ水をため、

いい頃合で人間界にぶちまけてる、ヤンチャな神様の姿が目に浮かぶ。

 

多分神様は、じじいだから歯がないだろう。

歯茎丸出しでギャッヒャッヒャなんて笑い声ではしゃいでいる姿が目に浮かぶ。

 

楽しそうに。

そりゃ神様だってたまには、はしゃぎたいことだってあるもんなぁ。

あぁユカイ、ユカイ。

 

そう思うと、靴に水がしみこむぐらい、洗濯物部屋干ししなきゃなんないぐらい、どうってことなくなる。

 

雨音のダンサブルなリズムも気分を高揚させる。

 

ジーンケリーが傘もささず、一眼もはばからず大熱唱できたのも、大雨だったからかもしれない。

小雨だったら、流石に鼻歌程度で済ませていただろうに。

 

そう思うと、言葉や音で軽々と憂鬱な気分を吹き飛ばせるんだから、

人間って結構お気楽な生き物かもしれない。

最近髭をのばしている。

 

のばすと言っても、髭剃りをやめるだけだから何のことはない。

朝の工程を一つスキップするだけだ。

 

すね毛は濃いのに髭は薄いので、毎日微々たる成長スピードだ。

2週間ほど経って、やっと鬚っぽさというか、

鬚の自我が確立されてきた気がする。

”口周りの毛”ではなくて、””と名乗ってもいい頃合いになってきた。

 

なぜ鬚をのばすかというと、大人っぽくなりたいから。

大人っぽくなりたいから髭を伸ばすなんて、子供っぽい理屈だと言われるだろうが、

大人っぽくなる他の方法が思いつかない。

 

僕は大人になりたいし、精神的に成熟した人間になりたい。

 

どこで誰が言ってたのか書いてたのか忘れてしまったけれど、

子供に戻りたいと思っていたら、それはもう大人になっている証拠で、

早く大人になりたいと思っていたら、それはまだ子供の証拠なんだそうだ。

 

髭を伸ばしてみて、いくつか僕自身に変化がある。

まず、お菓子を食べなくなった。

特にチョコやプリン、シュークリーム。甘いお菓子は食べなくなった。

大人に向けて一歩前進だ。

 

代わりに、コーヒーや紅茶、緑茶を飲むようになった。

近所のディスカウントストアに売ってる10パック200円のティーパック入りの紅茶に、お湯を注いで、3分待って、湯気を眺めて、少しずつ飲むようになった。

時間がゆっくり進んでいく感じが、大人っぽくて、とてもいい。

タバコを吸ってる時に似た感覚なのかもしれない。

僕は吸わないのでよく知らないけど。

(過去に一回だけ吸ってみたことがある。

家のベランダで一本吸ってみたら、ヘラヘラしてきて笑いが止まらなくなってしまった。

面白くないのに、口角が引きつって、笑い声が漏れ出て止まらなくなった。

怖くなったので、それ以降吸ったことはない。

アメスピの紫の、確か1mmのやつだったと思う。)

 

昔、5年ぐらい前に坊主にしていたことがある。

なんで坊主にしたのかあんまり覚えてないけれど、たしか何かしら大きな失敗をしたような気がする。

申し訳なくって、衝動的にドンキでバリカン買ってきて、風呂場で頭を剃った。

 

今まであった毛が一掃され、頭皮が外気と触れる。

これが結構気持ち良かったのだ。

脳が冷やされるからなのか、今まで自分を覆っていたものが取り払われたからなのか。

邪念が一切なくなり、健やかな気持ちになって、性格も心なしか明るくなって、友達も増えた。

 

精神と肉体はひと繋ぎだ。

デカルトが否定し、スピノザが肯定した、心身一元論の本意を、僕は坊主によって悟ったのだった。

 

精神は肉体によって決まる。逆も然りだろう。

元気がない時は、よく眠るのがいい。

焦っている時は、思いっきり呼吸するのがいい。

苛々している時は、たくさん水を飲むのがいい。

不安なときは、ちゃんと太陽を浴びるのがいい。

 

心を晴れやかにさせたいなら、坊主にするのがいい。

大人になりたいなら、髭を伸ばせばいい。

 

もし僕がこの先大人になって、

その時子供に戻りたいと思ったら、

その時は、髭を剃ればいい。

新居の近くに、割としっかりした公園がある。

名前は”ワンパク公園”

しかし、そこに集う子供たちは、ワンパクなんてもんじゃない。

彼らは完全なるアウトロー

ここは不良少年どもが幅をきかせたスラムだったのだ。

 

まず、この公園には、遊具がない。

子供たちをお行儀良く遊ばせるための、杓子定規の、決まり切った、大人の勝手で付け替えされる、退屈な、遊び道具など、ない。

あるのはただ子供たちの無軌道な遊びだけ。

ここは無法地帯の世紀末なのだ。

 

この公園は大きく二つにエリア分けできる。砂敷の大きく開けたメインエリアと、高台のベンチエリア。2つのエリアの間には芝生敷の急な坂がまたがっている。

坂の高さは8メーター程。斜面の角度は30度近い。相当な急勾配。

 

坂の上で、彼らは横一列に並ぶ。

互いの顔を見合わせながら、興奮混じりに笑みを浮かべている。

全員が坂の下を眺め、一瞬の静寂。

次の瞬間、彼らは坂に向かって走り込む。

 

ゴロゴロゴロゴロゴロロロロロロロ!!!!!!!!!!!!!!!

助走つけて。飛び込むようにして、横並びで一斉に寝っ転がり、落ちていくのだ。

とんでもない暴走行為。

地面に叩きつけられる直前で、跳ね起きる少年たち。

地獄峠の走り屋もビックリのチキンレースだ。

後半、一人ぐらいは縦回転にでんぐり返ししていたような気もする。

 

幸い、坂は芝生敷で柔らかい。

しかし、広場は砂、ってか地盤剥き出し。地球の硬さがモロに出ている。

しかも周りは石段で覆われている。

一歩間違えれば死。だが少年たちは恍惚とした表情。

どうかしちまってるぜ。

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あるときは、フェリックスガムの密売現場。

交換レートはフェリックスガム1個に対して、公園で見つけた珍しい形の石1個。

ディーラーの少年は受け取った石を恭しく眺め、撫で、ほくそ笑んでる。

フェリックスガムを受け取った少年は隠れるようにして、目を血走らせながらガムを口に入れ膨らませる。膨らんだガムが破けると、少年は線が切れたように大爆笑。

こいつ、完全にキマっちまってる。

 

駅前の喫茶店に行く道すがらにこの光景を目撃した僕は、一時間後の帰りしなにもその少年を見かけた。

まだ笑ってた。

生粋のジャンキーだ。

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他にも、ペダルがないタイプの自転車で法定速度ブッチギリの危険運転繰り返す非行少女。

グニャグニャしながら進むタイプの2輪スケボーで後ろから迫り、持っていたお菓子を盗みまくる窃盗犯。

枚挙にいとまが無い。

 

悪が悪を呼び、巨悪が蔓延るスラム・ドッグ・ギャングスタ・パーク、それがここワンパク公園なのだ。

 

(最後に関係ない話。

夜公園歩いてたら、前から犬の散歩してるおばあちゃんがいたの。

真っ黒なでっかいドーベルマン3匹連れてたのね。それが体でくっつけてノソノソ歩いてたわけよ。

暗いからよく見えなかっただけなんだけど、遠目から見ると、おばあちゃんがケルベロス連れてるみたいに見えてめっちゃ怖かった。

そういえばあのおばあちゃん、目の感じがどことなくハデスに似てたかも。

以上。)

 

間が空いてしまったけど、前回引っ越しすっぽかして公園に行った時の話。

 

コーヒーとパンがあれば乙だななんて思って、とりあえずパン屋へ。

パン屋は池を跨いで反対側なので、散歩がてら池を半周する。

 

すると、池の水がなくなっていた。

今まで池だったところは、泥と土の境目ぐらいのベチャグチャした土地になっていた。

そういえば、水の上に浮かんでないアヒルボート、初めてみたかもしれない。

 


テレ東の人気番組のやつを、今度は区が主導でやったらしい。

池抜くシリーズ恒例の”とんでもない量の外来種”も大量に捕獲できたらしい。

在来種のモツゴ998匹。対して外来種ブルーギル3515匹。

外来種強すぎん?桁が違うじゃん。

 

水のない池を眺めながら公園を半周して、パン屋に辿り着き、パイ生地の中にチョコが入ってる、お洒落すぎて覚えられない名前のパンとコーヒーを買って適当なベンチに座る。

座った瞬間風がふく。冷たい。自然が俺の読書の邪魔してくる。

町田康の『ギケイキ』を鞄からだして、ページをめくる。超面白い。今、源義経が口から火を噴射して昔馴染みの陵介重頼の邸宅を焼き討ちにするシーン。めっちゃくちゃ面白い。



めくればめくるほど、風が強くなっていく。

結局、2ページくらいで断念。本をしまう。本しまったら風が止んだ。どういうこっちゃねん。

 

大人しく家に帰る。

途中、イベント広場的なエリアからバイオリンの音が聞こえる。

一段上がった舞台の端っこに、モスグリーンのベレー帽かぶった、やたら背の低い、おばさんなんだかおじさんなんだかよくわからない、でも多分おばさんであろう人がバイオリンを弾いていた。

すっごく怪しいけど、なんか嫌いになれない空気感。

おばさんは、屋外でなんの役にも立たないであろう、めちゃくちゃに小さいBluetoothスピーカーから伴奏を流して”ハウルの動く城のテーマ”を弾いていた。

めちゃくちゃ怪しいけど、ハウル好きに悪い人はいないから、ベンチに座って聴くことにした。

これが結構良くて、ちゃんと感動してしまった。

結局その後の2曲も続けて聞いてしまった。とてもいい。よかったので、お気持ち程度の投げ銭もした。

「あ、ども。どもです。どもです、どもです。あざす。どもです、どもです。」と以上に早口で言われた。やっぱり変な人だった。

 

陽が傾いてきたので家に帰る。

結局本はちょっとしか読めなかったけど、盛り沢山だったし、なかなか歩いた。疲れた。

家について、コートを脱ぎ捨てて、布団に横になる。このまま30分くらい寝てしまってもいいな。

それにしても汚い部屋。なんでこんなに物が出しっぱなしになってるんだ。段ボールも出しっぱなしだし。

あ、引っ越し。ガムテープ買いに行かなきゃ。

またコートを羽織って、家をでる。

 

(引っ越しはなんとか無事終わった。僕は今、これを新居で書いている。)

 

 

 

いいかげん、引越の準備を進めねばならない。

とりあえず、引越当日の一週間後までに使うことのない荷物をまとめてしまおう。

 

午前10時に近所のドラッグストアへ向かい、持ち前の愛嬌でもって、薬剤師兼レジ担当ベテラン風パートおばちゃんを口説き落とす。大容量段ボールをゲット。

 

二時間ほど荷造りをしているとガムテープがなくなった。

買いに行かなきゃ。

上着を着込んで外に出る。暖かい。日が真上まで昇ってる。

 

”外の方が家の中よりあったかい”という怪現象がこの安アパートではよく起こる。

ステータスを家賃の安さと駅からの近さに全振りした分、住環境のパロメーターが極端に低い。

五角形のグラフに表したらめちゃくちゃ歪でバランス悪い。角、鋭利すぎ。凶器じゃん。

 

”夏は外より暑く、冬は外より寒い”がこの家の特徴。

夏。屋根が薄いので、直射熱がダイレクトに家を蒸し焼きにする。ロフトの壁に窓がついているが、なぜかはめ殺しになっている。おしゃれのつもりなのか?こいつが開かないせいで、屋根からの熱の逃げ場がない。

冬。隙間風が室内温度を奪っていく。暖房はついてるが、ロフトの存在を考慮しない変に低い位置についているので、暖気が全部上に逃げていく。居住スペースがやたら寒い。床が冷たい。

おまけに半年前から家の前にどでかいレンタルガレージが建ったので、日光が全く入らない。日照権を求めて訴訟を起こしてやりたい。負ける気がしない。

あと話逸れるけど、うちのアパートの隣が水産加工会社で、主にアタリメなんかを作ってる。だから家の前の道路がやたらイカくさい。

(ちょっといい話も。下の階のおじちゃんが野良猫に餌あげまくってて、いろんな猫が出入りしている。夜中になると、猫の鳴き声と窓をひっかく音、そのあとに窓を開ける音とおじちゃんの猫語、最後にありがとうの鳴き声と窓を閉める音。このルーティーン。おじちゃんと野良猫の生活音。可愛い。)

 

厚手の上着を薄いのと取り替え、外に出る。

いい天気。

そうだ。最近新しい本を仕入れたので近くの公園で読もうっと。

再び家に戻り、おニューの町田康『ギケイキ』と、途中だったスピノザ『エチカ』、阿久津隆『読書の日記』をベンチ要員としてカバンにいれる。

 

その公園は、武蔵野三大湧水池の一つに数えられるおっきい池を中心に、雑木林や遊歩道が整備された、家族が休日をのんびり過ごす用の公園。

僕的見所は謎にでかいメタセコイヤが生えてること。ほぼジャングル。

 

家の鍵を閉めて、公園へと向かう。

ハードカバー二冊と文庫本一冊だから、カバンが重たい。

 

この時すでに、ガムテープのことは忘れている。

(長くなったので、公園についてからの話は後日また。)

 

 

 

 

それはそれは、大歓喜。

天にも昇る気持ちとはこのこと。

最高の気分。

う、う、う、うれぴーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!

イェイ、イェイ、イェイ!!!!!

わっしょい、わっしょい、うんとこどっこいしょい!!!!!!!!!

万才三唱!!!!縁もたけなわ!!!!三々五々!!!!!!!解散!!!!!!!

 

こんなに嬉しいこと滅多にない。

たとえ、顔がかっこいいねと言われようと、頭いいねと言われようと、運動神経いいねといあれようと。

この喜びに勝るものはない。

 

例えば、僕は俳優をしているから、人前でお芝居をすることがよくあって、「お芝居上手いですね」と言われたら、そりゃ嬉しい。嬉しいにきまっとる。

が、しかし、「いやいや、全然僕なんかまだまだっすよ」なんて謙遜しちゃったり、「あ、マジっすか、うっす、あざっす」ってイナした返ししちゃったり。

ほんとのほんとに嬉しいはずなのに、心の底から、無邪気に喜ぶことができない。

喜びに対して、なんらか根拠や責任を求められる気がして弱ってしまう。

 

ブログを褒められて、こんなに素直に喜べるのは、これが全き趣味だからだ。

そう、これは趣味。余暇。ホビー。だから圧倒的無責任。責任の所在などどこにもない。

暇つぶしについて、あっちいったりこっちいったりしながら哲学する本。

結論もあっちゃこっちゃ跳んでいくわけだけど、その一つの結論が「消費をするな浪費をしろ」ということだ。

浪費=贅沢、過剰摂取、必要以上のものを食うこと。腹一杯ものを食って、苦しくってもものを食う、嫌になってもものを食うこと。浪(よどみ)なく費やすということ。

対して消費は食っても食っても腹一杯にならない。満たされない。費やしては消えるということ。

大量消費社会を生きる僕らが何を食っているかというとそれは記号だ(ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」てクールな本がある。消費は今や実体のない神話なんだ!)。

グッチ、シャネル、ベルサーチ、タピオカ、タワーマンション、フェラーリetc

彼らが見ているのは物質そのものではなく、記号だ。それでも僕らが記号を欲してしまう。この欲望には際限がない。だからジャンキーになっちまう。

ブランドものには手を出さず、ユニクロ着まわしてる吝嗇家だって、その実、口座残高の桁数をいたずらに追い求める、記号ジャンキーに成り下がってる。

記号を追い求めることは寂しい。腹いっぱいにならない。

労働も時間の消費だ。それも日銭のための肉体労働ではなく、夢を叶えるための営みであればますます消費だ。なぜなら、夢は記号だからだ。記号は差異の体系で、その網の目はズンズンと知らないうちに広がっていって、手に負えないほどの広がりをもってしまう。知らないうちに。

 

文字を書くことは、僕にとって消費社会からの逃避行かもしれない。

文字を書くことは時間の浪費。消費じゃない、浪費だ。だからいい。

ウィダーインゼリーみたいに、チュルッと喉を通って、はい食事終わりなんて、そんな野暮なことはしない。

しっかり両手にまんまるおむすび握りしめ、口ん中にぶっこむ。しっかみ噛み締め、味わい、一飲みゴッキュンと胃にダストシュートする。

おにぎりを、おにぎりとして味わうように、文字を書くことを楽しむ。

 

ま、長々書いたけど、ブログって、余計なこと考えず好きなこと書けるから、いい趣味ですねって話でした。

 

 

スーパーとかで流れてる「大特価!!大特価!!きゅうり1袋100円!!!!!トマト、1パック85円!!!!!!ぃやすぅいよーーーーーーー!!!!!ぃやすぅいよーーーーーー!!!!!」てテープ。

あれ、毎朝録音してるんだろうか?

だとしたら、いつ、誰が、どこで?

気になる。

 

うちの駅前には八百屋があって、そこでも大絶叫安いよテープがエンドレスで流れている。喉ガシャガシャ、滑舌フワフワのおじいちゃんの声が録音されてる。平気で甘噛みしてる音声流してる時もある。

 

この店のレジにはいっつもカラカラに干からびたおじいさんが座っている

ご老人はこのおじいさん意外いない。

この人が、毎朝、テープに向かって叫んでるんだろうか。

すごく気になる。

こんなご老人があんな大絶叫してもいいものだろうか。

誰か若者が変わってあげればいいのに。

いや、これが、親爺さんのプライド、死ぬまで渡せない最後の仕事なのかもしれない。

 

6年近くこの街に住み、このテープを聴き続け、今や僕はこのテープのファンだ。

野菜を買うなら、駅近の西友より、おじいちゃんの絶叫が聞けるこの八百屋に来てしまう。

おじいちゃん、お体には無理なさらず。ご自愛ください。