朝から降り始めた冷たい雨は、いつの間にか雪にかわっていた。
まだ積もり始めてはいない。でもこのまま降りつづければ、きっと帰るころには道路も一面真っ白になってしまうだろう。
教室の一番後ろ、窓側の席で白井一成は、大粒の雪が次々とコンクリートに落ちては、音もなくじわっと溶けて水になっていく様子を、ただぼんやりと見つめていた。
「白井、おい、白井。聞いてるのか?授業中だぞ。」
窓の外を眺めていた一成は、先生の声で、ふと現実に引き戻された。
「…続いて、問2。x軸のまわりの回転体の体積を求める問題、これも2学期の復習ですね。x軸周りの場合は、まずは場合分けが必要でしたね。xが正の範囲ではx=2√y、xが負の範囲ではx=-2√yとなりますから、……」
淡々とした解説が続いていく。
いつからか数学の授業はちんぷんかんぷんになってしまった。黒板の解説を書き写すのもめんどくさい。
それに、黒板の方に目を向けると嫌でも哲夫の席が目に入る。でもそこに黒柳哲夫、本人の姿はない。すっぽりと空いてしまった座席があるだけだ。
廊下側の前から3番目、宏美の席のほうに目をやると、宏美もまた、ばつの悪そうな面持ちで、哲夫のすっぽりと空いてしまった座席をただぼんやりと眺めているようだった。
『今日は、宏美と一緒に帰らず、一人で帰ろう』、と一成は思った。
昼休みが終わるころには、グラウンドはすっかり雪で覆われてしまった。こんな天気だから、昼休みだというのに誰一人として外に出ようとしない。
そのせいか、窓の外の静けさが嘘みたいに、教室の中は騒がしく感じた。
廊下もすっかり冷え込んでしまっている。誰かが教室のドアを開けようもんなら、ものすごい勢いで冷気が滑り込んでくるようだった。
受験に向けて3年生になると、理系・文系に分かれるだけでなく、選択した科目ごとにクラス編成して授業を行うようになる。午後は、通常の授業がなく、講堂で2年生全体での進路選択と科目選択のためのオリエンテーションの予定だ。
「そろそろ行く?今日オリエンテーションだよな?」
秀和の声でまた、ふと我に返った。
「ん?あぁ。そうだな。」
「一成、大丈夫?さっきの授業中もボーっとしてただろ?」
秀和が覗き込むようにして顔色をうかがってくる。
「いや、別に。
オリエンテーションって筆記用具だけ持ってけばいいよな?」
秀和の目線を避けるようにしてそう言いながら、机の中から筆記用具を取り出し講堂へ向かおうとしていると、担任の高崎先生がすぅっと教室に入ってきた。
「これから講堂で進路選択・科目選択の為のオリエンテーションなので、講堂に移動してもらいますが、その前に一つだけ、みんなにお知らせがあります。」
先生は教室に入るなりそう切り出した。
そうして、哲夫の話をはじめた。
先生の話によると、新年明けてから一度も登校していなかった黒柳哲夫は、実は昨年末つまり2学期の終わりで退学していたのだという。先生からは退学の理由については、詳しい話はなく、ただ家庭の事情とだけ伝えられた。
あとから聞いた風の噂では、哲夫の父親は小さな建設会社を経営していたが、次第に資金繰りが厳しくなり、二度の不渡りを出して倒産を余儀なくされたのだそうだ。父親は借金を苦に追い詰められ自殺。母親もすっかり憔悴しきってしまい、やむを得ず母親と哲夫と5歳年下の妹の3人で母親の実家である岩手県に身を寄せることになったのだという。
「では、筆記用具を持参して講堂に移動してください。」
先生がそう言って、話し終えると、みんないっせいに「家庭の事情ってなんだろうね…」とか「黒柳君って宏美のこと好きだったんだよね…」とか、好き好きに哲夫の噂話をしながら講堂へ向かっていった。
一成は集団からすこし距離を置いて、最後尾についていくようにして講堂へ移動した。講堂へ向かう廊下はとてつもなく冷え込んでいた。
身震いをして、「はぁっ」と小さくため息をつくと、吐き出した息は白い塊となって、そして跡形もなく消えて行った。
講堂について、クラスごとに着席したあとも、廊下ですっかり冷えてしまったせいか、まだ身震いが止まらなかった。外からはヒューヒューと風の音が響いている。窓の外に目を向けると、雪は勢いをさらに増して、風に乗り吹雪の様になっていた。
オリエンテーションが始まると、そろそろ進路について考える時期に来ていると、先生たちが語気を強める。来週末には3年生の先輩たちが受験するセンター試験がある。まだ遠い先のことのように思える大学受験も、もうあとわずか1年後に迫っているのだという憂鬱な気持ちが頭をもたげた。一方で、オリエンテーションの間中ずっと、哲夫のことが頭から離れなかった。まだどこかから、ひそひそと哲夫の話をしている声が聞こえてくる。
哲夫と出会ったのは、高校2年生でクラスが一緒になってからだ。哲夫と宏美と秀和と4人で過ごした1年間のことがつぎつぎに脳裏に浮かんでは消えて行った。