朴正煕選集 ①韓民族の進むべき道 | 読書は心の栄養

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朴正煕選集 (1970年)/鹿島研究所出版会
¥価格不明
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韓国大統領の中で一番まともな歴史観を持っていると思っている人、朴正煕
彼は日本の陸軍士官学校出の人です。
ちなみに彼はこの名前のまま、陸軍士官学校にいたので、創氏改名が強制ではない、という明確な証拠となる人

李承晩を大統領から引きずりおろしたのが、1961年
この本は1962年に出版された彼自身の本の翻訳版です

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われわれはひとつの民族、ひとつの同胞でありながら、
利己愛と党派への忠誠や情熱は過ぎるほどに強烈であったが、
民族に対する情熱はあまりにも冷淡だった。
利己と党利が民族的利益や国家利益よりも優先し、投票と選挙が利己と党利のために犠牲となった。
過去の抗日闘士や殉国烈士に対しては無関心であり得ても、現在の執権者に対する追従と阿鼻は捨てることができなかった。
これは昔も今も我々民族の悪い習性である。
現在の執権者に対しては尊敬することも、賞賛することも知っていながら、
過去の志士や烈士に対しては、その名すら忘れ去っている実情である。
かくして生きている執権者の銅像は莫大な金額で建てられ、
過去の志士や義士の墓前には、石碑一つ見るべきものがなかった。
このような歪んだ民族性、民族愛の枯渇の中から、どうして健全な良識を備えた民族性の成長と、同胞愛を期待することができようか。

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このような悪質な民族的習性は事大意識、貴賎嫡庶の階級観、派閥闘争などと決して無関係なものではなく、
主体性の欠如やおもねり、支配者への盲従なども、李朝五百年の歴史にその根源があるといえる。

派閥と排他で民族分裂を助長する特殊・特権意識も、過去の封建的な身分制度、官僚制度に直接的な淵源がある。
党派意識も李朝史に根ざしており、四色党争の初めにしても、政策上の争いではなく官職争奪のための対立反目から発生したことをわれわれは知っている。
(四色とは、李朝時代にあった4つの党派を指す)

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奪取した王権を国際的に保障してもらうべく、当時中国を支配していた強大な統一国家、明に対して国家間の形式的な主従関係を結び朝鮮が中国に隷属した王侯国としての封冊を受け、中国の年号を使用し『明国は朝鮮に対し三年一度の朝貢を命じたが、朝鮮は却って一年三度の朝貢を自請し、それ以上を実行した』のである。

李朝500年の伝統的対外政策は「事大と交隣」に要約できる。
事大というのは強大国に媚びることであり、
交隣とは隣の国と交通するということである。
李太宗は即位する前から親明策を標榜し、即位後は王位の承認、国号の選定を明帝に乞い、国号を「朝鮮」とすることの承認を受け、朝鮮国王の金印拝命を求めて以来、事大政策は李朝全時代を通じて明と清に対し一貫したものであった。
こうした封建的な主従的性格を持つ外交関係は、やはり貢物を捧げ、回賜物を受ける、そうした通交関係を形成し、朝貢使など各種外交官の出入りは朱子学と中国文物を輸入するのに拍車をかけ、儒学者間には事大思想が一段と濃化していったのである。

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李朝社会階層は両班、中人、常人(平民)、賤人(奴婢)の四階級に区分され、
この四階級はその身分に対応する職分を各々別にし、上流階級は下流階級に対して絶対的な服従を強要し、下流階級は権利を主張するなど思いもよらず、ただ義務のみを果たせば良いとの消極的追従観念が形成された。

しかしこの義務観念は自律的なものでなく、命令服従関係下に盲従するものであったから、
民衆の中には悪性的な「官尊民卑思想」のみが根を張り、官職さえ得れば良いとの考えから、いわゆる「猟官運動」にのみ没頭する社会雰囲気が作られた。

これとともに技術職を蔑視する風潮が高まり、各種中央官署の技術に従事する者は、
両班以下の「中人」にしかなれず、地方官吏である「アジョン」(衛前)は、強力な中央集権化で両班の手先にしかすぎなかったので、若干の権力を持つ彼らはそれを悪用して民衆を苦しめる反面、一般大衆からは軽蔑もされたのである。
これは近代民主主義の基本となる地方自治の成長を阻害し、
無条件「ナーリ」(旦那様の意味)を連発すれば良いという空気を助長した。
そしてまた中人の事務技術職と、労役雑職に従事する賎人たちが主に手作業に従事したところから、
「かさ屋」「左官屋」といった賤しい称号で呼ばれ、このような商工業と科学技術を賤視する風潮が我が国近代化の癌となったのである。
とくに「白丁」のような屠殺業に従事するものは最低の賤民として軽蔑し、その頭には平壌笠をかぶらせて識別するほど苛酷であったし、鍮器、製革などを生業とする手工業者も、一般国民とは交わることができなかった。

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西欧の騎士道的な名誉意識は形成されなかった。
党争の雰囲気の中で論功行賞は欲しつつも真の人格的名誉観念は薄弱であった。
一対一で対決する決闘よりは卑怯な権力に寄りかかるか、大勢に頼る方法をとった。
これを人頼みに勇気という。
問題は虚心坦懐な「平服の勇気」がなかったということである。

西洋でいう「名誉をかけて」という言葉を、われわれは「決死的に」といい
「滅私的」を「必死に」という。
自分が死ねば名誉も何もなく責任を負わない。
結局、たやすく自分の命を絶ち責任を免れるということで、名誉をかけ責任をまっとうするために死ぬのではない。
嘘を言い、他人を偽り、人の金を搾取するのはすべて名誉間の欠如と関係が深い。
したがって法律上の「名誉毀損罪」というのは、西洋人の生活意識の産物であって、
われわれには実感が出ないのである。