永禄(えいろく)四年(一五六一)九月十日の卯の半刻(午前七時頃)、川中島は濃い霧に包まれていた。

武田軍の奇襲隊が妻女山に陣取る上杉軍に攻め込むところだった。奇襲に慌てて山を降ってくる上杉軍を迎撃するために、武田軍の本隊は八幡原(はちまんばら)に陣を張っていた。

「それにしても、妻女山(さいじょさん)が静かでございます」

武田信玄(たけだげん)の奥近習(おくきんじゅう)である武藤喜兵衛(むとうきへえ)が、霧の中に姿を消している妻女山の方角を見つめながら首を傾げた。喜兵衛はこれが初陣である。

信玄は、武田家重代の諏訪法性(すわほっしょう)の兜を被り、顔を覆う面頬(めんぼお)を付けているため表情はわからない。

傍らには妻女山への奇襲を献策した隻眼の山本勘助(やまもとかんすけ)が杖を助けに立っている。

「慌てふためく長尾軍の悲鳴が全く聞こえませぬ」

喜兵衛が続けた。武田家では長尾景虎(ながおかげとら)が関東管領(かんとうかんれい)の上杉家を継ぎ、上杉政虎(まさとら)となったのを認めていないため、あえて「長尾」と呼んでいる。

信玄が勘助にわずかばかりの視線を送るが、勘助は視線を合わせない。

日の出と共に徐々に霧が晴れ、武田軍の眼前の景色が広がっていく―――。

「こ、これは―――」

そこには武田軍にとって信じられない光景が広がっていた。

いるはずのない上杉の大軍が、武田本隊を取り囲むように布陣していたのであった。上杉軍が総攻撃を掛ける時にのみ掲げる「龍」の軍旗も翻っている。武田軍に大きな動揺が走った。

その瞬間―――

「かかれー!」

立ち込める霧を一気に払うかのような政虎の咆哮が川中島に響き渡る。上杉軍が武田軍に襲い掛かった。

「謀(たばか)ったな、勘助」

信玄が勘助だけに聞こえるように呟いた。




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この小説は、

講談社さんの「決戦!本屋大賞」に応募した、

私の処女歴史小説です!



大賞は逃したものの、

編集部が選ぶ「有力作品」に選んでいただきました!



編集部の方がおっしゃる通り、

短編の中に山本勘助の生涯を詰め込むという、

無謀なことをやっています(笑)


全8章に分けて、拙ブログに掲載していますので、

お時間ある時に読んでいただき、

新視点の「川中島の戦い」を楽しんでもらえてば幸いです~。



またね。