福田恆存語録 日本への遺言 | 読書は心の栄養

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日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)/文藝春秋
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<民主主義過信>
民主主義とは為政者の側が最も大事なことを隠すために
詰まらぬことを隠さぬようにする政治制度である。

<生命尊重>
私達自身の青春時代を顧みて、私も戦争で死ぬのはいやだった。
しかし、戦争で死ぬのがいやだということが、
そのまま戦争否定の名目になりうるとは思いも及ばなかったのです。
平和論の根拠になるとは考えませんでした。
それが現在、そうなりえているのは、やはり、第二次世界大戦の結果でありましょう。
青年たちは、個人の人命以上に尊いものはないということを教えられたのであります。

それがどうしても私には理解できないのです。
不愉快な思い出、無謀な戦争、軍人の横暴、その他様々な事実にもかかわらず、
それとは別個に、戦争とか死というものを、ひとつの現実として認めざるをえないし、
個人の生命と食うに困らぬ生活と、この二つを無上のものと考えるわけにはいかないのです。

それなら個人の生命より大事なものはなにかと問われると困る。
簡単に答えられることではありません。
しかし、個人の生命より大事なものはないという考え方は、大変な危険思想であって、
それは裏返しにすれば、任意に他人の命を奪ってもいいということになるのです。

<国語改革>
教育のために言語があるのではなく、言語のために教育があるのです。
教育は学校教育だけで完成しないし、またその必要もない。
たとえ国語国字でも、いや、国語国字こそ、
学校を出たあと生涯続けて自己教育してゆくべきもの
であり、(以下略)

<理想と現実>
日本人には、理想は理想、現実は現実という複眼的なものの見方がなかなか身についておりません。
自分ははっきりした理想を持っているという意識、それと同時に、現実には、
しかし理想はそのまま生かせられないから、こういう立場をとるという現実主義的態度、
つまり態度は現実的であり、本質は理想主義であり、明らかに理想を持っているというのが、
人間の本当の生き方のはずです。
これは個人と国家を問わず同じはずです。
これをもっと日本人は身に付けるべきだと思っています。

<大東亜戦争>
端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だったのである。
失敗とわかっていなければならぬ戦争を起こした事に過ちがあったのに過ぎない。
我々は多額の月謝を払った。
が、それを罪悪とし、臭いものには蓋をせよという考え方によっては、
その月謝は取り返せない。
もしあの戦争を悪とするキレイ事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、
それを善に高めようとする居直りを生じるであろう。
皮肉なことに、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、
その微温的性格を破られずに今日まで保たれてきた。
もしそれが無ければ、我々はとっくにベトナム、
あるいはインドネシアの悲運を経験していたであろう。
大事なことは我々は我々の国家をいかにしてどこに見出すかということである。

<国境>
正直に言うと、私は国家と国家との間に、道徳はもとより法律が通用する時代は、
まず来まいと思っている。

なるほど国際法というものはあるが、これは利害調整の取り決めに過ぎず、
「法は最低の道徳なり」という段階にまでは至っていない。
個人を収容する牢屋はあっても、国家を収容する牢屋はない。
個人主義とかヒューマニズムとかいうものを盾に発達してきた近代文明社会では、
一国家、一民族を戦争と暴力との廉によって、虜囚の憂き目に遭わせるわけにはゆかぬ。
精々、賠償金支払いと領土割譲を要求するくらいが落ちである。
これは金と地所で解決する民法の世界と同じといえよう。

人々は国境を無くすことに、人間精神一致の夢を懐いている。
あるいは人間精神一致の結果、国境が消えるであろうという夢を懐いていいる。
その夢は実現するかもしれぬ。
が、考えようによっては、これほど危険な話はないとも言える。
一国の中で法律や道徳が物を言うのはなぜか。
一つには、個人と個人との間の国境ならぬ人境がはっきりしているからであろう。
だからこそ、法律や道徳が必要なのであり、またそれがモノを言うのである。
つまり、個人が欲するまま行動すれば、必ず突き当たる他者があり、
それを監視する人目や罰があるということだ。
それと、もうひとつは、その人目の代表者、罰の管理者である政治権力があるからである。