こんにちは、植物料理研究家・インナーチャイルドセラピストのヨシベジです
私が最初どこにいたのか、そしてどのようにインナーチャイルドのことをケアできるようになったか、私の旅をお話ししていきたいと思います。
楽しい幸せな思い出も、たくさんあります。ここでは癒しがテーマであることから、闇体験に光を当ててお話ししています。(誰の人生にも、闇があればその分の光も、かならずあるのです)
かいつまんでいくつもりですがそれでも長旅になりそうなので、いくつかに分けますね!
*読んでいて、もしかしたらご自身の体験と響き合うことがあり、辛くなる方もいらっしゃるかもしれません。その時はご自身の胸に手を当てて、「愛しています」「そうなんだね」とやさしく声をかけてあげてくださいね。大丈夫です。今あなたは安全な場所にいます。今、あなたは生き延びてきた、勇気と力のある大人として、存在してあげてくださいね それが事実だから。
小さな子どもには、今ある環境がすべて、目の前の現実が世界そのものですから、生きづらい、なんてコンセプトはもちろんありません。実際には、私は物心ついた頃にはすでに生きづらさを感じていた子どもでした。
おじいちゃんの結核、次いで、おばあちゃんの癌、と重病人がいる家は、ずっと空気がぴりぴりしていました。
おじいちゃんは最終学歴小学校で、刑務所の長になった人物で、威厳があり、要はとても厳しい人だったようです(なんとなく覚えています)。
戦中戦後の刑務所、その管理者としての行為、重圧・・・祖父や囚人さんたちのことを思うと、子孫である私が今こうして癒しとクリーニングに携わる必然性を感じずにはおれません。
話を戻しますと・・・
私はお転婆で近くの田んぼや川で遊びまわる活発さを見せる子ではありましたが、常に自分で自分のことを監視しているという感覚がありました。
家ではじっとうずくまっていることが多かったです。顔を上げると人の顔を見るな!と怒鳴り声、何かを口に出そうとすると、自分のことをしゃべるな!とすかさず怒鳴り声が飛んでくるという、家庭環境でした。
毎日「◯ね」「く◯ばれ」と声をかけられていました。
とてつもない恐怖心におそわれていたにもかかわらず、感じているものが何なのか考えることも、言葉にして表現することも、小さな子どもの私にはできませんでした。
大人になってフラットな目でその当時を振り返ると、私は解離性障害・離人障害の子どもでした。
目の前の壁紙やタイルの模様が、突然巨大になったかと思うとミクロになって襲われる感覚や、床の上に立っているのに、そのまま沈んで地の底に引き込まれていきそうな感覚、気が遠くなりそうな感覚です。
子どもらしく、ただ遊ぶことや新しいことを学ぶことに夢中な友だちを見ながら、自分も夢中で遊んでいる風を装ってるような気持ちになりながら、「私はもうみんな終わっていて、子どもなのにおばあちゃん」と、自分のことを思っていました。
夕食の場では、女という存在がいかに汚いか、女が社会に出てはいけない、という父の晩酌話を毎晩聞きながら、ニコニコした顔を見せながら、母と一緒に聞いていました。父が先に寝ると、私は今度は母の話の聞き役でした。
中学1年のクリスマスイブの日に、7歳下の妹が白血病にかかっていることが判明し、それ以降、母と妹が市外の病院に入院する5年間の闘病生活が始まりました。私は学校帰りに買い物をし、家事一切を担当することになりました。いわゆるヤングケアラーです。
中学校では年配の男性の教師に対して、嫌悪感が募り反抗的な態度をするようになりました。
高校生になると、身体症状は顕著になっていきました。
笑おうとすると顔が引き攣って、硬直して元に戻せないのです。その顔を両手で抑えて、戻しました。クラスメイトは、キョトンとしていて、恥ずかしくてたまりませんでした。
首から上が、硬直して震えます。文字を書こうとするとみみず文字になりました。ご飯を食べようとすると、やはり頭が震えて、口まで持っていけないのです。そもそもお箸も震えておかずを落としてしまいます。だから私は、持参したお弁当は食べずに、毎回パンを買って、袋を両手でしっかりと持って、体に上腕をぴったりとくっつけて固定するようにして、ようやくお昼が食べられるのです。
続く
それでは次回まで、ごきげんよう
↑今現在の私です
けっして諦めずに、せいいっぱいサバイバルしてきたね!!