戦艦「大和」乗組員の言葉。 | yosia621のブログ

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この記事も8月頃UPしようと書いておいたものです。
死を覚悟し、自分たちが命を懸けて日本に訴えようとしたことをかみ締めたいと思います。
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<戦艦大和>
日本海軍の象徴となった「戦艦大和」も最後は座礁に乗り上げ砲台と化すよう命令を受け、作戦途中で米軍敵機魚雷により九州沖に沈没しました。

「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。」
日本新生の先駆けて散る。まさに本望じゃないか」
大和乗組員、若い海軍士官が死を覚悟して語った言葉だそうです。

<戦艦大和造船の背景>
昭和16(1941)年12月8日日本軍航空機がハワイ真珠湾に停泊中の米国戦艦に攻撃し太平洋戦争が勃発します。
米国艦隊は大打撃を受け、航空機は絶対に戦艦を沈めることは出来ないと言われていた、開戦前の常識を根底から覆す、衝撃的な出来事でした。

これにより、今後の戦争の主役は航空兵力であると悟った米国は空母の増産に乗り出します。
それに対し当の日本海軍は航空機の力を実証したにも係らず「戦艦こそ海の王者である」という古い発想、観念を捨てきれず、国家予算3%にあたる1億4千万円をかけて連合艦隊の旗艦「大和」は作られました。

<戦艦大和:出撃>
昭和17年6月5日、米国基地、ミッドウェー島攻略作戦に初出撃します。
日本機動部隊は空母4隻、戦艦2隻、後方に「大和」を旗艦とする戦艦7隻、空母1隻の主力部隊と戦艦2隻、空母1隻の攻略部隊を配置、質量共に圧倒的に優勢な戦力を擁していました。

しかしこの時、日本軍の暗号は米国に解読されていました。
同年6月5日午後4時、米国空母から151機の攻撃機が発進。

不意をつかれた、日本機動部隊は空母4隻は撃沈され、ミッドウェー開戦に参加した日本海軍航空部隊はほぼ全滅しました。

戦場の遥か後方に550キロにあった戦艦大和は無力でした。敵と戦わずに引き返すしかありませんでした。

大和は昭和19(1944)年6月、マリアナ沖海戦に再び出撃します。
日本軍は空母9隻、戦艦5隻、艦載機439機。
米軍は空母15隻、戦艦7隻、艦載機896機、倍近い戦力差がありました。

結果、空母3隻、艦載機400機あまりを喪失し、またも戦艦大和は空しく引き上げるしかありませんでした。

昭和19(1944)年10月米軍はフィリピン、レイテ島に上陸します。
<レイテ・フィリピン戦>http://ameblo.jp/yosia621/theme4-10056778663.html
米国、陸上部隊を支援する兵力は艦船700隻、航空機1000機に及びました。

日本海軍の主力は、大和、武蔵を含む戦艦7隻の第2艦隊、しかし上空を守る航空機の姿はありませんでした。10月24日戦艦部隊の頭上に米軍機が襲い掛かり、第2艦隊は半数以上を喪失し、日本海軍は壊滅状態となりました。大和は米軍小型空母「ガンビア・ベイ」を撃沈しますが、それは年間50隻作られた小型空母の一隻にすぎませんでした。結局大和はレイテ湾を目前にして突入を断念し、三度空しく引き返すしかありませんでした。

大和がレイテ突入を断念する、6時間前片道分の燃料しか積まず、生還を期さないという作戦が決行されました。神風特別攻撃隊です。

<天一号作戦発動>
昭和20年(1945)年4月1日、米軍は沖縄に上陸します。
同年4月5日天一号作戦が発令され、沖縄に向け、大和出撃します。

 (天一号作戦)
 ・片道分の燃料を積んで沖縄に特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり敵の上陸部隊を砲撃する作戦。

艦隊を率いる「伊藤整一中将」は命令に強くは反対しましたが、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけとなれ」という言葉を聞き、出撃を承諾したといいます。

豊後水道に達しようとした午後6時、乗組員は甲板に集められ、正式にこの作戦が生還を期さない特攻であることを知らされます。

<戦艦大和撃沈>
大和出撃を察知した米軍は空母部隊に迎撃命令を出し、その兵力は新鋭空母12隻、艦載機800機でした。
4月7日午前8時15分米軍索敵機に発見され、午前10時18分米軍空母から第一次攻撃隊200数機が発進。12時32分およそ100機が急降下爆撃を開始。
射撃を全て目測に頼る大和の対空砲火は敵機に照準を合わせることができません。
午後12時45分米軍が放った魚雷が大和左舷に命中。
午後1時34分米軍雷撃機は左50度から6本の魚雷投下。
午後1時37分うち3本の魚雷が左舷中央部に命中。
午後1時44分更に2本が左舷に命中。
午後2時17分魚雷投下、左舷中央部に命中。
伊藤長官はついに「特攻作戦中止」の命令をくだし、長官室に入ると鍵をかけ大和と共に沈みました。

午後2時23分、大和横転しその瞬間に大爆発をおこし沈没しました。

<無にしてはならない教訓>
大和乗組員だった「吉田満氏」の著書「戦艦大和ノ最期」には特攻を知った若い士官が死を覚悟して語った言葉が記されています。

「進歩の無い者は決して勝たない。負けて目覚める事が最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。」

「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

日本海軍の栄光を担うべく誕生し、やがてその滅亡の象徴となった大和。
3000人余りの尊い命と共に九州沖海底深く眠り続けています。



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