これはラテン語で「真理は一つ」という意味で、コルベ神父の口癖だった。

ベリタス ウナ


2024年、いよいよ火蓋は切って落とされた気がしないでもない。

生き残りをかけたサバイバルのゴングが鳴ったと言えるかもしれない。

そのために必要なことは、


・決して流されてはならない

・己の心を信じること


である。

この国の国民性に、餅よりも粘り強く普遍性をもたらす、「みんな一緒」主義にメスを入れる必要がある。

ここ近年で、多少の多様性が入ったことにより、個人の存在が若干広がってきたことも全くなくはないが、世論にこれだけ流されるところを見れば、私から見れば、まだまだこの国は「みんな一緒」である。

つまり、多数決で多ければ多いほど、その事象の信憑性や現実味が増すのである。

誤解を恐れず申し上げるが、もはやこの世界はフィクションと言っても過言ではない。

私もまさか、とは思いながらここまで生きてきたが、いよいよ腹を括った感を覚える。

したがって、この世界の常識を、まずもって鵜呑みにしないということだ。

ことに、「利権」を背負った政治家、医者、専門家の言うことは、十分に用心して、見破らねばならない。

元来市民にとって善なる暮らしをしてゆく際の、非常に重要な存在であるはずの有識者たちが、今や、無知な鼠を巧みに誘導する、小賢しい猫として各所に配属されており、非常に厄介な存在であると言えなくない。その嘘を見破るためには、


・「何を言ったか」を聞くのではなく、「何をやったか」を「自分で調べること」である。


その人間の実践を見ていけば、言動が一致しているか、否かを探る場合、これは案外難しいミッションではないことに気がつくはずである。ここ数年でも、わかりやすいものがいくつもあったはずであるが、このブログで何度か述べているため、もうあえて述べはしない。現状を後悔してやまない哀れな人々が後を絶たないことからも、当時、根拠もないのに「〜するべきだ」と、堂々と公言していた忌々しい知識人らの顔が頭から離れない。

人口が人工されゆく時代である。

何があってもおかしくない。

だが、まだ、血の雨は降ってはいない。

日常生活の中での経験と、それによって得た感動を大切に、自分を信じて生きていてほしい。

確かに、サバイバルのゴングは鳴った。

もはや、これだけの出来事が重なれば、誰の目にも異常が日常と化したことが把握できているはずだ。


もう誰のことも信じられなくなることだろう。

だがしかし、これは今更言っても仕方のないことだ。

だからこそ、己の心を絶対的に信じていなければならないのである。

己の心を信じようと思えば、自らの言動を絶えず一致させていなければならない。

私自身も、この世に生かされる限り、最期の一秒まで、己の心を信じられるような思考と言動を一致させられるよう、尽力し、努力精進してゆくことを、改めて今ここに、誓いたいと思う。


その時の合言葉は、「veritas unus 」ベリタス ウナである。

並びに、全ての被災地に、祈りと実践を忘れぬよう、心して生きていかねばならない。