箕輪[三ノ輪]の浄閑寺とは別に
巣鴨に「西方寺」というお寺があります。

1622年(元和8年)
浅草聖天町に建立。
1927年(明治24年)
浅草聖天町[待乳山聖天裏]より現在地へ移転。
昭和2年(1927)現豊島区巣鴨に移転しました。



明暦の頃(1655~1657)に道哲という念仏僧が草庵を結んだのが始まりとされ、別名道哲寺と呼ばれました。
吉原に至る日本堤にあることから、土手の道哲としても知られていました。
 高僧道哲は、刑死者や無縁仏の供養のため、昼夜の別なく念仏を唱え鉦を叩き続けました。引き取り手のない吉原の遊女の死骸も引き取り、供養したといいます。遊女などの無縁仏が投込まれたために、
西方寺は投込寺という悲しい名前も持っていました。

 
境内は浅草寺領年貢地と遍照院からの借地からなる。
本尊阿弥陀如来は汗拭の弥陀、汗かきの弥陀とよばれ、
開基道哲の念持仏と伝える。


吉原三浦屋の傾城二代目高尾(万治三年没)の墓、
その150回忌に建てられた高尾塚がある。
高尾の墓には目印に紅葉が植えられ、
高尾が紅葉とよばれた。





道哲は信心深く、人情に厚く、遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、大事に埋葬してやったという。
(供養塔童女塚があります)

高尾は道哲の人情の厚きに感激し、
その果ては恋に落ちた。
道哲は僧侶ではなく寺男であったともいう。
一説には、道哲は当寺の開山でなくして第二祖とした。
そのわけは、高尾と恋仲に陥って破戒したから始祖としなかった。

この時代高尾は道哲のあとを追って自害、
人々が哀れに思って同じ墓に葬むる、
寺の過去帖には万治3年(1660)12月29日に死んだと記入してある。
道哲の死は12月25日である。



そして
同じく三浦屋の薄雲太夫の逸話もあります。
太夫愛猫の死を嘆き西方寺に回向しました。(猫塚があります)
その逸話が招き猫を生んだとされており、
西方寺も招き猫とゆかりのあるお寺とされているのです。


~散華~新吉原郷愁/着物着付け和髪日本髪「みやこや」公式サイト   
~散華~新吉原郷愁/着物着付け和髪日本髪「みやこや」公式サイト


~散華~新吉原郷愁/着物着付け和髪日本髪「みやこや」公式サイト






実際浄閑寺だけが大きく有名になっていますが
実際には西方寺も実在した太夫の墓もあり、
吉原には大変縁のある深いお寺です。


御住職も大変きさくでお話好きな素敵な方です。


高尾の念持仏[地蔵]を拝ませて頂きました。

そして銅鏡、過去帳も拝見させて頂きました。







そのほか吉原の投げ込み寺として「正憶院」もありました。
現在は善応寺として足立区中川に健在しております 。