柳田邦男氏の「この国の危機管理 失敗の本質」という本を読んだが、氏の唱えるこの国に蔓延る「線引き主義の無慈悲」というワードが核心を突いていると感じた。
2011年3月11日
・東日本大震災
・福島第一原発事故
今私が仕事で関わっている子どもたちはまだ生まれる前か、まだ小さい頃だから、この震災のことをよく知らないのである。
小生は、1995年1月17日の阪神淡路大震災も、2011年3月11日の東日本大震災も、体験しており、まだまだ記憶に新しい。
だがしかし、前者は子どもの頃の無関心でなんとかなってしまい、後者も大学盛りの頃で自分のことで必死だった。
いつしか「対岸の火事」でいた自分を恥じ、猛省し、一隅を照らす道を模索するようになった。
当時の被災地や被災者の切迫した状況やこころを想うと、自責の念に苛まれずにはいられない。
東日本大震災の災害関連死の数を見ても、阪神淡路大震災の教訓は、東日本大震災にほとんどいかされなかったと言っても過言ではない。
この失敗の本質を考えねばならない。
この随想でも毎年同じことを言い続けているかもしれないが、この国に生きる人々の
・視点が渇ききっている
ということが一つ挙げられる。
自分以外は、あるいは自分の大事な人以外は、どうだっていいのだ。
簡潔に言うと、他人に冷たい。
その証拠に、ニュースで凄惨なの情報が流れてきても、それが自分の生活に関係しない場所での出来事なら、全くと言ってよいほど、胸を痛めることなく、眠れるだろう。
この世のそういった事象の一つ一つに振り回されて、気になって眠れない、心配で眠れないなどやっていれば、身が持たない。
だが、本当は、本当は、こうあるべきなのだ。
宮沢賢治も、世界全体が幸福にならない限り個人の幸福はないと言ったが、その通りなのである。
「これがもしも、自分や自分の近しい人の身に起きたら、、、」
という想像力を、絶えず働かせるべきなのだ。
ただそうは言えども、それぞれがそれぞれの人生を懸命に過ごしている時に、それが現実的に難しいことは、しばらく人間をやっていれば、愚かな小生にでも分かる。
それでも、尚、
・「自分に何かできないだろうか」
・「何もできないならせめて祈ろう」
といった視点で物事と対峙することは、誰にでもできるのではないだろうか。
これが、人間たらしめる「思いやること」ではないだろうか。
生成AIをはじめ、人間ではない立場のものが、人間よりも立身出世してきたことのせいにするつもりはないが、とにかく、人間が全体的に、機械化し、ぬくもりが消えつつある。
その勢いを止めることはできないまでも、何とか緩められないものだろうか。
2017年、震災から6年経た当時、まだ自主避難者は約3万人いたが、政府は支援を3月末で打ち切った。
その際、キレの鋭い質問をする記者に対し、今村元復興相は
「(帰れないのは)本人の責任」
「(不服なら)裁判でも何でもやればいい」
と居直った挙句、それでも下がらない記者を「失礼だ」と吐き捨て、強制的に会見を打ち切った。
これらの発言で、原発事故の被害者やメディアに厳しく批判され、おまけに、かの「(東京ではなく)まだあっち(東北)の方で良かった」と、例の大失言も飛び出し、更迭された。
ところが、彼は未だに議員を続けられているという不思議が、今ここにある。
自分の後ろには3万人以上の帰宅難民がいることなど全くお構いなしで、会見中、彼の口から放たれる言葉の一語一語から、自分と福島県民の間には、明確で強力な線がきっちりと引かれていることが、はっきりと感じ取られた。
これは、自分が先頭に立って被災者を救おうとする公的機関のリーダーであるという自覚が「かけらも」感じられない会見だったといえよう。
復興相など、本当に、名ばかりのものだった。
おまけに、都合が悪くなると、大声で怒鳴り部屋を飛び出していくとなると、精神的な成熟性の「かけらも」感じられない、極めて稚拙な精神性の持ち主であることがよくわかったといえよう。
彼の発言からもよく分かるように、
何かあれば、後は自己責任という「線引き主義」
何かあれば、後は法廷という「裁判主義」
とは、まさに現代の先進国そのものではないか。
しかし、私はそれを頭ごなしに批判しているのではない。
この、美味しいところだけ摘ませていただく、日本人のオノボリサン具合に苦言を呈しているのだ。
もちろん、全家庭がそうだというわけではないことは言うまでもないが、例えば アメリカにはまず、キリスト教というものがバックボーン的な働きを持ち、その人の人格形成に大きく関係している。
要するに、「白と黒」「善と悪」をしっかり区別して物事を判断する精神的な基盤が、小さい頃から少しずつできあがってゆく。
幼い頃から、その素地を十分に練ってあるからこそ、大人になって、ある一定のラインで線引きをするところや、いつでも裁判を辞さないような世界に放り込まれても、ある程度順応できるようになるのではないだろうか。
それが、戦後、急にその文化を強制的に入れようとしたが、いくらファッショナブルに見え、効率的で、利便的で、経済的であろうとも、この高齢社会の日本にそう簡単に馴染むわけがない。
どれだけ混雑に巻き込まれようとも、長期休暇に必ず帰省する姿や、祭に人生を捧げたり、初詣で神社にお参りをする姿を見ていれば想像にたやすいはずだ。
休みのたびにふるさとに帰ったり、みんなで一つになったり、自然に手を合わせたりすることが、決して嫌いではない血が、まだ彼方此方で脈々と流れ続けているではないか。
こんな殊勝な国民はどこにもないだろう。
最近の政治はあまりにも酷く、四方八方からつつかれているが、酷いのは何も政治の世界だけではない。
街を歩けば、身の保身や、傲慢な酷い人間はいくらだっている。
残念ながら、この社会の現状はこの有り様である。
まさに、「線引き主義の無慈悲」である。
さて、では、どうするのか。
この突破口となるのが、柳田邦夫氏の唱える「2.5人称の視点」である。
この場合、自分自身が1人称、近しい人が2人称、赤の他人が3人称、とするならば、3人称の赤の他人には関心を示しにくく、2人称の近しい人には涙目でものを捉えてしまい、冷静な判断ができない。
したがって、特に、医療従事者をはじめ、人を助ける公的機関は、渇ききった3人称の視点で、びゅっと線引きするのではなく、
2.5人称の視点、つまり、
「これがもしも自分だったら、もしも自分の大切な人だったら、どうするか」
といった想像力を働かせることが大切だと言うことである。
それは無論、誰にでも推奨できることであり、誰しもが目指すべきではないだろうか。
3月11日。
唱歌の「ふるさと」を歌い、精一杯の祈りをもって過ごしたい。