私はヨハン・シュトラウス2世が好きで、レコードでも、CDでも、ネットでも度々愛聴する。その中でも「美しく青きドナウ」は特に好んで聴いている。どんな嫌な事があっても、これを聴くと総ては美しい旋律の中へとけ消えてゆく。ところが、ここ最近どうもこの曲を聴くと哀しくなるのである。ウィンナ・ワルツの代名詞と名高いこの作品が、まるで砂時計のように、静かなる哀しみがすーっとこころの底に拡がってゆく。なぜ今「哀しみのドナウ」なのかと言えば、今世界中の国民が、一部の恐ろしい指揮者に、閉幕(暗喩)にむけたワルツを踊らされているとしか思えなくなったことがその要因だ。数多の踊り子たち(世界中の国民)の足並みや動きが綺麗に揃っている。

 たとえばワクンについても、多くの従順な国民を連日の感染者数や症状で脅かし、従順な国民は「エビデンスなき安全性」を慌てて鵜呑みにし次々と接種。その後、その信憑性が危ぶまれるような体の異変・突然死が続出した。他国ではマスク生活はなくなり、大規模なデモも始まり、日本でも被害者・遺族の会が日増しに大きくなる。しかし、あれだけ恐怖を煽るような汚いやり方をとれば慌てて打つのも必至だろう。流行初期時の同調圧力もすごいものがあった。姑息な猫からすれば、思考しない鼠はさぞかしチョロかっただろう。今までに様々な実験を行い、その検証結果にほくそ笑んでいたのだろう。しかし、とある変質的な鼠(私)はコロナ騒動の当初からこの小賢しき悪猫どもの釣り餌には決してかかるまいという自負があった。なぜなら、マコミの裏側を約10年前に見破り、その後、何事においても必ず自己分析・自己調査・自己判断をする癖がついていたからだ。特に、メィアが大々的に報じれば報じるほど「何か裏があるかもしれない」と考え、より慎重に動静を見つめる習慣がついていたのである。私は若かりし頃からマコミの偏狭的な報道のあり方を疑問視していたため、常に皺のない背広を着た人間の笑顔(比喩)は信じないようにしてきた。たとえば、個人的に違和感を覚え、ある程度時間をかけ調査した材料でいえば、


911

・イラク戦争

・原発事故関連

・消費税増税

・憲法改正法案

・東京五輪


などが挙げられる。このように羅列すると、報道のあり方について首を捻らざるを得ない出来事は日常にいくらでも転がっていた。誤解を恐れず申し上げるに、それを思考せずにメィア・マコミ鵜呑みにした私たち国民にも当然責任はなくはない。私は今のようにSNSが流行する随分前から「一人ジャーナリスト」のようなことを粛々とやったいた。その結果、私は世界の先進国らは平然と大嘘をつくことを、この目で科学・論理的に認識している。

 たとえば「消費税率の引上げ分は、(以下赤字)『全額、社会保障の充実と安定化』に使われます。」と、5%から8%に引き上げ時に当時の政府公報ポスターで宣っていたが、その結果は大嘘だった。後援会の誰かやサポーターが勝手に作ったポスターならまだしも、政府自作のポスターで「全額」と宣っていたそれは、結局「2割(約16%)」程度にとどまり、残りの約84%は用途不明金(国の借金返済?)となった。当時の総理大臣は議会でそれを堂々と宣言し、居直った。そしてそれは、何かの力にお見守りされてまかり通った。というか泣き寝入った。普通まかり通るわけがない。たとえば、出資者から集めた金の84分を用途不明金として使い切って普通に町を歩ける投資家がどこにいるのだろうか。いや、ない。それはいつの日か必ず我が身に返ることだろう。あるいはもう返ったのかもしれない……

 また、「大量破壊兵器はある」といってイラク・アフガンで大量殺戮を行った某国の一族を、当時メィアは英雄的に映るような報道をとり、「善」の印象を徹底的につけた。そしてこの国もその善なる国に最大限の協力をした。相対するイラク・アフガンは、とにかく恐ろしく見えるように、枯れた不毛の荒野で練り歩く武装した男たちを繰り返し流し「悪」の印象をこれでもかとつけた。後に、当時アフガンに常駐し用水路を拓いていた中村哲先生の書籍を熱読し、当時の「現場の実態」と「政府の応対」を知った。

 当時、中学生だった私はこのプロパガンダ大旋風の風を直に浴びて思春期を過ごすことになったが、その後いったい何人の無罪のいのちが奪われたか。真実を知った私は「無力感」を覚え、その当時、長期間自責の念に苛まれた。なかったのだ、大量破壊兵器など。そして、大量殺戮を指揮した当事者らは、素知らぬ顔で安住の地・テキサスにて悠々自適な老後生活を送っている。一体彼らは悪魔以外の何に守られているというのだろう。残念なことに、それがこの青い星の現状である。悪魔・低級自然霊の巣窟。もはやこの星は為す術なしか

 話をワチンに戻すが、年が明けテレビのCMではまだ5回目を推奨する快挙を行っていた。唖然とした。これだけ被害者の会が日増しに拡大しているのにも関わらず、どこまでこの暴走ブルドーザーは縦横無尽に突進するつもりなのだろう。当時から色んなことが議論されていて、効能についての審議をしていたように思うが、そもそも、個人的にはそれ以前の問題ではなかろうかと考えていた。自分の実生活に当てはめてもそうなように、高らかに嘘をついてきた人間たち(たとえば現与党)の言うことを、そのまま信じることは極めて愚かなことであり、ある程度疑ってかかることは我々国民にとっては必要不可欠で当然の義務だったのではなかろうか。当然、政府の言うことなど全く信用ならないため、私はワクンについて己で慎重に審議することになった。すると、こうなった。


「「「全然経過を見ていないのに、何を根拠に安全と言える?いや、ない。それを推奨している医者たちは、一体なぜ堂々と断言できるのだろうか。科学の視点で捉えても大いに怪しい。HIVやマラリアでも明らかなように、ワチン開発はそんな簡単にできないはずだ。しかし、これだけ力強く安全性を唱える為には、よほどの論理的な根拠が必要なのではないか?厚生労働省のワクチンQ&Aには『接種後観察期間2ヶ月』と書かれてあったが、そんなもの絶対信用できない。どう考えても短すぎる。誰(医師)が何と言おうとだ。しばらくは冷静な観察が必要だ」」」


と、自問自答し、実践すべき事が浮かんできた。そもそも、私が思春期の頃、精神的に辛く通院していた頃、どの病院でも十中八九の医師が「世の中に絶対はないから、大丈夫とは言い切れない」と、必ずと言っていいほど逃げの言霊を用意ていたではないか。それが、どれだけの自信があるのかしらんが、一部の医師は接種の推奨を随分躍起になって行っている。強い矛盾を感じた。まるで、脅されているか、あるいは、何か褒美でももらえるかのようではないか

 私は数年間、政府が東日本大震災の際にとった応対を入念に精査し、なるほどこの国家は油断できないなと危惧を呈していたため、幾分冷静で流行初期のメィアのトラッシュ・トークには全然のらなかった。普通に一人で外食もしていた。リモートワークも全くせず、なるべく普通に暮らした。今も変わらず、淡々と生きている。私は今でもワチンは未接種であり、今までに1度感染したが、37.5度の熱が2日ほど出てすぐに平熱に戻った。23週間咳は残ったが、正直風邪との違いがなかったと言える(あくまで個人的主観ではあるが)。今後、更なるワチン被害者が増加することが懸念される。

 ただそうは言っても接種した人はもう仕方ないため、とにかく、これから先、この世を生きていくためには、今まで思考せずに上の指示にそのまま従ってきたとしても、これを機に、上の言うことに踊らされず、各々で思考し、哲学し、そして日常の実践に移す必要があることを自覚すべきだろう。個人的には、このような悪魔の巣窟=地球、で十分長生きすることが果たして「しあわせ」といえるかどうか甚だ疑問であるが、やはり、各々で「まことなるしあわせとは何か」ということを、我が身の思考と実践を通すことでしか、この先、生きる道はないと考え、私自身も、子どもたちのために出来ることを暗中模索し、これからも思考と実践を続けていくのみである。破滅へのワルツを踊らされる前に、まだまだやるべきことは山のように残っていると、決意した今日この頃である。


私の背には青い炎が静かに揺らめいている。


破滅へのワルツ~まるで砂時計のように~完