命令違反、良心に従い命がけの撤退・・・・「佐藤幸徳」中将 | yosia621のブログ

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太平洋戦争末期、陸軍始まって以来の根本を揺るがす大事件が起きたのを御存じですか?
軍隊という命令が絶対という組織で命令に逆らい独断で戦場から撤退した事件です。
少しお付き合い願います。

<インパール作戦>
補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し無謀な作戦の代名詞としても知られています。
ビルマ、アラカン山脈を越えてインドのインパールの英国軍を討つ反攻作戦でしたが、日本軍は壊滅し戦死者30000人、傷病者40000人を出し、インパールの山や谷、川におびただしい日本兵の死体が横たわり、後に白骨街道と呼ばれました。

<インパール発動の背景>
米軍はガダルカナル攻略後、アッツ島、キウス島、マキン島など占領し、太平洋での反攻作戦は日本の資源輸送を脅かし、工業生産力は日増しに低下していきました。悪化する戦局をどう打開するか?東條首相・陸相は太平洋とは反対のビルマに目を向けました。
東條内閣はインド独立連盟総裁チャンドラ・ボーズを支援し、インド独立の気運を高めて英国を揺さぶり、ビルマ独立の19438月にあわせ、インパール作戦準備の指示を出します。15軍(インパール作戦実行隊)の立案した作戦行動には無理があるとして、修正を迫まった南方軍「稲田正純」総参謀副長は突然解任され、参謀達の反対意見は抑え込まれ、反対できない空気が生まれた。そして戦局打開に焦る大本営は15軍の進撃に幻想を抱きようになっていきました。

<無謀な作戦決定>
大本営>南方軍(総軍)>ビルマ方面軍>第15軍>各師団(15師団31師団33師団)という組織構造です。
1943
12月「15軍」司令部にて最終検討
「補給を無視した机上の計算で3週間以内にインパールを落とす」と結論付けた。
15軍司令「牟田口廉也」中将は「英軍は弱い、補給無くても勝てる、天長節(天皇誕生日)までには占領する」と強気な発言をし、ビルマ方面軍参謀長「中永太郎」は補給困難を訴えたが、上級司令部南方軍総参謀副長の「綾部橘樹」がこれを決定した。
ビルマ方面軍司令官「川辺正三」は「牟田口が熱意を持って推進してきた作戦だから是非やらせてあげたい」と承認し、南方軍総司令官「寺内寿一」は「このような大作戦が成功するなら」と喜んで許可し、大本営の「真田穣一郎」作戦部長は物資が足りない事を理由に反対したが、大本営参謀総長「杉山元」元帥が「寺田さんのたっての希望だから是非やらせてあげてくれ」と反対を抑え最終的に承認をした。
第15軍参謀長「小畑信良」小将はこの作戦内容は「食料、弾薬の補給不可の為、反対し補給無き作戦は兵を殺す」と異論を唱え更迭され、南方軍「稲田正純」総参謀副長も作戦に修正を求め更迭された。これを目の当たりにした作戦反対者は次第に口を閉ざしていったが、現場指揮官の15師団長「柳田」中将と共に31師団長「佐藤徳幸」中将は意義を唱えたが受け入れてもらえず、15軍補給担当者に補給を確約させ、出撃することとなった。

<インパール作戦の作成の背景>
陸軍士官学校の「予科」では精神力と体力を養う事を教え、「本科」で戦術などの軍事学を学ぶも兵站(補給)などは軽される傾向にありました。
陸軍作戦要務令」には補給など当てにせず精神力で難局を打開することを揚々と謳ってあります。
陸軍大学での「戦術論」は「局地戦の短期決戦」を強調して教え、大和魂による白兵突撃が主な戦術でありました。
狭い視野の専門教育で優秀な成績を修めた将校達が参謀、高級指揮官となり軍の中枢を占めていきました。

<インパール作戦発動>
1944年、昭和19年1月7日 「補給の現実を無視」したままインパール作戦発動される
牟田口15軍司令は「補給無き作戦」の為、野草を食べる事と牛、羊一万頭を調達し荷運びの後、食料にするジンギスカン作戦を考案したが現実方が近づいてくれず、牛はチンドウィン川を渡る時に半数は死に、残りの牛も谷底に落ち、戦闘開始時には全滅していた。机上の作戦だった。
佐藤中将の31師団は一時はコヒマを占領するも、英国の圧倒的な戦力の前に進撃は止まり、食料、弾薬も尽きようとしていた。

英国軍、スリム中将を司令官とする「14軍」は兵力は3倍250万トンの空輸補給可能な状態で戦車まで装備していた。日本軍をインパール周辺に引き込み補給ルートが伸びきった時点で一気に叩く作戦を考案していた。

同年5月16日
日本軍は苦戦を強いられているにもかかわらず、「東條英機」参謀総長(首相兼務)は天皇に「作戦は不安なし、剛毅不屈、既定方針の貫徹に努力いたします」と上奏文を送っています。

<無能で無責任な責任者>
「牟田口廉也」司令官は苦戦している前線部隊に対し「天長節までに成功せよ」と無謀な激文を送った。
司令部からは「これから弾薬食料を送るから進撃せよ」などの電文が来るだけでいっこうに物資は来ない。
佐藤師団長「15軍の補給の約束はまったくのでたらめである」と激怒した。
それに対し牟田口司令は弱気と決めつけ「食うものが無くても勝て」と電文している。
この頃、一部隊(100人)の一日分の食料が手のひら一杯の米しかなく「飢え」は「極限状態」に達し、雨季も重なり「赤痢」「マラリア」にかかる兵士も大勢いた。
佐藤師団長は補給要請に全精力を注いでいたが、ついに物資不足から撤退を進言するに至ったが、司令部は尚も作戦継続の命令を強いて、撤退提案を受け入れなかった。

<陸軍、始まって以来の大事件>
佐藤師団長は「このままでは無駄に死者が増える」と作戦続行の命令を無視して独断でコヒマ撤退を決意し、病兵1500名の後送を指示し、6月1日主力を補給集積地のウクルルまで撤退させた。
このときビルマ方面軍にむけて激しい司令部批判の電報を送っている
*「でたらめな命令を与え師団が躊躇すると軍規を盾に責めるとは、部下に不可能な事を強要する暴虐だ」
*「各上司の統帥が鬼畜のごとくなり・・・・各上司の猛省を求む」
*「参謀長以下幕僚の能力は学生以下だ、しかも第一線の状況に無知なり」
*「司令部の最高首脳者の心理状態を医者にみせる時期がきた」

撤退したウクルルにも弾薬、食糧が全く無く、独断で更に後方の「フミネ」まで後退した。
佐藤師団長は死刑を覚悟し軍法会議にて第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりだった。
命がけの命令違反によって、より多くの兵士の命が救われることとなった。

牟田口司令は独断で作戦途中に3師団の師団長を解任するという前代未聞の処置をする。

<遅すぎた決断、責任のなすり合い>
同年6月5日インタギ―村にて15軍「牟田口」司令とビルマ方面軍「川辺」司令はは会議をしたが、その時のそれぞれの思いが後に明らかになる、下記の言い訳です。
川辺司令「牟田口は何か言いだしたくても言いだせない顔色だったが露骨には聞かなかった」
牟田口司令「作戦断念が喉まで出かかったが言えなかった、顔色で察してほしかった」
 尋問調書によると、牟田口「4月末ごろ作戦失敗と思ったがその時、川辺司令が早期撤退を渋り従うしかなかった」

陸軍が作戦中止の決断を欠く中、日本軍は壊滅に追いやられた・・・
同年7月1日ようやく東條参謀総長は中止を天皇に奉上し、無謀で無知な作戦は終了する。


<責任なき戦場>
佐藤中将は死を決して軍法会議で作戦失敗の責任を明らかにしようと決意していましたが、陸軍上層部はその責任が軍中枢まで来る事を恐れて、「佐藤中将、心神喪失」の診断を下し不起訴とし、組織の防衛を優先させた。

責任所在の曖昧さと狎れ合いの人間関係の中で無知で無謀な作戦を立案し、断行し、70,000人の死傷者をだした作戦司令部の責任は問われることはなく、かえって陸軍中枢の人達は作戦失敗は戦意の低い佐藤ら三人の師団長が共謀して招いたものとして非難と責任を師団長に負わせた。

これに対し佐藤幸徳中将は一切弁明ぜす、戦死者の家に出向き黙って焼香していたそうです。

 大本営参謀総長「杉山元」元帥>小磯内閣陸軍大臣
 南方軍総司令「寺内寿一」元帥>終戦まで留任
 ビルマ方面軍司令「川辺正三」中将>大将に昇進:航空総軍司令官
 15軍司令「牟田口廉也」中将>予科士官学校校長

佐藤幸徳中将は
「大本営、総軍(南方軍)、方面軍(ビルマ)、15軍という馬鹿の4乗がインパールの悲劇を招来した」と痛烈に批判した言葉を残した。

軍規に照らせば命令違反は大罪です、しかし無知で無謀な命令に命がげで背き部下の命を救った勇気ある行いは賞賛に値します。軍人である前に一人の人間としての行動だったと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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