善きサマリア人氏の記事
という記事を読み改めて考えて見ました。(上記記事引用は青字)
「聖婚60周年のオモニのメッセージと二つの石像から判断する限り、オモニが予定通り奉献した基元節の正当性が疑われます。」
と[善きサマリア人」氏はその正当性を疑っています。
韓総裁のメッセージと石像と、それぞれにおいて考えたいと思います。
「基元節」とは文師によれば「完成期の聖婚式」です。
当然「聖婚式(結婚式)」は一人では出来ません。
つまり「基元節」が「完成期の聖婚式」である限り、一人でゴールするとうのは不可能なのです。
ところが韓総裁の語られた2020年5月8日のメッセージを見ると
『54年間走り始めて、2013年1月13日、基元節のゴールは誰がしましたか?お母様だけがゴールしました。』とハッキリと自分だけがゴールしたと語っています。
文師の御言からすれば、一人では不可能なゴールを韓総裁は一人でゴールしたと語っています。「基元節」という同じワードで何故このような矛盾したことが起こるのか?
皆様も普通に疑問に思いますよね。
善きサマリア人氏の記事では
『自分なりの原理観、摂理観に基づいて挙行されたかもしれないのです。
オモニが自分なりの原理観をお持ちであることは、「私は誰からも原理を学んでいない、はじめから知っていた」という発言に示されています。』
と述べています。
私も善きサマリア人氏に同意です。
このことから同じ言葉、文言でも文師と韓総裁では違う意味で語っているということが分かります。
「独生女」にしても然りで、韓総裁の語る「独生女」と文師の語る「独生女」は全く違うのです。
独り子(メシア)の相対(伴侶)としての「独り娘」とうのは文師の御言にもあるようです。しかし、韓総裁が語る独り娘(独生女)は、j自分は無原罪で、原罪ある文師と結婚することでメシアにしてさしあげたなど。
韓総裁の語る「独生女」を肯定する聖会(旧家庭連合)の方々が拠り所にしているのが「お父様の御言にも『独生女』が書いてある」とうことですが、その意味するところは全く違うという事なのです。
題目:「孝情の夢を育てる」
「真のお父様の天宙聖和以後、慌忙とする中でも希望の紐を手放さないで深い精誠の基台の上に国家復帰の為の“中断のない前進”を宣布され摂理の最前線で導いて下さった“基元節宣布の場面”を形象化した石像。」
「基元節宣布の場面」を形象化(形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること)した石像という事です。
「基元節宣布の場面」と説明し、それが独りで立ってる石像とうのであれば、やはり本来の「基元節」とは認識が異なる事になります。
繰り返しますが「基元節」の意味は「完成期の聖婚式(結婚式)」のことなので。
「基元節」そのものではなく「それを宣布したとき」の石像という言い逃れはできますが・・・それもどうかと思います。勝利を霊界のお父様と共に宣言している場面でもないし。
やはり韓総裁は文師の御言による「基元節」とは違う、ご自分の考えに基づいて「基元節」を捉え宣布したと言えます。
このように独自路線を行く「天の父母聖会(当時は家庭連合)」による「基元節」の正当性があるとは言えません。