2016年の大河ドラマが、
堺雅人さん演じる真田幸村が主人公の、
「真田丸」になったということで、
真田家ゆかりのお城を、
ご紹介していきたいと思います!
まずは、
真田三代の野望の地、
「岩櫃城(いわびつじょう)」です!
幸村さんが少年時代を過ごした、
とも言われるこのお城は、
何と言っても、外観がスゴいんです!
スゴい迫力っ!!!
標高は何と、802m!
この岩櫃山の東の尾根伝いに、
お城は築かれています。
築城の時期は、
よくわかっていないそうなのですが、
武田信玄の重臣となっていた、
真田幸綱(幸村の祖父)が、
1563年(永禄6年)に落城させ、
その後は真田家の拠点となっています!
「落城」と文字にすると簡単ですが、
巨大な岩山に建つお城を、
幸綱はどうやって落としたのか。
それは、
幸綱さんの十八番だった調略でした!
敵将の有力家臣を、
密かに寝返らせておいて、
幸綱が城を攻めた時に、
城内へ放火して、内側から開門し、
真田軍を引き入れるように、
事前に打ち合わせしておいたそうです!
その後、岩櫃城は、
武田信玄の指示の下、
幸綱によって改築され、
東京ドーム約29個分(約136ha)の大きさとなり、
上州(群馬県)最大規模の城郭と化しました!
縄張り(お城の間取り)は、
こんな感じ!
↑現地パンフレットより
城内の見どころと言えば、
やはり、空堀でしょう!
↑中城の脇の空堀
↑二の丸と本丸の間の空堀
↑本丸の下の空堀 ※ここ最高!
岩山という天然の要害に、
さらにこの空堀を擁した岩櫃城は、
岩殿城、久能城と共に、
「武田三名城」や「武田三堅城」と、
称されたそうです!
本丸の方へ進むと、
櫓が建っていたと思われる櫓台が残り、
桝形(四角い空間)になってる、
虎口(入り口)の跡も残されております!
写真にすると、
土と木だけで、
何のこっちゃわかんないですね(笑)
ザックリですが、
桝形虎口の構造を表すとこんな感じ!
現地に行ったら、
はっきりわかりますんで、
その時のお楽しみにしといてください!
さて、
真田家はこのお城を中心として、
上野国(こうずけのくに=群馬県)に、
勢力を拡大していきました。
幸綱の後を継いだ、
真田昌幸(幸村の父)は、
岩櫃城の東にある、
名胡桃城(なぐるみじょう)を改築し、
父・幸綱ゆずりの調略で、
沼田城を落城させています!
またこのお城は、
武田家滅亡に関連した、
ドラマチックな歴史を持っています。
1582年(天正10年)に、
織田信長は武田家を滅ぼすことを目的とした、
「甲州征伐」を始めました。
武田家は、
信玄は1573年に亡くなっており、
さらに、
1575年「長篠の戦い」で、
有力な家臣の多くを失っていました。
そのため、
家臣たち武田家を見限り、
織田家へ寝返りをして、
ほとんど戦わずに、
武田家は崩壊していきました。
その中で、
最後まで勝頼さんを救おうとしたのが、
真田昌幸さんでした!
「私の城で再挙を図りましょう」
昌幸さんは、
勝頼さんを自分の城に迎えて、
主君の武田家を守ろうとしました。
その城こそが、
この岩櫃城だったんです!
勝頼さんを迎えるために築いた御殿である、
「潜竜院(せんりゅういん)」の跡が、
岩櫃山の南側に残されています。
何と昌幸さんは、
わずか3日間で御殿を完成させたそうです!
しかし、
勝頼さんが、
この地を訪れることはありませんでした。。
勝頼さんが選んだ城は、
同じく「武田三名城」の1つで、
重臣の小山田信茂(のぶしげ)が守る、
岩殿城(山梨県大月市)でした。
ところが、
小山田家は武田家を裏切り、
勝頼さんは岩殿城にたどり着けず、
自刃して果てて、
武田家は滅亡しました。
なぜ勝頼さんは、
岩櫃城ではなく岩殿城を選んだのか、
はっきりとわかっていません。
もし、勝頼さんが、
岩櫃城に来ていたら、
武田家滅亡が先のことになったというか、
完全な滅亡はなかったことでしょう!
また、
武田家滅亡の、
約3ヶ月後に起きた「本能寺の変」も、
この「甲州征伐」が長引けば、
起きなかったはずです。
さて、
謀略家のイメージが強いけど、
実は超忠臣だった真田昌幸の後に、
岩櫃城を管理したのは、
真田信之(幸村の兄)でした。
信之さんは、
沼田城を本拠地として、
重要な支城として岩櫃城を管理しました。
ところが、
1615年(元和元年)の、
「一国一城令」で廃城となり、
真田幸綱、昌幸、信之の、
三代の野望が詰まった堅城は、
その役目を終えたのでした。
最後は、
三代が望んだであろう、
本丸からの眺めです!
キレイ~~!!!
歴史を鑑みて眺めてみると、
これまた奥深い景色に変わってくるものです!
またね。
堺雅人さん演じる真田幸村が主人公の、
「真田丸」になったということで、
真田家ゆかりのお城を、
ご紹介していきたいと思います!
まずは、
真田三代の野望の地、
「岩櫃城(いわびつじょう)」です!
幸村さんが少年時代を過ごした、
とも言われるこのお城は、
何と言っても、外観がスゴいんです!
スゴい迫力っ!!!
標高は何と、802m!
この岩櫃山の東の尾根伝いに、
お城は築かれています。
築城の時期は、
よくわかっていないそうなのですが、
武田信玄の重臣となっていた、
真田幸綱(幸村の祖父)が、
1563年(永禄6年)に落城させ、
その後は真田家の拠点となっています!
「落城」と文字にすると簡単ですが、
巨大な岩山に建つお城を、
幸綱はどうやって落としたのか。
それは、
幸綱さんの十八番だった調略でした!
敵将の有力家臣を、
密かに寝返らせておいて、
幸綱が城を攻めた時に、
城内へ放火して、内側から開門し、
真田軍を引き入れるように、
事前に打ち合わせしておいたそうです!
その後、岩櫃城は、
武田信玄の指示の下、
幸綱によって改築され、
東京ドーム約29個分(約136ha)の大きさとなり、
上州(群馬県)最大規模の城郭と化しました!
縄張り(お城の間取り)は、
こんな感じ!
↑現地パンフレットより
城内の見どころと言えば、
やはり、空堀でしょう!
↑中城の脇の空堀
↑二の丸と本丸の間の空堀
↑本丸の下の空堀 ※ここ最高!
岩山という天然の要害に、
さらにこの空堀を擁した岩櫃城は、
岩殿城、久能城と共に、
「武田三名城」や「武田三堅城」と、
称されたそうです!
本丸の方へ進むと、
櫓が建っていたと思われる櫓台が残り、
桝形(四角い空間)になってる、
虎口(入り口)の跡も残されております!
写真にすると、
土と木だけで、
何のこっちゃわかんないですね(笑)
ザックリですが、
桝形虎口の構造を表すとこんな感じ!
現地に行ったら、
はっきりわかりますんで、
その時のお楽しみにしといてください!
さて、
真田家はこのお城を中心として、
上野国(こうずけのくに=群馬県)に、
勢力を拡大していきました。
幸綱の後を継いだ、
真田昌幸(幸村の父)は、
岩櫃城の東にある、
名胡桃城(なぐるみじょう)を改築し、
父・幸綱ゆずりの調略で、
沼田城を落城させています!
またこのお城は、
武田家滅亡に関連した、
ドラマチックな歴史を持っています。
1582年(天正10年)に、
織田信長は武田家を滅ぼすことを目的とした、
「甲州征伐」を始めました。
武田家は、
信玄は1573年に亡くなっており、
さらに、
1575年「長篠の戦い」で、
有力な家臣の多くを失っていました。
そのため、
家臣たち武田家を見限り、
織田家へ寝返りをして、
ほとんど戦わずに、
武田家は崩壊していきました。
その中で、
最後まで勝頼さんを救おうとしたのが、
真田昌幸さんでした!
「私の城で再挙を図りましょう」
昌幸さんは、
勝頼さんを自分の城に迎えて、
主君の武田家を守ろうとしました。
その城こそが、
この岩櫃城だったんです!
勝頼さんを迎えるために築いた御殿である、
「潜竜院(せんりゅういん)」の跡が、
岩櫃山の南側に残されています。
何と昌幸さんは、
わずか3日間で御殿を完成させたそうです!
しかし、
勝頼さんが、
この地を訪れることはありませんでした。。
勝頼さんが選んだ城は、
同じく「武田三名城」の1つで、
重臣の小山田信茂(のぶしげ)が守る、
岩殿城(山梨県大月市)でした。
ところが、
小山田家は武田家を裏切り、
勝頼さんは岩殿城にたどり着けず、
自刃して果てて、
武田家は滅亡しました。
なぜ勝頼さんは、
岩櫃城ではなく岩殿城を選んだのか、
はっきりとわかっていません。
もし、勝頼さんが、
岩櫃城に来ていたら、
武田家滅亡が先のことになったというか、
完全な滅亡はなかったことでしょう!
また、
武田家滅亡の、
約3ヶ月後に起きた「本能寺の変」も、
この「甲州征伐」が長引けば、
起きなかったはずです。
さて、
謀略家のイメージが強いけど、
実は超忠臣だった真田昌幸の後に、
岩櫃城を管理したのは、
真田信之(幸村の兄)でした。
信之さんは、
沼田城を本拠地として、
重要な支城として岩櫃城を管理しました。
ところが、
1615年(元和元年)の、
「一国一城令」で廃城となり、
真田幸綱、昌幸、信之の、
三代の野望が詰まった堅城は、
その役目を終えたのでした。
最後は、
三代が望んだであろう、
本丸からの眺めです!
キレイ~~!!!
歴史を鑑みて眺めてみると、
これまた奥深い景色に変わってくるものです!
またね。