Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

2005~2009 NY、2012~2014 London、
2016~ now in Amsterdam。
UK Jazz Dance x Japanese Folk Art

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6. そしてオランダへ

 

 

2016年12月18日、モスクワ経由でアムステルダムに到着した。

ユースホステルに2週間滞在しながら、まずトレーニングするジムを見つけ年間契約を結び、SNS掲示板で住む部屋を探し、オランダ生活がスタートした。

 

個人事業主としてYoshitaka Suzukiという会社を設立し、オランダの商工会議所に登録し、就労ビザを取得した。オランダと日本の間には100年以上前に結ばれた日蘭友好通商協定(日蘭条約)が現在でも有効で、4500ユーロの資本金があればどんな職種でも起業し、居住する事ができる。今まで住んだアメリカやイギリスに比べたら破格の優遇と言える。

 

問題はここからで、ヨーロッパでダンスで生きるというのはやはり簡単ではない。今回渡欧するにあたり、ダンスだけで生きる、というルールを自ら決めていた。日本から持ってきた資本金が尽きる前に生活を軌道に乗せなければならない。

 

近くの公民館の安いスタジオを借りて、毎週ダンスワークショップを開催した。

オランダやドイツ、イギリスのエージェントにコンタクトして、自分に合うコマーシャルなど映像関係仕事のキャスティングがあれば、どんどん情報を回してもらった。

 

 

 

オランダ生活を始めた頃、初めての元旦に撮影

 

 

 

様々なダンスカンパニーや劇場、日本文化系イベントの関係者にCVと動画を送り、踊らせてもらえる機会を探した。 ほとんどは返事も返ってこなかったが、100件に2~3件は出演する機会が得られた。しかし必ずしも出演料をもらえるとは限らない。それでも最初のうちは少しでも多くの人に知ってもらう為に、出来る限り色々な場所へ行き、踊った。

 

2017年から2019年まで、オランダ国内だけでなく、フランス、ドイツ、ポーランド、イギリス、スコットランドなどヨーロッパ各地に赴き、イベント出演や、自主公演ツアーを行なった。公演開催のための協賛を秋田や日本の企業にお願いし、費用に充てた。

 

2018年はエジンバラで毎年開催されている世界最大の芸術祭、エジンバラ・フェスティバル・フリンジにて5日間、1時間のソロ公演を行なった。世界中からあらゆるPerforming Artsパフォーマーが集まるこの場所で、自分の踊りが通用するか是非試してみたかった。

 

秋田の企業に協賛して頂いた日本酒(高清水、両関)、いぶりがっこ(伊藤漬物)を公演のインターバルで観客に提供し舌で味わってもらいながら、秋田の文化を融合させ創り上げたパフォーマンスを、世界中から集まる観客に見てもらった。終演後にはお見送りをし、沢山の嬉しい感想を直接聞くことができた。有難いことに複数の地元メディアから高評価を頂いた。

 

deadline.レビュー

 

 

 

Photo : Garry Platt

2018年エジンバラ・フェスティバル・フリンジ(スコットランド)

 

 

Photo : Shoko Okumura

2019年バラヌフ・サンドミエルスキ城(ポーランド)

 

 

 

2017年パリのイベントで踊った時、秋田出身でパリ在住の今井さんに出会った。

その次の年にパリ日本館で開催したソロ公演を手伝ってくれて、フランス人の旦那さんピエールと子供達も観にきてくれた。するとピエールがパフォーマンスを気に入ってくれて、前に自分でフランスにある藤田嗣治のアトリエ美術館に連絡をしたが返事が来なかった話をすると、彼が直接電話して話してみようと言ってくれた。

 

年が明けた2019年1月、彼は本当にアトリエに電話をしてアポイントを取り、わざわざ出向き、自分の藤田嗣治の秋田の行事の踊りの事を説明し、秋田で制作したドキュメンタリー映画を、学芸員責任者アンヌさんにその場で見せながら紹介してくれた。彼女はその映像を一目で気に入り、その年のヨーロッパ文化遺産の日の目玉として、踊ることを提案してくれた。

 

もちろん快諾し、9月の公演開催へ向けて準備が進められた。

イギリスからIrvenに来てもらい、自分もその時初めてアトリエへ出向き、写真撮影を行なった。藤田のアトリエにも入った。そこには彼がランスの礼拝堂に描いたフレスコ画の習作が壁に描かれていた。その聖母や祈る人達の前で写真を撮る時、とても厳かな、不思議な感情に包まれ、気がつけば涙が落ちてきた。

  

 

 

 

Photo : Irven Lewis

2019年メゾン・アトリエ・フジタ(フランス)

 

 

 

2019年に始まった秋田県若者チャレンジ応援事業にオランダから応募し、採択して頂くことができた。これにより、9月の藤田アトリエ公演にてなまはげのお面や樺細工、曲げわっぱなど、秋田の民芸品や工芸品の展示や、ドキュメンタリー映画第2弾の制作を行うことができた。

 

公演前日には、アトリエのあるヴィリエ・ル・バクル村の子供達約100人にダンスワークショップを行った。秋田のドンパン節に合わせた簡単な盆踊りの振付を作って教え、みんなで輪になって踊った。今回公演でも共演してくれたフランス人三味線奏者シルヴァンが生演奏に日本語での生歌も付けてくれた。

 

 

 

ヴィリエ・ル・バクル村の子供達へのワークショップ

 

 

 

今回はパリの今井さん家族以外にも、秋田からはドキュメンタリー映画撮影にメルデジタル近藤さん、バウハウス森川さん、そして秋田魁新報の安藤さんが取材に、秋田県立大の込山先生が視察に(幻の藤田美術館のCG再現映像も提供して頂き、アトリエ美術館で放映展示を行なった)、韓国からは舞台運営にパクさんが、イギリスからはIrven Lewisが写真撮影とアドバイザーとして来てくれた。

 

日本を離れて異国で、こんな形で世界中からみんなが集まれるのは本当に素晴らしい事だ。

滞在した1週間、村にはホテルがないので一軒家を借り、そこでみんなで共同生活した。村の小学校の先生のお家へホームステイさせてもらい、藤田の話を色々聞かせてもらう事もできた。

 

本番2日間の内、初日だけ快晴でアトリエの庭のステージで踊ることができた。

ステージからは藤田のアトリエの窓が見えた。

彼は見てくれているだろうか。この踊りを喜んでくれているだろうか。

ふと、そんな思いが頭をよぎった。

 

これまで積み重ねてきたものを、全身全霊で踊った。

この場所で踊り、この村の人達に見てもらえた事、それだけで胸が一杯だった。

踊り終わった後、最前列で見ていた女性が一枚のスケッチをくれた。「娘がなまはげをとても怖がっていたけれど、ずっと最後まで見ていたのよ」と教えてくれた。

それはヨーロッパでもらった、今までで一番嬉しい感想だった。

 

 

 

公演後にFred Zouilleがくれたスケッチ

 

 

 

この公演の模様を収録したドキュメンタリー映画は次の年に完成し、現在Youtubeに公開している。 

 

 

 

ドキュメンタリー映画「Villier-le-Bacle」

 

 

 

2020年はコロナ禍で公演活動はほぼ出来ず、ダンスワークショップをZoomに切り替えて行い、何とか生活費を繋ぎ、またオランダ政府による個人事業主への支援もあり、生き延びることができた。

 

2021年パンデミック後に初めて、1年以上振りにオランダ国内でパフォーマンスを行ない、夏にはポーランドで2回目となる1週間の公演ツアーを行った。秋には5年振りに秋田に戻り、まほろば唐松の能楽殿にて公演を行なった。 

 

 

Photo : Sho Sugano

2021年まほろば唐松能楽殿 

 

 

 

ドキュメンタリー映画「Mahoroba」

 

 

 

時々ふと、不思議な人生だなと思う。

気が付けばもう25年以上踊り続けている。

たまに冷静に将来の事を思うと気が狂いそうになる。

 

それでもやっぱり、踊ることは楽しい。

音楽を感じ、そこに全身を浮かべるようにただ身を任せる。

身体が動き出し、心が澄んでいき、全てがひとつになっていく。

 

人は言葉や文化が違えども、自分の心に正直に、真摯に向き合って何かを追求すれば、みんなが共通してもつ何かを見つけることができる。

 

それを探す旅は、僕に生きる希望を与えてくれる。

 

必要だと思うときに、必要な場所へ行き、自分にできることを一生懸命する。

沢山の人と繋がり、支えてもらっている事への感謝を忘れずに。

自分の表現を信じ、これからも日々を積み重ねて、生きていく。

 

 

 

今これを書いているのは2022年12月31日、オランダの大晦日。

昨年、秋田魁新報WEB版に寄稿したこのコラムを、今年中に何とかブログに書き直す事が出来そうだ。軽く修正のつもりが結構時間が掛かってしまった。

 

外ではもう沢山の花火があちこちで上がり始めている。

今夜の月は雲と煙に隠れて見えそうにない。

 

来年はどんな年になるだろうか。どこに立っているだろう?

ひとつだけ確かに思うことは、

この世界にいる限り、僕は同じ月の下で踊り続けているだろう、ということだ。 

 

 

 

Photo : Yasunori Kondo

2019年パリにてIrven Lewisと

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)

 

 

 

 

 

5. ロンドンから帰国。故郷秋田での2年間。

 

 

2014年4月25日に日本へ戻った。

 

新しいビザが下り次第すぐまたロンドンへ戻るつもりだったので埼玉に住んでいた幼馴染の家に居候させてもらい、そこで夏頃まで過ごした。その後、渋谷のシェアハウスに2ヶ月住み、それでもなかなか進まなかったので、仕方なくひとまず故郷秋田に戻る事にした。

 

その時、埼玉で中古で買ったママチャリを秋田に送ろうかと考えた時に、だったらいっそこのまま乗って帰ってしまおうと思い立った。その場でiPhoneのGoogle mapで調べたらその距離約600km。1日120km漕げば5日で縦断できる。いける。

 

出発前にStax GrooveのリーダーIZMさんが、主宰するダンススタジオで送迎鍋パーティーを開いてくれた。朝までみんなで食べて飲んで語らい、そのまま徹夜明けで見送られながら出発した。その旅の模様はブログやSNSに毎日詳しくアップし、写真や映像も各地で撮影しながら進み、後日ドキュメンタリー映像にしてYoutubeに残した。

 

 

 

Tokyo~Akitaママチャリ縦断の旅。

 

 

 

秋田に着いた後、そのママチャリ旅の事をSNSで見た幼馴染が連絡をくれた。彼は北林といって、高校振りの再会だった。何か面白いことやってるなと思い、連絡をくれたらしい。

 

秋田を出て、今までやってきた活動や経緯を話すと彼はさらに興味を持ってくれて、知り合いの地元テレビや新聞社などメディア関係の人たちに紹介してくれた。まさか自分の活動に興味を持ってもらえるとは思っていなかったので、とても意外だった。

 

UK Jazz Danceという聴き慣れない、アンダーグラウンドなダンスということもあり、各社新聞記事や、テレビ番組に出演し、その年の暮れには地元プロバスケットチーム、秋田ノーザンハピネッツのオープニングセレモニーで3000人の観客の前で踊った。

 

実はそれまで一人でパフォーマンスをしたことがなかった。いつもダンスカンパニーやグループの一員として踊ってきた。一人で踊るのはショーの中でソロを踊るせいぜい30秒~1分くらいのものだった。

 

しかしせっかく幼馴染が繋いでくれた仕事を、チャンスを、出来ないとは絶対に言いたくなかった。とにかく全力でやってみて、大失敗した方がまだましだった。

今までニューヨークやキューバ、ロンドンで学んだことをもう一度思い出し、今自分に出来得る最高の、自分の踊りを真剣に模索した。そして全ての場で常に全身全霊で踊った。

 

人は、生物は、本当に追い詰められた時、次のステージに進めなければもう生きられないという時、進化という生命の神秘とも言える力を発揮する。

今までの自分のダンス史の中で、最大の転機は、実はこの時だったかもしれない。

 

もちろん毎回本番の映像を見ては落ち込むことが多かったが、冷静にそこから学び、次に必ず生かした。有り難いことに秋田で人前で踊る機会は沢山あって、その本番ごとに自分の踊りを磨いていった。

 

そして2015年2月21日、秋田のジャズクラブCat Walkで初のソロ公演を開催した。北林と2人でとことん内容や構成を考え、ぶつけ合い、練り上げて本番に望んだ。生バンド演奏でのダンスだけでなく、映像やトークや歌、Michael Jacksonまで盛り込んだ、その時の自分にできる渾身の2部構成80分のShowだった。

 

 

 

終演後、北林、マスター太田さん、バンドのメンバーと 

 

 

 

2015年4月にはIrven Lewisを、8月にはHorieさんを秋田へ招聘し、それぞれダンス公演を開催した。丁度この頃Irvenの9年振りの来日を知り、何とかスケジュールを入れてもらい、来日した次の日から5日間秋田に滞在してくれた。

 

彼が自分の生まれ故郷に来てくれただけでも感無量だったが、一緒に秋田の地で踊り、写真を撮り、秋田の料理を美味しいと言って食べてくれるのが嬉しかった。秋田のクラブJAMHOUSEで開催した公演には秋田の地元ダンサーと、竿燈会の協力も頂き、Irven、秋田ダンサーと竿燈のお囃子という特別コラボパフォーマンスを行い、沢山の秋田の人達に見てもらうことができた。

 

 

 

 Irven Lewis秋田公演

 

 

 

そして5月、秋田県立美術館からミュージアムコンサートで踊る依頼がきた。

最初は2階にあるカフェスペースでUK Jazz Danceを踊るというものだったが、その時打ち合わせをしたカフェの窓の外に広がる水庭が本当に見事で、ここで是非踊らせて欲しいとお願いした。そして打ち合わせ後に美術館の中を見学させてもらった。

 

その時、展示室に入ったすぐ目の前にあったのが、藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」だった。

子供の頃は美術館には一切興味がなく、行った事がなかったので、その壁画を見たのはその時が初めてだった。

 

何よりそこに描かれている人達の迫力が凄かった。筋肉は彫刻のように盛り上がり、交差する肉体は躍動し、表情は生き生きとして、全てのポージングが美しい。秋田を形作る大きな力がそこには描かれていた。

 

壁画に圧倒され、一度美術館を出た。するとだんだん、あの感動を自分の踊りで表現してみたいという気持ちが沸々と湧き上がり、止まらなくなった。再度美術館を訪れ、秋田の行事を踊らせてくださいと改めてお願いし、やらせてもらえることになった。

 

自分で言い出したものの、壁画を踊りで表現する方法なんて全く分からない。それでまずは毎日美術館に通い、壁画と向き合った。始めてみると、不思議なことに毎日見ていても飽きなかった。毎回その印象が微妙に違った。

 

その日によって目が行く場所が違ったり、同じ人物でもその表情や感情が違って見えたり、今まで気にならなかった所がやけに気になったり。

壁画は変わらなくても、それを見る自分は毎日違う。

 

見慣れない不思議なポーズをした踊り子が右端に3人描かれていた。聞くとそれは秋田音頭の手踊りで、その型は秋田県内でも地域によって違うという。美術館の紹介で、描かれている手の型が残っている秋田県仙北地方の手踊りを教えてもらえることになった。

 

その時に訪ねたのが、仙北歌踊団の鈴木香織先生だった。かつて藤田が壁画を描くために取材で訪れた角館で見た当時の仙北歌踊団の踊り子(壁画の中でもかまくらの中に描かれている)のお孫さんというとても所縁ある方だった。

 

以前、東京で能のワークショップを10日間受けたことがあるが、その舞台芸術とも違い、秋田の民俗舞踊は独特でとても興味深かった。膝を曲げ、腰を落とし、片足でバランスを取りながら手を滑らかに動かしたり、手の指のそらす方向がバレエとは逆で外側へ伸びていた。その指を綺麗に揃えて動かすことによって美しいフォルムを生み出し、なんとも言えない素朴で、力強い魅力を創り出していた。

 

 

 

秋田音頭の手踊りを初めて教えてもらった時

 

 

 

壁画には描かれていない、秋田の民俗芸能や祭りの雰囲気を少しでも体感し学ぶため、秋田県内を巡った。羽後町の西馬音内盆踊りも教えてもらい、本番では3日間毎日2時間、最初から最後まで踊った。角館祭りのやま行事では曳山に載せてもらい山ぶつけを体験したり、田沢湖生保内の梵天祭りでは大きな梵天を荒々しく交代で回し、家々を回りながら秋田音頭、秋田おばこ、ドンパン節などの手踊りを踊った。壁画の中央に描かれている秋田を守る霊峰、太平山にも登った。

 

 

 

田沢湖生保内の梵天祭りの踊り子たちと

 

 

 

秋田の行事に描かれているハレとケ。

秋田は雪国だ。冬は長く厳しく、雪は深く積もり、生活は閉ざされる。それゆえに短い夏は貴重で、みんなで喜びを分かち合う。お盆には県外に出ている人も地元秋田に帰り、みんなで集まり、先祖に感謝し、祭りという最高の舞台で、みんなのパワーをぶつけ合う。

 

そうしてまた次の1年を生きる力を蓄え、それぞれの日常へ戻っていく。

それは遥か昔から繰り返されてきた人々の祈り、祝福のように感じられた。

各地の祭りに急に参加してきた自分を、どこもとても温かく迎え入れてくれて、また来年も来いと言ってくれた。秋田に生まれてきて、みんなに出会えたことがとても嬉しかった。

 

 

結局、美術館水庭の使用の許可は下りず、場所の変更を余儀なくされた。

かつて藤田に「秋田の行事」の制作を依頼した平野政吉が、最初に藤田嗣治美術館を建てようとした、秋田日吉八幡神社の拝殿で踊らせてもらえることになった。

 

その間も美術館には毎日通い続け、準備期間が伸びた分、自分なりに秋田の歴史を、文化を、空気を、可能な限り吸収し、自分の踊りへと変換させていった。音源はCat Walkの太田さんに相談し、秋田の行事の4場面にそれぞれ選んだ4曲をJazzアレンジでの生演奏をお願いした。

 

イベント告知用写真はIrvenがこの為だけに再度来秋し、撮影してくれた。

そして藤田が壁画を描き上げた制作期間15日間に習い、本番の15日前から現地で、本番と同じ黄昏時に制作リハーサルを行なった。

 

2015年10月17日、本番当日。

神社、地元の青年会や美術館スタッフなど、大勢の人達が朝から公演の準備してくれた。

その日用意したパンフレット300枚はすぐ無くなり、400人以上の来場者があった。

後はそれまで積み重ねたものを信じ、ただ全身全霊で踊るだけ。

 

それはこれ以上ない、完璧な、晴天の秋の日だった。

黄昏時、踊りを奉納する為の神事が行われた。

そして辺りが暗くなっていき、Jazzと篝火の音の中で踊った。

 

 

 

秋田県立美術館ミュージアムコンサート「まぼろしに舞う」本番

 

 

 

大壁画「秋田の行事」は15日間で完成したけれど、ダンスに完成はない。

その瞬間だけの、たった1回があるだけ。

そして自分自身が踊っても、それは毎回違う。

今日の自分はもう二度と存在しないように。

この5ヶ月、そして15日間を踊り終えた後、微かな、一筋の光のような可能性を感じていた。

 

この「秋田の行事」をこれからも踊りたい。

様々な場所で。

様々な人の前で。

様々な人生の時間の中で。

 

この時、表現者として、強く、素直にそう思った。

 

 

 

秋田に滞在中、色々な場所に呼ばれ講演会やワークショップをさせてもらった。

秋田高校や秋田大学、聖園短大、聖霊高校、羽川小学校、秋田幼稚園、能代養護学校など。

2015年9月24日、自分の母校である附属中学校で、全校生徒、保護者、先生達の前で進路講演会をさせてもらったのは特に感慨深かった。

 

何故ならその体育館こそ自分が最初にダンスをした場所であり、その楽しさを知り、その後の進路へ進む始まりの場所だったこと。そしてその頃の自分と同じ年の後輩達に、自分がこの場所から今までどう生きてきたかを伝えるという、自分にとっても特別な思いが込み上げる時間だった。みんな真剣に聞いてくれて、質問も沢山してくれた。 

 

 

 

附属中学校での進路講演会

 

 

 

イギリスのビザは当初思っていたようには進まず、時間が掛かるにつれエージェント会社への負担も増え、また様々な会社内部事情が変化するにつれてどんどん難しくなってしまい、ついに話し合いの上、断念することになった。

 

既にハイネケンで得たギャラの半分をその申請、弁護士費用などに費やしていたので、正直かなりショックだったが、それ以上はどうしようもなかった。

 

しかしどうしてもまたヨーロッパへ行き、この秋田で創り上げてきた自分の踊りを、ヨーロッパの人たちに見てもらいたかった。そこで辛抱強く、他のヨーロッパの国のビザ事情を調べると、オランダで丁度その頃、日本人就労ビザの特別待遇が認められるという情報を見つけた。オランダへ渡り拠点を作り、ヨーロッパで活動するという道筋が見えた。

 

2015年12月から2ヶ月半かけて秋田魁新報のクラウドファンディングを行なった。

チラシを作って県内の幾つもの忘新年会や企業パーティーでソロパフォーマンスを行い、思いを話し、一人一人に挨拶をして回った。

 

本当に有難いことに多くの場へ呼んでもらい、沢山の人たちにお会いすることができた。結果は目標金額の116%に達し、無事成立した。秋田の沢山の人達に支えられて、自分のダンスを追求する人生を続けられている。この時からこの事を忘れたことはない。

 

 

 

県内の民俗芸能を色々調べていた中で、大日堂舞楽や霜月神楽などで舞われる剣舞を見て、他にもないか探していた中で、羽川剣ばやしを知った。しかしもうその剣舞は失われていた。

 

秋田で名前に剣が付く民俗芸能はとても珍しく、他にはない。その失われた剣舞がどうしても気になったが、図書館や史料館に行ってもそれ以上は分からなかった。

それで2016年1月に保存会の会長、大友隆一郎さんに会いに行った。しかし保存会にも剣舞に関する史料は残っていなかった。

 

そこで自分から、剣舞を創作して復活させる事を提案し、やらせてもらえる事になった。その日から羽川に通い、踊りを指導されている平塚久子さんに、現存している手踊りと扇の舞をまず教えて頂いた。その動きには剣を振るうような動きが入っていた。

 

剣を握った事もなかったので東京に行き、映画キルビルで剣術指導と出演をしている、剱伎衆かむゐの島口哲朗さんに基本技術のマンツーマン指導を受けた。

秋田の民俗学に詳しい齊藤壽胤さんに相談し、色々アドバイスを頂いたり、田沢湖にあるわらび座の民俗芸術研究所では小田島清朗さんに貴重な資料を見せて頂いた。

 

そして仙北地方に伝わる、神事として舞われている仙北神楽を知り、その剣舞を角館神明社の宮司、戸澤さんに教えて頂き、その魔を払う激しい動きを振付に取り入れた。

さらに数ある秋田音頭の手踊りの中でも1番古い、元の型を残しているといわれる土崎湊祭りの秋田音頭も名人の方から教えて頂いた。

 

こうして約4ヶ月を掛け剣舞を研究、創作し、羽川の皆さんに御披露目したのが5月1日。

場所は毎年9月のお祭りで剣ばやしが舞われる羽川八幡神社にて、奉納という形で行った。

 

民俗芸能は何よりその地域の人達のもの。羽川剣ばやしの剣舞という以上、地元の方々に認めてもらえなければ意味がない。

なので気に入ってもらえるか、とにかくそれが一番大事な問題だった。直前の4月にはストレスからか腰を壊し2週間動けなくなった。

 

雨上がりの境内で集まった沢山の地元の人達の前で披露した。

舞った後、大きな大きな拍手が起こり、沢山の笑顔を見た時、本当に嬉しかった。この時、心からほっとした。本当にやって良かったと思った。 

 

 

 

剣舞初お披露目の後、羽川剣ばやし保存会の皆さんと

 

 

 

羽川剣ばやしも他の民俗芸能と同じように年々踊り手が減り、継承に不安を抱えている。2021年現在もこの剣舞は地域の子供達によって踊り継がれている。伝統とは人が作り、そして受け継いでいくもの。自分に何が出来るか。またあの子供達と一緒に剣舞を踊れる日を楽しみにしている。ちなみに羽川剣ばやしはヨーロッパのどこで踊っても、とても喜ばれる。 

 

 

 

羽川の子供達に剣舞を指導した時

 

 

 

2016年の夏は去年以上に、沢山の秋田の祭りに参加した。

土崎湊祭り、竿燈祭り、生保内梵天祭り、西馬音内盆踊り、花輪ばやし、一日市盆踊り、毛馬内盆踊り、花輪の町踊り、羽川八幡神社祭典など。

 

前年の西馬音内盆踊りにひょんな事からお世話になった呉服やまだいの山内さんに繋いで頂き、西馬音内盆踊り保存会の菅原裕美子さんに直接ご指導頂ける機会があった。その動きは、地元で子供の頃から踊り、積み重ねて生まれ得る独特のニュアンス、民俗芸能の奥深さを感じさせるものだった。やまだいさんには見事な藍染めの着物を作って頂き、前年に続きこの年も3日間、毎日2時間以上踊り続けた。

 

 

 

羽後町の西馬音内盆踊り会館にて

 

 

2016年西馬音内盆踊り本番

 

 

 

秋田の行事の竿燈を上げる姿を研究するため、竿燈の練習に参加する内に、祭りにも参加させてもらえることになった。自分の地元の、子供の頃から見ていた竿燈祭りに参加し、満員の観客が埋め尽くす山王大通りで大若を上げたあの感動は、今でも忘れられない。

 

 

 

2016年の竿燈祭り

 

 

 

そうして秋田の文化や祭りを学びながら、諸々の準備はその年の年末まで掛かった。

最後に12月6日、秋田児童会館けやきシアターにて渡欧壮行公演を行い、それまで秋田で関わった沢山の方達と共演して舞台を作り上げ、秋田の人たちに踊りを見てもらった。

 

 

 

渡欧壮行公演YOSHITAKA DANCE LIVEのカーテンコール 

 

 

 

そして2016年12月18日に日本を発ち、再びヨーロッパへと旅立った。 

 

 

 

渡欧前、秋田で制作したドキュメンタリー映画「冬の秋田の行事」

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)

 

 

 

 

4. 4年振りに日本でダンサー&バイト生活、そして渡英修行時代

 

 

NY生活と世界一周ダンス放浪の旅を終え、2005年に渡米したそのちょうど4年後の同じ日、2009年9月10日に日本へ帰国した。

4年分の経験と歳を重ね、28歳になっていた。

 

とりあえず家がないので、都内の大学に通う弟の家に居候した。

今思えばキューバ帰りの真っ黒に日焼けして頭ボサボサの兄を、6畳1Kの部屋によく数ヶ月も居候させてくれたなと思う。後から聞いたらあの時、いつまでも居座るので「こいつまじか」と思っていたらしいが。

 

結局半年ほどそこにいた後、練馬の桜台のアパートを借りて生活を始めた。

ただやはり海外から帰ってきても、以前所属していた事務所はもう辞めていたし、すぐにダンスの仕事は入ってこなかった。なので生活費を稼ぐ為、まずバイトを始めた。スポーツジムでダンスインストラクター、テニスコーチ、パチンコ店、ファストフード店、その他日雇いのバイトなどで働いた。

 

師匠のHorieさんが自分のレッスンにアシスタントとして呼んでくれてまた毎週参加させてくれたり、先輩ダンサーのShunさんが、毎月目黒で主催していたUK Jazz Danceのクラブイベントに声を掛けてくれて、そのオーガナイズチームに入り、一緒にイベントの運営やパフォーマンスをした。そうして少しずつ日本の社会と、東京のダンスシーンに自分を馴染ませるように、ダンサーの繋がりやネットワークを再構築していった。

 

 

 

2010年5月のある夜、一人ダンス練習からの帰り道に電話が鳴った。

出てみるとShunさんからで、スケジュールが合わなくて受けられない仕事を代わりにやれるかと聞かれ、それを受けた。その仕事がその年のSMAP全国ツアーのバックダンサーだった。

 

もし将来ダンサーとして仕事をしたいのなら、バレエ、ジャズ、ストリートダンスを一通り鍛えた上で、なおかつダンサーとしての自分の個性をしっかり磨く事を勧める。そして自分のダンサーとしての実力や特性を、出来るだけ多くの、プロの仕事をしているダンサーや振付家に知っておいてもらうのが、とても大切だと思う。

 

約2ヶ月ほぼ毎日のリハーサルを経て、その夏の全国5都市を回るツアーに参加した。東京ドームを埋める、満員の観客約5万5千人の光景は忘れられない。客席のペンライトが夜空に浮かぶ満点の星々のようで、本当に綺麗だった。

 

自分が子供の頃から知っていた沢山の曲やその振付を、本人達と踊らせてもらえる事にも不思議な巡り合わせを感じた。大変な事も色々あったが、とても楽しくて、貴重な体験を沢山させてもらった。

 

2011年には北京公演が開催される事になり、再びそのバックダンサーとして呼んでもらえた。そしてその夏の間はリハーサルの日々となり、毎日10時間くらい踊る生活が続いていた。

 

ある朝、突然激しい痛みで目を覚ました。どの姿勢になっても腰の痛みが酷く、何とかベットから出ると、立てなかった。中学校のテニスの部活以来持っていた腰痛が、ついに爆発し、椎間板ヘルニアとなっていた。整形外科でブロック注射という強力な麻酔を背骨近くに打ってもらい、痛み止めを飲み、リハーサルへ向かった。

 

振付師に相談し、とりあえず1~2週間は見学し、新しいフォーメーションや構成を頭に入れつつ、体を回復させていきながら、何とか継続させてもらえる事になった。

 

この頃、リハーサルにはNHKの番組プロフェッショナルのカメラが入っていて、後日その放送を見たら、みんなが踊るリハーサルをただ横で突っ立って見学をしている自分の姿が、しっかり映されていた。

 

近くの区営プールに通い、水中ウォーキングをしてリハビリをしたり、鍼治療も受けた。そうしてなんとか2週間後くらいから少しずつ踊ることが出来るようになった。本番の北京へも大量の痛み止めを持って行き、何とか最後まで踊り切った。

 

この頃、もうすぐ30歳になる自分の体は、もう今までと同じように使っていてはもたないと痛感した。体の動かし方、ストレッチ、トレーニングの仕方を徹底的に見直す事が、これからも踊り続ける絶対条件だった。それでも、いつまた体が動かなくなるか、わからない。

 

 

2012年2月、韓国最大のストリートダンス大会で日韓合同チームとしてパフォーマンスさせてもらえる事になり、UK JazzダンサーのMuneさんやCryberと一緒に韓国へ飛んだ。

韓国は、ビックリするほど、ものすごく寒かった。

大会出演以外に、Bopster ScatのDuckyに誘われ彼の映像プロジェクトの撮影にも参加した。

 

 

Just Dance - Circle Inspiration

 

 

 

日本に帰ってきて2年間、東京でダンサー生活を再開して、日々を過ごす中で、微かに、でも徐々にはっきりと、頭の片隅で違和感を感じていた。最初にそれを感じたのは、バックダンサーとして満員のドームのステージで踊っている時に、ふと客席のお客さんの顔が見えた時だった。

 

当たり前のことだが、自分がどんなに必死に踊っていても、お客さんは全員アーティストの方を見ていた。もし自分が踊れなくなってもすぐに代わりの人が入り、回っていく世界。

 

思えば、ニューヨークへ行く前にやっていたミュージカルのアンサンブルの仕事もそうだった。個性を押し殺し、決められた振付を決められた場所で毎回正確にこなす事を求められる世界。

気が付けば、僕は同じ場所に戻ってきていた。

 

ダンサーの仕事が毎日あるわけではなく、それ以外の日はスケジュール調整のしやすい日雇いのポスティングや、マクドナルドなどでのバイトをしていた。アメリカでは誰でもやれる簡単な仕事の事をマックジョブと呼ぶ。もちろん実際にやってみるとマックの仕事はそんな簡単なものではないけれど。

 

しかし、華やかな満員のドームで踊った次の日に、マクドナルドで他の高校生アルバイトに混じって働いていると、その落差に心にもやもやとくるものがあった。海外に長く住み、色々な経験をして、もうすぐ30歳になる自分が、ここにいて良いのだろうかと考えながら、延々とハンバーガーを作り続けた。

 

自分が本当になりたいと思うダンサー像。

それは、自分にしかできないこと、自分がやるからこそ意味のある踊りをして生きる、表現者だった。誰かに決められた振付を、他の者に替えがきくことを、これから一生やっていくことは自分の人生ではなかった。

 

そう気付くのに、すんなりとはいかなかった。日々もやもやと渦巻く違和感をうまく処理することが出来ず、葛藤し、困惑し、苦しんだ。

生きるためのバイトと買い物以外は、深夜に一人自転車で出掛けて、人けのないビルのガラスの前でダンスの練習。それ以外はほぼ家から出なくなっていった。

 

ひたすら家でインターネットか、レンタルDVDを見て過ごしていた。人に会うのが何か億劫で、引きこもりの様な状態になっていた。SNSを見ると、友達や身近な人達が世界中で大活躍している姿が、心に重く、痛かった。

 

それでも、ここでこのまま終わる、ことはどうしても自分に許せなかった。

諦めるなら、もはや本当に生きている意味がない。

だから本当に自分がなりたいものになるしか、自分の生きる道はなかった。

自分のなりたい、表現者に。

 

その為には自分にしか出来ない踊りを手に入れなくてはならない。そう思った時、自分の持つ最大の武器、UK Jazzダンスを一生使える本物にする為、イギリスに行かなくてはならないと思い至った。

 

この時30歳。

調べるとイギリスのワーキングホリデービザの申請条件の年齢が30歳以下までだった。しかもイギリスは一番人気があり倍率が高く、抽選式で選ばれる。正にラストチャンス。腹を決めて、2012年の年が明けた直後、申請し、結果を待った。

 

数日後、申請可能通知が届いた。ああ、これでまだ先へ進めると思った。

それから本格的に渡英する為の諸々の準備を始め、約2年住んだ桜台のアパートを引き払い、日本から今度はヨーロッパへ、イギリスへ向けて飛び立った。

 

 

 

ロンドンへ着いたのはもうすぐオリンピックの始まる、2012年4月20日だった。

3年ぶり、2回目のロンドン。そして今回は2年間の滞在。

 

ロンドンに着いて数日後、Irven Lewisと何と道端でバッタリ再会した。それからはしょっちゅう撮影やジムでのプライベートトレーニングに誘ってくれた。彼は本当に不思議で、何とも言えない魅力を持っている。どんどん思いついたタイミングで色んな所へ連れ出された。ダンスだけでなく、写真や映像など常にクリエイティブを追求するその生き方が、正にJazzだった。

 

 

Photo : Irven Lewis

 

 

 

彼は80年代にBrothers in Jazzというチームを結成し、UK Jazz Danceの中にBe Bopと呼ばれる新たなスタイルを生み出した。その魅力は遠く日本まで届き、1990年にTRFのSAMさんやHorieさんがそれに反応して、わざわざそれを習いにロンドンまで訪れ、日本にも広まった。そして今の自分に繋がっている。

 

 

そしてIrvenと一緒にそのBe Bopを生み出したWayne Jamesが、その頃毎週木曜にダンスレッスンを開いていて、2年間欠かさず通った。Irvenが自由に踊る感じとは違い、彼は基本やテクニックに忠実に、細かく教えてくれた。

 

2年間で受けたレッスンでは毎週ほぼ同じメニュー、振付を延々と繰り返した。そして毎回めちゃくちゃ怒られた。一度怒りすぎてレッスンが中止になったことさえあった。バレエを強化するため、ロイヤルオペラハウスのBallet Blackが開催していたプロダンサー向けバレエレッスンにも毎週通った。

 

そして毎月ロンドンで開催されていたるUK Jazzクラブイベント、Shiftless Shuffleに出掛け、オリジナルUK Jazzダンサー達と、とことん踊り合った。他にもNottinghamで開催されるOut To Lunchや、年数回開催される伝説的なイベントDingwallsなどにも足を運んだ。

 

 

Shiftless Shuffle

 

 

UK Jazz Dance Report 2013

 

 

 

そうして1年が過ぎ、2年目に入った頃、あるオーディションに呼ばれた。連絡をくれたエージェントによると、あるCMでタップダンサーを探しているが、お前のUK Jazz Danceを思いっきり見せてこいと言われ、自分の踊りやすい曲を持って行き、30秒程カメラの前で全力で踊った。

 

数日後、プロダクションから直接電話掛かってきて出演決定を伝えられた。それがハイネケンの2014年に全世界で使われたコマーシャルフィルムだった。後から聞くと、イギリス中から何百人とタップダンサーを集めてオーディションは行われ、その中で自分のUK Jazz Danceのステップが、ハイネケンの社員や監督のイメージに1番近かったから選ばれたと教えられた。

 

撮影するバルセロナへ出発する数日前、Irvenといつもの様にスポーツジムで一緒にトレーニングをしている時、僕のダンスを見ていた彼が、お前の踊りは大き過ぎてエネルギーを無駄にしているから、もっとコンパクトに、足元の狭い範囲で力を集中させる様に踊れとアドバイスをくれた。

 

なるほど、と思って数日後バルセロナへ出発し、海岸に作られた巨大な撮影セットにいってみると、監督からこのテーブルの上で激しいステップを踊ってくれと指示された。それは直径1mもない小さな丸テーブルだった。

 

この時ほどIrvenの預言者の様なアドバイスに驚き、感謝したことはない。彼から教えてもらったことをひたすら思い出しながら撮影に臨み、無事怪我もなく終えることができた。

 

 

Heineken - The Odyssey

 

 

 

2年目はこの他にもソニーのブラジルサッカーW杯コマーシャルや、ナイキの広告写真モデル、全英ファッションショーのCatwalkモデルなど、大きな仕事が次々に決まった。1年目にUK Jazz Danceを磨いたことが、2年目になってその成果として出始めた。

生活費のためにやっていたバーテンダーのアルバイトも辞め、ダンスだけで生活できるようになっていった。

 

前回のロンドン滞在時にJazzCotechのリハーサルに参加させてくれたPerry Louisが、今度はドイツやスロベニアなど国外のパフォーマンスに、グループのメンバーとして参加させてくれた。日本への帰国直前にはIncognitoのミュージックビデオにも声を掛けてくれて急遽出演した。

 

 

IncognitoのBluey、JazzCotechのPerry, Tonyと

 

 

 

IrvenとWayne、この2人からこの2年間で教えてもらったことの価値は計り知れない。

そしてBrothers in Jazzのもう一人のメンバーTrevorにも実は一度だけ、会うことができた。しかもそれは彼の結婚式だった。

 

Irvenにいつもの様に突然呼び出され、綺麗なスーツを着てこいと言われ行ってみると、Trevorの結婚式だった。写真撮影のアシスタントとして同行させてくれた。ずっと古い映像でしか見たことがなかったTrevorとの初対面がいきなり彼の結婚式という状況だったが、会えた事が心から嬉しかった。別れ際、彼がそっと教えてくれたダンスを上達させる秘密のアドバイスは、もちろん今でも忘れずに覚えている。

 

 

Brothers in Jazzの三人と。左からIrven、Trevor、自分、Wayne

 

 

2年間のイギリス生活が終わる頃、大きな仕事が取れるようになってきた事をエージェントが評価してくれて、次のビザを協力して申請してくれる事になった。それでひとまずロンドン生活を終え、自分の荷物はしばらく何人かの友達の家に分けて預かってもらい、日本から弁護士と連絡を取りながら、次のビザ申請を行うことにした。

 

2014年4月8日にロンドンを離れ、日光に飢えていた僕はカナリア諸島で休暇を取り、それからドイツのデュッセルドルフにいる幼馴染のダンサー瀧森を訪ねてから帰国し、日本へ着いたのは4月25日だった。

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)