「嬉しい」という感情はかくも不確かなもので、
存在自体があやふやに思えて
「ひょっしたら幻かも?」
と疑った瞬間にはもう消えている。


「楽しい」はもっとわからない。


「悲しみ」は明確に形もってそこに存在し、
「怒り」に至っては、生まれた瞬間その炎は
永遠に胸に内に燃え続けることを約束され、
決して消えることは無いらしい。


嗚呼、人を「許す」ことができたなら!
そう切に願うが、未だ叶わず・・・。


なにが「幸福」かと尋ねられたら、
今ならたぶんこう答える。


「僕が美しいと思う花を
同じように美しいと思ってくれる人が
幸せを感じてもらえるならば
僕はそのために何でもするし、
それが僕にとっての幸せです。」


僕は、僕のためではなく、人のために生きたい。
そしてそれを心から「嬉しい」と思える自分でいたい。

大人にならなければ。


と、最近ひしと思う。
なら「大人」とは何か。以前から僕はそれを
「自分のことを勘定に入れる前に人のことを考えられる人」
と定義してきた。


つまり、人を思いやれなければ駄目。
人の立場になってものが見れなければ駄目。
自分勝手は言語道断。
自分を冷静に客観視し、分析し、反省し、
直すべきは直し、
それでいて、自分のこともないがしろにせず、しっかり思いやれる。


全然できてないけど、とりあえず目指すべきは
そういう自分だと思ってずっとやってきた。


「大人になる」というのは汚いことでも醜いことでもなんでもなく
本当は素敵なことだと思う。
人として成熟していく、というのは、本当は素敵なことなんだ。


よく、「大人は汚い」などと子供が口にするが、
あれは「子供のまま身体だけ大人になった大人が、
大人気なく子供じみた汚いことをしている」ということに他ならない。
つまり「大人」になれていないから「汚い」のだ。
そして悲しいかな、そういう人が世にはあまりに多い・・・。



15日、夜。なんば秋吉のカウンターに並んで座った
僕とは性格も外見も思想も血液型も違う、
似ても似つかぬ4つ上の兄に、


「だからお前は未熟やねん」


と言われ、思い当たるフシが多々あった。
こんな風に直球ストレートに言ってくれる人間がいると助かる。
僕にとって兄は当たり前にそれが出来る貴重な存在だ。



気の短い僕には、世に怒髪冠を衝くことがあまりに多いけれど、
当面の目標は、まずこの一つ。

「すぐにおこらないこと。」

 いや久しぶりだなぁ。まあ座ってくれ。よく此処が分かったね。誰にも話してないつもりだったが、いや、二三の友人には話したかもしれない。彼らから洩れたのだろう。まあ、どうでもいい。最近調子はどうだい。相変わらずかい?カミさんも元気か。長い間会ってないなぁ。そうそう家を買ったって話を噂に聞いたよ。やるじゃないか。僕なんかこの歳でまだこんなアパート暮らしだよ。トイレに行くのが面倒だから、窓からするんだ。何、大家が庭に小さい畑を作っていてね。ガーデニングだとか言ってるようだが、ただの野暮ったい畑だよ。ちょうどそこに落ちるもんだから、肥料にもなる。リサイクルてやつさ。風呂はね、まあ近くに銭湯があることはあるんだが、あまり気が進まななくてね。まだ、臭わないと思うんだが、もし臭いようなら遠慮なく言ってくれたらいい。この部屋には消臭剤という秘密兵器が備わっているんだ。いつでも噴霧する用意はあるよ。
 ええと何の話だっけ。そう、君の近況を聞かせてもらおうか。僕の近況なんて、つまらない。この部屋が全てを物語っているしね。子供はまだだったよな。早いほうがいいぜ。少子高齢の社会だ。子供を産んで育てる。この当たり前の行為が、いまやこの国を救うのに最も重要なことなのだからね。数は、もちろん多いほうがいい。そのためにも早いほうがいいだろう。
 賞を貰ったそうじゃないか。ええと、あの有名な、なんとか賞。おめでとう、なんてのはもう耳にタコかな。いや嬉しく思うよ。君の名前を新聞で見つけたときは、そりゃもうとても驚いた。そうして嬉しかったよ。カミさんも喜んだろう。実際、たいした出世だよ本当に。
 ヨーロッパはどうだったね?僕はテレビでしか知らないけれど----最近はそのテレビすら見てないが、実際に行って見てどうだい。フランスだったっけ?ドイツか。まあ僕にとっては同じようなもんだ。何せ僕は、ヨーロッパという国があるのだと思ってたくらいだからね。それも相当大人になるまでだ。気付く機会がいくらでもあっただろうにね。不思議だね。とにかく、僕には桃源郷のようなものさ。足を踏み入れることがないんだから、実在しているか、幻かなんて、どうでもいいんだ。
 そのヨーロッパ人に表彰されるっていう気分はどんなもんだろうね。想像もつかない。もとより、想像力というものに僕は欠けているからね。西洋人なんてのは数えるほどしか見たことがないが、誰も彼も、賢そうに見えるね。それに強そうだ。見る者見る者、全て僕より大きいんだからね。背は高い、足は長い、手も長い。それでいてどういう訳かそろいもそろって僕より顔が小さいと来てるんだから、やりきれないね。
 そのイギリスだかベルギーだかの表彰式の様子を書いた新聞がたしか家に置いてあったよ。記念にと思ってね。どこにやったかな。まあ、なんだ、あのへんにあるよきっと。我事のように喜んで、繰り返し読んだから内容も覚えてしまったよ。「鬼才現る」なんて表現を見たときは震えたね。僕の古い友人がこんなふうに祭り上げられるなんてねぇ。
 うん、君は顔色もいいし、健康そのものといった感じだね。今後がますます期待されるね。どこに越したんだっけ。一度外からその御殿を見てみたいよ。いや、中には入らなくていいんだ。きっと惨めな気分になるからね。カミさんにも悪い。僕の服装を見てみたまえ。酷いもんだろ。肩の継ぎ目に指が入るんだぜ。一度縫おうと思って針を持った。その結果が左手のこのバンソウコウさ。しかもこれが一張羅というんだから、笑ってしまうじゃないか。このナリで君の新居に行く、なんてことは如何に想像力に欠如した僕でも、その燦燦たる有様が脳裏に浮かぶよ。子供のころはお互いこんなナリでも平気だったんだがね。大人でこれじゃあ、いかんねぇ。
 部屋はこんな様子だけど、このアパートでもひとつ気に入っているところがあるんだ。窓からの風景がそれさ。ちょっと見てみたまえ。こうガラリと開ける。壁だ。隣のアパートのね。ちょうど猫が歩くためだけにつくられたような出っ張りがあるだろう。発情期になると、ここでよく決闘が行なわれている。奴ら、夜行性でね、僕は毎年、期間限定で不眠症に悩まされているという訳だ。まあ、早く起きたところでする事もないがね。そういうわけで窓からの景色は決していいとはいえない。しかし反対側をガラリとあけてみよう。こちらは三分の一ほど田園が見える。犬を連れて散歩する人がたまに見えるんだ。それだけで僕はこの景色がお気に入りなんだ。さて、もう閉めよう。北向きの窓は風が強くっていけない。身体を壊しては大変だ。
 酒。酒があったぞたしか。君は車じゃないね?近頃は厳しくなったからねぇ。知り合いの飲み屋が悲鳴をあげているよ。都会じゃなんでもあるけど、田舎はバスすら少ないからねぇ。お偉方はその辺が全然わかっちゃいない。田舎飲み屋に死ね、と言っているのが全然わかっちゃいない。ビールがね、少しあるんだがね、こないだ冷蔵庫が壊れて捨てちまったんだ。常温のビールなんて気味がわるいからやめとこう。焼酎があったな。たしかこれも少し残っていたんだ。君は焼酎いける口だろ?僕は洋酒が駄目でね。ワインなんかもうどこが美味いんだか。安物も高い物も、関係なくちっとも美味しいと思わない。僕のいう高い物なんてたかがしれているがね。一度だけ神戸で飲んだんだ。べっと吐き捨てたよ。奢ってくれた人には悪かったけどね。それ以来口にしてないんだ。
 あった。あったよ。いいちこ、これを飲もう。サカナは、まあ僕のつたない喋りを以ってそれとしようよ。焼酎はいつも水割で飲むんだ。前にロックで飲んだことがあったけど、喉が焼ける思いだったね。もともと酒は強くないんだ、僕は。水割の配分はいつも決まってある。まず焼酎をコップの五分の一入れる。あとは水道水。かき混ぜない。都会あたりは水道水が飲めなくて不便だよなぁ。ここいらじゃ、売ってる水と変らない味がするんだ。都合がいいよ。都会の水は、ありゃあ畜生の小便以下だ。厠に使用するためにあるようなもんだ。
 できたよ。飲もう、飲もう。遅いが、君の受賞記念の杯としよう。乾杯。ふぅ。うまい。久しぶりの酒はうまいね。もうコップに半分しかないよ。焼酎は五分の一に限る。うすいと皆は馬鹿にするが、舌がおかしいんじゃないかと思うよ。この分量がいちばん焼酎の旨みがわかるというのにな。しかも経済的だ。この焼酎も、買って二年ほどになるが、まだこれだけ残っているんだからね。
 もう一杯飲もう。君も飲め。再会記念じゃないか。君が飲まなくてどうする。おっと入れすぎた。まあ途中で水を足せばいいか。おい、飲めよ。俺は今日飲むぜ。
 俺らがガキのころはよう、もっと大人って賢い生き物だと思ってたけどなぁ、いざ大人になってみてどうだい。馬鹿ばっかりだ。右も左も馬鹿だらけだ。上は上で賢ぶって偉そぶるだけの脳みそ空っぽ。下は下で罵り合って目くそ鼻くその脳みそ空っぽ。いったい人間の脳みそってやつはいつから機能しなくなったのかね。本当に、馬鹿だらけだ。
 右も左もっていったけどな、洋の東西を問わずって意味だ。ヨーロッパ人だって、何がそんなに偉いんだ。おんなじだおんなじ。脳みそ空っぽに決まっているんだからね。そいつらに煽てられて天狗になってるような人間は馬鹿の中の馬鹿、真性の馬鹿野郎だ。
 この大自然というものは弱肉強食という摂理があるが、なぜ人の世だけは違うのだろうね。弱肉弱食だ。どいつも皆、弱っちぃくせに、人の肉を食いやがる。俺はね、そういうわけわからん生存競争から外れて生活しているんだ。お前らみたいに、人を見下げるために生存しているわけじゃないんだ。酒が無くなっちまった。お前、飲まないんなら、よこせ。失礼なやつだ。どこまで人を見下げるつもりだ。言っておくがな、俺はちっともお前を尊敬していない。微塵も尊敬に足る要素がない。お前はくだらない人間なんだ。かと言って軽蔑しているわけでもないよ。俺もおんなじ人間だ。人間が人間を軽蔑するというのは、どこか不自然だ。皆おんなじなんだよ、お前も俺も。なんとか賞とってヨーロッパで誉められようが、世の中の人から天才と称えられようが、成功者だと呼ばれようが、何やっても失敗続きの安アパート住まいの俺となんも変らねぇんだ。俺もお前もたかだか人間だ。ちっ、酒が無くなっちまった。もう帰れよ。お前の目的は俺を見下げることだろうが。これ以上見下げるところがどこかひとつでもあるかい?人を見下げて見下げて、足の裏で顔を踏みにじって、平気な顔どころか満足げな微笑すら浮かべることで悦に入る、それがお前らの生存理由なんだ。お前のその両眼には俺の姿がさぞ小汚く写っているのだろうが、それはお互い様ってやつだ。お前も相当醜いぜ。少しは自覚したらどうだい。さあ、帰れ。いますぐ帰れ。どうせ同じ穴の狢さ。俺を笑うその冷笑は、お前自身をも笑っているんだ。帰れ、帰れ。俺もお前も人間さ。違うところがひとつでもあるなら言ってみろ。馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎。