れきし余論です。



歴史芸人の長谷川ヨシテルが、


歴史モノの映画やドラマをより楽しむための、


予備知識やこぼれ話をご紹介します。



今日紹介するのは、いよいよ明日11月9日」㈯に公開される、


映画「清須会議 」を余論したいと思います。


歴史芸人・長谷川ヨシテルの『我が名をあげよ、雲の上まで。』


今回もQ&A形式でサクサクっとお答えします。




■まず、清須会議って何?


ネット番組で先日お話しましたが(今話題の清州会議って何? )、

清須会議というのは、信長亡き後の織田家を誰が継ぐのかを決めた会議です。




■ん、清須ってどこ?


現在の愛知県名古屋市の隣にある清須市のことです。

会議は清須城で行われたのですが、このお城は若い頃の信長が居城としていて、

「桶狭間の戦い」の時もここから出発した織田家とは切っても切れない縁のある場所。




■これ、いつの話?


1582年のお話。


①6月2日 「本能寺の変」 (明智光秀によって信長が討たれる)

②6月13日 「山崎の戦い」 (秀吉が明智光秀を倒す)

③6月27日 「清須会議」 (織田家の跡取りが決まる)


という流れをまず押さえておきましょう!




■誰か候補者だったの?


次男・信雄(のぶかつ)と、三男・信孝(のぶたか)の二人。




■会議には誰が参加した?


織田家の重臣だった、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興(いけだつねおき)の4人。

滝川一益(たきがわかずます)は、関東で北条軍に襲われて命からがら清須へ向かっていたのですが、結局間に合いませんでした。


候補者の二人にはそれぞれ、後援会長がつきました。

相関図で書くとこんな感じ。


【信雄派=秀吉】 

vs

【信孝派=柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)】


※池田恒興は静観




■なるほど。ん?信長の長男は?


そこが案外大事なところ!

長男の信忠(のぶただ)は非常に優秀な武将で跡取りとして申し分ない武将だったのですが、「本能寺の変」で京都の二条城で明智軍に討ち取られてしまったんです。

織田家にしてみたら想定外中の想定外だったわけ。




■秀吉って「猿」って言われてた割りに偉かったの?


この段階では、まだあまり偉くない!

ランクとしては、柴田勝家や丹羽長秀の方がまだ上!

もともと二人の家は織田家にずっと仕えてきた重臣で、織田家の中ではツートップの権力者!


ちなみに、勝家は秀吉が大嫌い!

丹羽は比較的穏やかで、事を荒立てたくない人。


池田恒興はこの作品では影が薄めの計算高い人物として描かれています。

しかし実際は、信長の乳母兄弟(信長に乳を与えてた女性が恒興の母)だったので、織田家の中ではそこそこの身分で影響力のある人でした。



歴史芸人・長谷川ヨシテルの『我が名をあげよ、雲の上まで。』




■なるほど。なんでそんな権力のある人たちと「猿」が争えたの?


「山崎の戦い」がキーポイント!

それまでぽっと出の武将だった秀吉が、信長を討った張本人の明智光秀を倒した。

この事で、秀吉の株は大きく上がって、単なる「猿」ではなくなったわけ。

つまり、この時点で織田家の最高の功労者となっていて、発言力がだいぶ高まっていたわけ。




■んで、どうなったのよ?


秀吉、劣勢よ。




■なんで?


確かに秀吉の勢いはすごかったんだけど、担いだ神輿がよくなかった。

秀吉の推し後継者・次男の信雄は、当時からポンコツ武将として有名だったのよね。

本能寺の変のドサクサで、意味不にお父さんが建てた安土城を焼いちゃった容疑者だったりしたし。




■じゃあ、三男の信孝が継いだわけ?


結論、違うのよ。




■なんで?


秀吉がある奇策を持ち出したのよね。

この奇策は秀吉の軍師である黒田官兵衛(くろだかんべえ)が提案したとも言われているの。




■どんな奇策?


ここは楽しみにしてほしい点の一つだけども、調べたらすぐ出てくることなので紹介しますね。

純粋に楽しみにしたい人は、ここでお別れ、ばいばい~。




■だから、どんな奇策よ。教えろ。


実は、信長と共に明智軍に討たれた長男の信忠には、すでに子供がいたの!

三法師(さんぽうし)という名前の赤ちゃんで、当時はまだ2歳。

秀吉はこの赤ちゃんを後継者として担ぎ上げるという奇策に出たわけ。




■信長の長男の長男で、直系の孫なんだから、奇策って感じもしないんだけど?


今の発想からしたらそうね!

だけど、当時は戦国時代。

家を仕切れない2歳の赤ちゃんに継がせるよりは、

兄や弟、叔父や甥などに継がせて家を安定させることが常識に近かったわけ。




■なるほど。それで決まり?


柴田勝家は秀吉が大嫌いでしたからその1票は信孝に入るとして、丹羽長秀と池田恒興はいったいどうしたのか!?

秀吉は二人を取り込むために一体何をしたのか!?

映画が楽しみですね~。




■あれ?次男の信雄は?


秀吉に「三法師をいったん担ぐのはそれがしの作戦です!織田家は信雄さまの物です!」と言われて、

陽気にダマされてます。




■おバカちゃんじゃん!


先ほどポンコツと言っちゃいましたが、

実は織田信雄は戦国時代を乗り切り、江戸時代まで生き抜き、見事に信雄系の織田家を残しました。

のらりくらりとマイペースを貫き、武将というよりは自分のやりたいことをやって文化人として生きた感があります。

フィギュアスケートの織田信成選手は、この信雄の子孫だと言われています。


清須会議の後、柴田勝家は憎き秀吉との「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で敗れ腹を切り、

その秀吉が興した豊臣家も、大坂の陣で徳川家康に滅ぼされました。

そう考えると、この会議の勝者は信雄・・・・


いや、会議の勝者ではない!絶対勝者ではない!


危ない危ない!

信雄をフォローしすぎて、勝者として歴史を歪曲させるところだった!


しかし、この会議の勝者ではありませんが、清須会議よりも長いスパンの戦国時代を見たら、ある意味勝者かもしれませんね。


歴史芸人・長谷川ヨシテルの『我が名をあげよ、雲の上まで。』
(織田信雄)




■zzzzzzz・・・・


明日に備えて眠りましょう。





またね。