真田家を語る上で、

ぜっ~たいに欠かせないお城・・・


それは「上田城」ですっ!



戦国好きなら知らぬ者はいませんが、

このお城では、

真田家と徳川家による「上田合戦」が、

2度も繰り広げられております。


ひとまず、

合戦の詳しいお話は置いておいて、

上田城の縄張りはこんな感じ!



二の丸が本丸を取り囲むような、

縄張りになっているのですが、

自然の力を十二分に活用した、

南側の守りが特に素晴らしいです!



この角度、最高~!


現在は整備されていますが、

当時は千曲川が流れていて、

尼ヶ淵(あまがふち)と呼ばれる、

天然の要害となっていました!


この淵がかなり象徴的だったのか、

上田城は「尼ヶ淵城」と呼ばれていた、

という説もあるそうです。


築城したのは、

このテーマブログで度々登場している、

智将・真田昌幸(幸村の父)!


↑真田氏記念公園


今から400年以上前の、

1583年(天正11年)に建てられたそうです。


ちなみに、

この築城プロジェクトには、

ある武将がスポンサーとして、

資金を援助したそうです。


その武将とは、

何と、徳川家康でした!


あれ?

徳川家はここ上田城で、

真田家に2度撃破されたのよね?

なのに築城の時に援助したの?


と、なると思いますが、

これは「名胡桃城」などの回でご紹介した、

真田家の度重なる主君替えに、

関係しています。


まず、築城した時、

真田家の主君は徳川家でした。


昌幸「家康さん、北の上杉家に対抗するために新しくお城を築きたいです」

家康「お、イイネ!援助します!」


と、いうことなんですが、

この後、

名胡桃城や沼田城などの領地問題で、

真田家は徳川家と大いに揉めて、

主君を上杉家に替えるのでした。


家康「そんなことは許さない!」


ということで、

1585年(天正13年)に、

「第一次上田合戦」が始まります。


2000人程の真田軍が籠る上田城を、

徳川家は7000人以上の大軍で攻め込むのですが、

まさかのDAI☆ZAN☆PAI!


詳しいことはわかっていないのですが、

すぐに上田城へ撤退していった小勢の真田軍を、

不用意に追いかけすぎてしまった徳川軍は、

二の丸に乱入した際に、

城からの一斉射撃や伏兵の横槍に翻弄され、

ほぼ壊滅したと言われております。


↑黄:徳川  赤:真田    ※ざっくり図


一説によると、

真田家の討死が40人というのに対して、

徳川家の討死は何と、1300人!


まさか、

自分が投資したお城に撃退されるとは・・・


皮肉過ぎる皮肉ですね。


さて、

お城の見所をご紹介いたします!


まずは、

復元された本丸東虎口の櫓門と、



その脇にそびえる南櫓&北櫓!





板張りの外観が、非常に趣深い!


北櫓の麓の石垣には、

直径3mにもなる「真田石」があります!



真田と名が付いているのですが、

実は、積み上げたのは、

江戸時代に上田城を現在の形に修築した、

仙石忠政(せんごくただまさ)でした。


しかし、

真田のネームバリューゆえに、

仙石という名前は、

どこかに行ってしまいました(笑)


さて、

櫓門と2つの櫓は、

上田城のシンボルとも言えるのですが、

実は明治時代はこんな感じでした。



だいぶ荒廃が進んでいたようで、

櫓門や櫓は、

安く売り出されていました。


そして、2つの櫓は、

何と、遊郭として使用されていたそうです!



これは驚き!


1942年に買い戻されたのがそうなので、

80年近く遊郭だったみたいです。


さて、

本丸に突入すると、

今度は受験生に大人気の、

「真田神社」が現れます!



徳川家に攻められても“落ちなかった”

ということで、

受験にご利益があるそうです。


名物は、

超巨大な幸村さんの兜や、



戦国バサラのイケメン幸村さんを描いた、

数多の絵馬(←現地で見てね!)や、

真田井戸です!



この井戸は、

深さが16.5mあるそうなんですが、

いわゆる「抜け穴伝説」があって、

周囲の館や砦に抜けられるという、

伝説が残されています。


また、

西側に抜けようとすれば、

上田城に残された3つ目の櫓である、

西櫓を見ることが出来ます。



こちらは、

遊郭じゃなかったみたいです。


また、

本丸の北東部分の土塁には、

とある“おまじない”が見られます。



そのおまじないが、コチラです!





現代でも言われますが、

北東は悪い気が入ってくる、

鬼門と言われていたので、

鬼門よけとして、

土塁の隅を切り落としているんです。




↑赤:本来の土塁ライン   黄:実際の土塁


こうすることで、

鬼門から邪気が来ないそうです!


また、

土塁だけじゃなく、

空堀にも上田城ならではのものがあります!



森林浴が気持ち良い、

二の丸の堀底には、

こんな場所が現れます。



これは何と、

駅のプラットホーム!


この堀底には、

1972年(昭和47年)まで、

電車が走っていたそうです!



さて、

上田城のハイライトと言えば、

第一次から15年後の、

1600年(慶長5年)に勃発した、

「第二次上田合戦」でしょう!


中仙道を進んできた、

徳川秀忠率いる徳川軍の精鋭3万8000人を、

真田昌幸・幸村のわずか2500人の真田軍が、

見事に撃退したのです!


徳川軍が上田城に迫った時は、

昌幸「頭を剃って降伏するので、少々お待ちください」

と完全に降伏する姿勢を取ったのですが、

翌日になると、

昌幸「籠城の準備が出来たので、いつでもどうぞ」

と、昌幸さんは食わせ者ぶりを大いに発揮します!


これが初陣だった秀忠は、

この挑発にまんまと乗ってしまい、

DAI☆ZAN☆PAI!!!


第一次と同様に徳川軍を誘き寄せ、

城からの奇襲や伏兵の横槍などで撃破しました。


まさに真田の真骨頂!



この戦によって、

徳川秀忠の大軍は、

「関ヶ原の戦い」に遅刻して間に合わず、

父の家康が大激怒して、

秀忠との面会を許さなかったそうです。


さて、最後に、

この方々と記念撮影!



「信州上田おもてなし武将隊」の皆さんです!


歴史イベントで度々ご一緒しているのですが、

お元気そうで何よりでした~。


本丸御殿跡の広場で、

演舞を行っていますので、

武将隊のホームページやSNSをチェックして、

上田城に登城してみてください!



この日、

上田城だけでなく、

真田本城、砥石城、真田氏館なども回ったため、

お腹の減り具合が限界!


ということで、

上田の名店で大好物のお蕎麦!



あ~!!美味しかった~~~!!!




またね。