はじめに
この文章は私個人の体験のもと、簡単な生い立ちからアルコール依存症と言う病気になった事をつらつらと書き連ねただけのものである。何がどう、誰の参考になるかは分からないが、ある意味、今まで生きてきた事、感じた事をそのまま書いてみた。勿論、私は医者ではないので医学的見地はない。本当にただの体験記と思って読んでいただけたらと思う。そしてその感想は皆さんにお任せする事とする。
プロローグ
私は東京は浅草で生まれた。父は中学卒業とほぼ同時に東京へ上京。住み込みの「丁稚奉公」をしていた。戦争孤児である母も栃木県からの上京組で紡績会社の社員寮に住み込みで働いていた。そんな二人が出会ったのは道路を挟んでお互いの部屋が目の前だっただけだという。後に父親の会社の親方(社長)の計らいもあって結婚したらしい。その後、昭和三十九年十二月七日に私は生まれた。早産の未熟児で、「この子は半年持てばよいほうだ。」と医者の言われたそうで、それを聞いた祖父が「東京は空気が悪いから良いことはない。仕事は探しておくから帰ってくるように。」と父に申し付けた。私の様態が安定してから一家は父の実家である本家での居候から群馬での生活が始まった。若いときの父は気性が荒かったらしい。ちょっと気に入らないと星 一徹よろしく、「ちゃぶ台返し」を良くやったと母から聞いた。そして新しい物好きでステレオや洋楽のレコードセット、カラーテレビ、乗用車、そして極めつけは「かっこ良かったから。」と私にという口実のもと、エレクトーンまで買ってきた。もちろんお金など持っていくわけではなく、後から母がお金の工面に走らされたという。またその風貌が小林 明という芸能人に良く似ていたこともあり、女性にもてた。独身時代はギターを片手に酒場を廻り、流しの歌手を片手間にしながら小遣い稼ぎをしていたらしい。母と結婚してからも女遊びが絶えず、相手が親を連れてきたりして警察沙汰になったりと、かなり遊びまわり、母を泣かせたらしい。当然夫婦喧嘩が絶えず、仕舞いには母が「出て行く!。」と祖父に言いつけに行くと祖父が土下座をして詫びを入れ、何とか留まった、と母から何度か聞いた。そのうち五歳年下の妹が生まれたのだが、なかなか父の素行は収まらなかったらしい。幼い私にもその機嫌しだいでずいぶん暴力を振るったそうだ。私の顔には大きなあざがあるのだが、母の話によると、どうもその名残のようだ。仕事の帰りにパチンコ屋によることが良くあったのだが、負けて帰ってくると口も開かぬまま、まず私の胸倉をつかみ柔道よろしく投げつけることが多かったようだ。そのせいか、小学六年生くらいまでの記憶といえば、妹のオムツ換えと母の内職の手伝いくらいしか記憶にない。中学に上がると本格的に母の内職を手伝うようになり、父が庭に立てた小さな工場で足で蹴って金属を加工する蹴っ飛ばしプレスや電動のボール盤で穴あけ、バリ取りなんかもしていた。この頃から父は少しずつ大人しくなって来た様に思う。女性問題もほとんど聞かなくなったのもこの頃だ。実は父はお酒に弱い。瓶ビール一本で酔っ払う人なので、外でお酒を飲むことは会社の宴会くらいだった。私は父が担任と勝手に相談して決めた県立の工業高校の機械科に推薦の面接だけ受けて合格した。普段はゴルフ場のアルバイトをし、深夜まで私は家に帰らなくなった。日払いだったので朝に全額を渡し、何か必要があれば、父がいないところで出してもらっていた。その後、これまた推薦で工業大学に合格した。この時は願書を書いて送ったら、後日合格通知が届いたのでびっくりした。実はこの大学を三年終了時に中退することになる。父が仕事中にプレス機で両手に大怪我をして、五本の指を失った。そう母から連絡を受けた時、即座に「学校やめるから迎えに来てくれ。」と私は言った。それから多少の紆余曲折は合ったが、父が勤める会社に入社。その頃から職場での父の姿を見ていくうちに今までのわだかまりは薄くなっていった。しかしそれもあることがきっかけで崩壊することとなる。それが阪神淡路大地震だった。仲間と仕事の有給を使っては神戸に行く私に「自分の金を使ってまでそんなことをするのは偽善者だ。ああいうことは金持ちの道楽ですることだ。」と言い放った。その後も事あるごとに話し合いを試みたが距離は縮まらず、離れていくようだった。そしてもう一つ人生の大きな転機になるような事があった。六年ほど交際していた女性がいたのだが、交際が始まって三年目の春に彼女の父親が脳梗塞で倒れ半身不随になった。それからの数年はお互いにお金との戦いになっていった。我が家は親子で零細企業のサラリーマンだったので支えきれるはずはなく、それが原因で別れる事となった。その後、彼女は勤め先の社長の紹介で資産家の男性と結婚した。私はというとその経験がトラウマとなったようで中々女性とプライベートな関係になる事もなく未だ独身である。このようにいくつかの確執のような事も重なり次第に険悪な雰囲気は否めなくなっていった。しかしお互い大人だ。本気の喧嘩になればろくなことにはならないと思った私は、ちょうど頃合良く定年退職になった父と、妹の結婚式を見届けた後、胸のうちを打ち明けた。「もう一緒にいないほうが良い。いずれ喧嘩になる。そうなる前に俺が家を出る。」と告げた。父は「なら出て行け。その代わり、二度と敷居を跨がぬ様にな。」と言い残しパチンコをしにいった。次の日の明け方に家を出た私は、これが母との最後の別れになることを知る由もなかった。母の死はその四年後、つまり亡くなった二年後に風の便りで聞くこととなった。そうして家を出て、本州を一周、電車の旅をしながら最終的に大阪へたどり着いた。特に理由はない。なんとなく町を歩いたときの雰囲気が気に入った。只、それだけだった。
大阪で覚えたお酒
大阪に来てからは、請負、派遣業の会社に籍を置き、滋賀や香川のメーカーの工場へ勤めていた。友達はおろか一人の知り合いもいない。寂しさにかまけて酒を飲むようになった。元来、人付き合いが下手なので、いつも一人で近所のスナックに行くようになっていった。三十台半ばになると一度に焼酎のボトル一本をあけてしまう勢いで飲んだ事もあった。そんな事が四十代前半ばまで続いた。滋賀県に派遣されていた時、突然工場閉鎖になった時はショックでその気持ちもやり場もなく、とにかく酒を飲んだ。私の場合、決して楽しいお酒にはならなかった。常に欲求不満の捌け口であったに違いない。そしてとうとうその時がやってくることになる。
突然のめまい
11年前、当時勤めていた派遣会社の三重県の職場で就業中に軽いめまいを覚え、目の前の景色がうっすらと赤っぽく感じたような気がした。その後座り込んだように思うが、あまり記憶が定かではない。後で聞くところよるとすっと崩れるようにへたり込んだらしい。救急車で運ばれた事も暫く病院で医師や仕事関係の人たちからの質問に答えた事も覚えていない。二日ほどの入院の後、退院して会社の寮に戻ると待っていたのは、所属してる派遣会社の上司と解雇通告だった。入職条件に「高血圧不可」と謳ってあったので半ば覚悟はしていたが、面と向かって言われるとやはりショックだった。それから時間を頂いて部屋の片付けや荷物をまとめて二日後に寮を出た。
その日は電車に乗って大阪まで戻り、夜の到着だったのでとりあえずインターネットカフェに席を借りた。個室タイプのフラットな床の部屋だったので、横になって寝るには十分なスペースがあり、近くのコンビニエンスストアで購入した弁当とワンカップを片手に早速求人情報サイトで派遣の仕事を探した。明け方までメモを取りながら求人を探しているうちに眠気を覚え、少し横になって浅い眠りについた。目覚まし代わりのアラームで目が覚め、洗面所で身支度を整えて会計をし、店を出たのはちょうどサラリーマンの方々が出勤さなかの時間だった。手に持った求人の情報を頼りに目星をつけた派遣会社の近くまで歩こうとその歩を進めているときだった。確か大阪市役所を過ぎたあたりだったと思う。突然立ちくらみがひどくなり、歩くこともままならない。そのまま歩道の端の縁石に腰掛けて息を整えようとしたが一向に収まらない。そうこうしているうちに親切な市役所の職員の方が声を掛けて下さり、救急車を呼んでくれた。そのまま私は京橋にある病院と運び込まれ、そのまま入院することになった。
病気多数~生活保護受給へ
私は「狭心症」と「高血圧症」、「冠動脈閉塞症」、「多発性肝のう胞」ということだった。約四ヶ月の入院の間に大阪市の厚生相談所の方が幾度か見えられ、その時点で生活保護の扱いになっていることを聞かされた。二度目の面会で今後の相談となり、「あなたは今まで働いて税金を納めてきた人だ。こういう時は恥ずかしいと思わずに生活保護で生活基盤を作り直したほうが良い。」と居宅での生活保護の申請を勧めてくださった。おかげさまで「ホームレスにはならずに済んだ。」という安堵感に包まれた。と同時に納税をしていて良かったと(最も義務だが)心底思った。後に何度か相談員お方が面会にこられ、事はとんとん拍子に進んで退院の日取り、新しく住む部屋、そこから治療のために通う病院まで設定していただき、無事に退院をすることが出来た。「冠動脈閉塞症」に関してはカテーテル手術でかなり回復を期待出来るものだが、私の父や祖父から引き継いだらしい「麻酔薬が効かない」体質のおかげで未だに出来ないでいる。ついでに書くと歯の治療も出来ないので残り数本しか私は歯がない。
そして11年が過ぎ
それから11年の月日が流れた。病院には相変わらず診察と定期検査に伺い、投薬治療が続いていたが、あまり効果が感じられないことと、自宅で細々とやっていたパソコンでのアンケートサイト等での稼ぎがなかなか思うように増えないこともあり、去年の夏に区役所にお願いして軽作業の条件で就労支援の相談をした。程なくマンションの清掃の仕事が見つかり、毎日ではないが週二回の仕事を頂き、仕事に慣れるにつれてやりがいも覚え、勤務先の社長にお願いしてもう一軒担当するマンションを増やして頂き週五日の勤務までこぎつけた。この頃はまだ涼しいくらいの春先だったのでさほど苦にならなかったし、何よりも自分で稼ぐ分が増えたことに充実感すら覚え始めた。私は四十年を超える大の阪神タイガースファンで、一日の終わりにナイター中継を見ながら食事をし、晩酌をするのが何よりの楽しみだった。今年の夏は例年より厳しい暑さで、電気代がもったいないからとエアコンを使わない生活を続けていた私にはかなり過酷だった。そしてとうとう七月中旬のある日、仕事から帰宅途中、というより自宅マンションの前で突然のけいれんと手足が攣り始め、動けなくなってしまった。たまたま前を知り合いが通りかかり救急車でわずか五百メートル先のかかりつけ病院に運び込まれ、熱中症と診断された。もっとも最初の二日間は意識も朦朧としていたので良く覚えていない。会社には意識があるような無いような状態で連絡を入れてはおいたのだが、直々に社長から私の携帯電話に連絡があり、あえなく解雇となってしまった。あれから11年も経っているのにこの様か、と思うとひとりでに泣けてきた。
気晴らしのはずが
熱中症で倒れて以来、日に日に食欲は落ち、ジーンズもゆるくなっていった。さほど気にしていなかったのは自宅が四十度を越える部屋で過ごしているので汗を大量にかくからだ、と勝手に解釈をしていた。それから暫くして阪神タイガースファンのお仲間から「東京ドームの巨人戦のチケットがあるから気晴らしにおいで。」の一言で格安の高速バスのチケットを調達し、ほいほいと高速バスに乗り込んでいざ東京へと向かった。朝早くの便に乗り込んで途中何箇所かの停留所や休憩のためのサービスエリアに寄りながら、約七時間半の旅である。東京駅八重洲口の終着点についた頃には尻も痛くなりはしたが、ルンルン気分で席を立ち自分が降りる順番が来るのを待ち、ぞろぞろ降車していく人々の列に隙間が出来た頃を見計らって通路に出た。ここから先の記憶はない。気がついた時、私は見覚えのない病院の処置室らしいところのベッドの上で何本もの点滴らしきものに繋がれていた。辺りを見回した私に医師が気づき、「もう大丈夫。戻った。」と一言発し、看護師らしき人に多数の指示を出して忙しそうに隣のベッドの方の治療に取り掛かっていった。後で伺ったところによると、バスの真ん中の通路に出てすぐに両脚を投げ出すように後ろへ頭から倒れたらしい。特に後頭部にタンコブが出来ていたのでそこを打ったようだ。そのまま意識を失い救急車で近くの救急病院である東京医科歯科大学付属病院に運ばれた、という事だった。私が意識を取り戻すまでに約二時間以上かかったようでそれからまたいろいろな検査ややチェックを受け、「もうお帰りになってもいいですよ。」と言われたのは午前零時を廻った頃だった。途方にくれる私に「お待ち合わせになった方がいたようでしたが、こちらで治療が必要と説明してお引取り頂きましたので、後で連絡してあげてください。もしお泊りならこの近くにインターネットカフェがありますからお教えします。どちらにせよ、地元に戻られてかかりつけのお医者さんに再度診てもらって下さい。」と言い、簡単な地図を書いてくださり、せかされるように病院を後にしてインターネットカフェへと向かい軽い眠りについた。四時間ほどの眠りの後に目覚めた私は「とりあえず大阪へ戻ったほうが良いな。」と思い山手線の御茶ノ水駅に行き始発の電車に乗り込んだ。ところが最初の一駅目でめまいがし始め、脂汗がじっとりと出始めた。二駅目でとうとう我慢が出来ずに電車を降り、そばのベンチに座り込んで賢明に息を整えた。電車を二本ほどやり過ごした後に再び目の前に現れた電車に乗り、「次は東京駅だから大丈夫。」と自分に言い聞かせながら東京駅への到着を心待ちにした。東京駅に滑り込んだ電車のドアが開き、聞き覚えのある発車メロディーが聞こえてきたところでまた私の記憶はなくなっている。気がつくとベンチに座らされ親切な駅員さんたちに囲まれて「お客様大丈夫ですか?。すぐに救急車が到着しますのでお気を確かに。」と私を励ましていた。まもなく到着した救急隊員が私を担架に移し、救急車のストレッチャーへと移し変え、再び元の病院へ戻ることとなった。暫くボーっとした意識の中、昨夜と同じように何本もの注射と点滴を受け「早く大阪へお戻りくださいね。」の一言と共にまたもや朝の東京へ送り出された。大怪我、重篤者を除けば処置の終わった患者は一刻も早く返す、どうやら救命救急というところはそういう所らしい。「今度こそは大阪へ帰るぞ。」と言う弱々しい決意と足取りで御茶ノ水駅は目指さずにタクシーに乗り込んで東京駅バスターミナルへと向かった。先にも書いたが、私は東京は浅草生まれ、途中から父の実家のある群馬県で育ったので東京も大体の土地勘はある。もう通勤時間に突入した東京の山手線にこの状態で乗り込むことは自殺行為に等しい、と判断しての事だった。無事、東京駅のバスターミナルに到着し、幸いなことに発車まで四十分弱という高速バスのチケットを幸運にも手に入れることが出来、この上なくホッとしたのを覚えている。駅中の売店で匂いにしにくいサンドイッチやおにぎり、ペットボトルのお茶を買い込み無事に東京を後にすることが出来た。もちろん往路と同じような工程を経て無事に大阪駅のバスターミナルに到着したのは夕刻迫る午後六時。バスを、今度は慎重に足元を確かめながら降車し、JR京都線に乗り込んで三駅ほどの新大阪駅へと無事到着。駅を出ても普段と違い、とにかく慎重に歩きながら我が家を目指し、何とか我が家の扉を開くことが出来た。その夜は疲れもあってかぐっすりと寝た。
嫌な予感
あくる朝、珍しく日がだいぶ昇った午前八時過ぎに目が覚めた。普段はよほど体調が優れないとき意外は午前四時半にきっかりと目が覚め、大阪読売テレビの「朝生ワイド す・またん」の放送開始を待つ(最も録画もしているが)。やはり好きな番組は生放送で見ないと何か損をしたような気持ちに成るものだが、その朝は仕方なく録画を見た。しかし番組には集中できず、昨日までの事を振り返りながらふとあることに気がついた。この三日間くらいトイレに行っていなかったのだ。もちろんその時点ではもよおす気配もない。「結構水分は取っていたのにな。」。不思議な思いと同時に東京で「地元のかかりつけのお医者さんに診てもらいなさい。」の言葉が脳裏をよぎった。しかしその日にはどうしても区役所に行き、所得申請等の月例の書類を提出しなければならなかった。食欲がなかったので朝食は取りやめにして、区役所に持参する書類をチェックし、身支度を整えて私は区役所へと向かった。いつも通りの手順で一通りの手続きをし、担当ケースワーカーさんと面会。そこで今回の顛末を報告すると、彼は珍しく「う~ん。」と唸った後に「このまま少しお待ちください。」とだけ言い残し上司の席へと向かった。彼は暫く上司と話しをひとしきりして、私の元へ戻ると「二番の相談室へどうぞ。」と私を促した。厭な予感がして鳥肌が立った。相談室に入る席に着くと彼は開口一番「入院しましょう、この際だから。実は最近あなたが少しずつやせていくような気がしていたんですよ。この間の熱中症のことで、その性と思い込んでいましたが、根本的に何かが違うような気がします。とりあえずこれからかかりつけの病院にいって検査を受けてください。こちらから連絡を入れておきますので、この足で行って頂いたら良い。結果が出たらそれを持ってもう一度こちらまでそれを持ってきてください。」と言い残し、別の仕事へ戻っていった。私は彼に言われるがまま、かかりつけの病院へ赴き、いつも定期検査で受けているような検査を受け、しばし待ち時間を過ごして受け取った検査表を受け取って区役所へと引き返した。そして担当ケースワーカーがそれを手にどこかへ電話を始めた。暫く話し込んだ後にまた私と相談室へと入り、こう切り出した。「今日はお帰りになってお休みください。明日、またここへ来てください。そのまま病院へご案内して入院していただきます。私は医者ではないのでうまく言えませんが、今までとは違うような気がして仕方がないんですよ。あなたは体調の割にはオーバーワーク気味のようでしたしね。」そういって一枚の印刷物を手渡した。そこには歯ブラシ等をはじめとする生活用品がびっしりと書かれていた。「これを持って明日の午前十一時にいらしてください。私が同行しますから。」と言い、私を見送った。実はこのとき、私は血液検査等のデータを見ても無知なので何もわかっていなかった。言われるままに翌日の午前十一時に区役所で落ち合い、「今日は申し訳ないけれど時間がタイトなので少し早足でお願いします。」と私に言った。それから電車を乗り継ぎ、バスに乗り換え、バス停から仕舞いに走り出して何とか病院側が指定したらしい時間内に私たちは金岡中央病院の受付窓口にたどり着いた。
そして入院
病院に着いたとき、私はもうへとへとに疲れきっていた。察した病院の方が「それでは先に検査を済ませてしまいましょう。その間にケースワーカーに出来るところは代筆で手続きをしていただいておきます。」と言い、私を車椅子に乗せ各検査室を廻り何とか検査を終わらせた。その後、診察室にケースワーカーと一緒に入り、前もって渡しておいた、かかりつけの病院のデータを見ながら私の担当主治医になる医師は「相当肝臓にきていますねぇ。肝炎でしょう。それに血圧も高すぎるようです。これは完全にアルコール中毒にの数値ですね。つまり、アルコール依存症です。こちらでゆっくり養生してください。お酒はもうやめましょう!。がんばりましょうね!。」と力強くおっしゃった。主治医の話を聞きながら私の頭の中は「え?っ、それってアル中っていうこと?。」とその思いだけが頭のなかをぐるぐると廻りだした。かなりのショックだった。その後、再び受付で持ち物検査を経て無事入院となり、ここで同行して頂いたケースワーカーと別れた。そしていよいよこれから始まる入院生活を送るはずの病棟へと案内された。まずは病室へと案内された。ナースステーションのすぐ横で入り口のドアとは別にナースステーションから直接入室できる扉もある。ガラスがはめられているので、ナースステーションから直接診ていられる構造となっている。後で聞いたのだが入院直後は様子を見るために、まずはここへの入室となるらしい。私は経験がないが、お酒の飲みすぎでスリップとかブラックアウトとか言う専門用語の現象が起きる人もいるらしい。そういった意味合いでの保護室のようなものと思われる。入室して着替えた後、検尿のための紙コップが手渡され、尿を採って下さいと言われた。過去に何度も経験があることなので特別驚くこともないが、ここで次なるショックに襲われた。何とか搾り出したそのその尿の色はこれまでに見たことのない、まるでコカコーラのような色合いだった。ここではじめて「ああ、私はとうとうアルコール中毒患者、アルコール依存症になってしまったのだ。酒を飲みすぎて罰が当たった。」と確信し、とてつもないショックを受けた。それを提出した後、病室に戻っても、そのことが頭の中をぐるぐると回り続けて、点滴をしながら看護師さんから説明を受けてもすべてが上の空だった。
入院生活の日々
それから八日間の間、同じ病室で過ごした。一応四人部屋なのだが、他の部屋に余裕がある性かその病室にはずっと一人でいた。食事は本来食道へ行って頂くのだが、最初の一週間は部屋まで運んできてくれたのでほとんどの時間を病室で過ごした。ただ病院にしては今時珍しく喫煙室があり、タバコを吸いたくなるとそこへ行って他の入院患者たちと談笑も出来た。それが私にとっては精神的な救いになった。そして一週間が過ぎたときの昼食から食道へ行くようになった。最初の一週間が過ぎると出来ることが増える。まずは外出が出来るようになる。そしてその後また一週間を無事に経過すると外泊の許可も出る。もちろん事前に申請が必要だが、たとえば断酒会に行ったり、自宅に戻ったりと自由度はさらに増す。外泊も一回目は一泊のみだが、それ以降は二泊三日まで許される。一ヶ月に外泊は合計七日まで可能だと聞いた。食事の内容は献立表があるのだが、私は見ることはない。なぜなら私は歯が殆ど無いので通常の食事ではく、刻んだりすりつぶしたりしてある、いわゆる軟食と言うメニューだからだ。正直どれを見てもそう大差は無い感じで、食べてみたら「ああ、今日は肉が入っているな。」とか「今日はお魚さんだ」とか言う感じだ。それはそれで味付けは病院らしく薄味ではあるが、なかなか美味しく頂けるものだ。中には自前で醤油やら何やら色々な調味料の類のものを持ち込む方もいらっしゃるが、私はそもそも薄いくらいの味付けのほうが好みであるし、高血圧症もあるので普段から塩分には気を遣ってきた。「あの人たち、大丈夫なのかなぁ。」なんて思いながら見ていた。九日目になって同じ階の別の部屋に移ることとなった。たまたま私より少しだけ若い男性と相部屋になることになった。この方はこれもたまたま同じ日に入院したそうで、他人とは思えなくなった。新しい病室は四人部屋で、最初はもう一人いて三人だったのだが、すぐに退院となりすぐに二人だけになった。その後はたまにお天気が良いと散歩に行ったり買い物に行ったりして過ごしていた。週に幾度か院内で(主に食道で)グループミーティングや基礎講座、レクチャーなどの院内講義があり、それぞれの体験談を話したり、退院した先輩方の話を聞いたり、後に出てくる断酒会の方々が来院して体験談の披露があったりと、結構な頻度で集まりがある。農業体験や運動関係は殆ど希望者の参加になっているが、それ以外は必須で必ず出席しなければならない。これも治療のカリキュラムだからだ。時々、体験談の発表を求められ、最初は緊張したが、次第に慣れていった。
断酒会について
ここに出てきた断酒会について、簡単な説明をしておこうと思う。断酒会とは1958年、アメリカのA・A「アルコホーリクス・アノニマス」を参考に「高知県断酒新生会」を結成した事を始まりとする会である。断酒会ではアルコール依存症等の酒害者が飲酒の問題について経験を分かち合い、「その時だけは飲酒をせずにいられた。」と言う成功体験から広がって行った互助団体である。断酒会の統括組織として「公益法人全日本断酒連盟」がある。
断酒会では酒害からの回復のために「例会」を行う。「例会」は各断酒会が日時を設定して「例会」を開く。参加者は各断酒会の会員と他の断酒会の会員である。「例会」は司会者の下、約2時間の酒害体験を話し、それを聴く。家族が参加する場合もある。一般の「例会」のほか、テーマ別の「例会」も開かれている。
- 家族会(酒害者の家族)
- シングル(配偶者を持たない酒害者)
- アメシスト(女性酒害者)
- 虹の会(身体障害を持つ酒害者)
計画
私は今回の入院に当たってひとつの計画を企てた。とはいっても入院初期のころの暇に任せて色々と今後ののことを考えたうえで頭に浮かんだ計画だ。それが「引越し」だ。特に点滴をしている時間はこの上なく有意義な時間になった。過去を振り返って大いに反省もした。そんな中、今までの環境についても考えた。これまで約五年間住んできたマンションの中に七つの飲食店があり、歩いていける範囲にも相当数の飲食店がある。五年も同じところに住んでいるとそれなりに食事をしたりして顔だけは知っている方々もいる。タバコを買いに、あるいはスーパーへ買い物に行った時に時々声をかけられるようにはなっていた。そうなるとお店でお酒を飲む機会もおのずと増えていた。もちろんこの環境が悪いというわけではないが、お誘いには弱くなっていたのも事実。そこで引越しをして環境と心構えを変えようという寸法だ。とは言え、引越しなんて早々簡単にできることではない。まずは区役所の担当ケースワーカーさんに丁寧に相談して数回の電話での相談で承諾を得た。そして不動産屋にこれまた電話連絡でその旨を通告。外出二回で最低限の着替えや荷物を運び出して部屋の現状を写真にとって不動産屋へ送った。後に再度不動産屋と相談して最終的な引渡し期限、部屋の鍵のことや荷物、それも主に家具類の処分等の話をまとめた。その後不動産屋が作ってくれた退去通告書に最終的に私自身がサインをして区役所に提出することで「退去」の分は書面上は片がつくことになった。問題は新居だ。今回は自己理由による転居ということになるので、引越し代は区役所からの援助はまったくない。もちろん新居の初期費用も然りだ。インターネットで目星をつけた不動産屋に電話をし、実際に会ってみることにした。ここで初めての外泊(一泊)となり、ナースステーションに外泊申請書を書いて提出したのだが、いともあっさりと許可が出たので少し拍子抜けした、というところが本音だ。外泊初日は予定していた担当ケースワーカーさんとの面会が、彼の家のご不幸で流れとなり、仕方なく梅田の町を散策してみた。われながら無謀な事をしたものだと後で思ったが、梅田といえば「呑ん兵衛」の町でもある。そんなところを一人で、しかもアルコール中毒患者がうろつくなんて本来なら危険極まりない行為だ。しかし不思議なもので、私の頭の中に「只今、アル中につき入院中」という意識があったのか、たまに寄っていた店を行き過す程お酒への意識はなかった。後で看護師さんにそのことを言うと「ずいぶん危ない事をしましたねえ。」と呆れられた。その日は梅田のど真ん中にあるインターネットカフェで「一泊」する事とし、久しぶりのパソコンで色々やりたい事をして楽しんだ。翌朝、目が覚めると洗面所で顔を洗い、髭を剃り、身支度を整えた後に店を出た。不動産屋さんとの待ち合わせ身はまだ時間があったので、通りすがりの100円ショップで朝食のお供の瓶詰めの岩海苔を数個買い、JR線で新大阪駅へと向かい、待ち合わせ場所である駅近くの日生ビルの横の公園で待つこととした。携帯灰皿片手のタバコを吸っていると、まもなく明るい表情の営業マンが表れた。彼に即されまずは車で不動産屋のお店に向かった。よく街中で見るような印象の不動産店で一抹の不安を覚えたが、説明を聞いていくうちに少し安心できた。いくつか前もって準備しておいてくれた案件を見ながら私から「場所はどこのエリア、初期費用はこのくらいが限度」などと条件を伝え、最終的に二つの物件に絞り込んで実際に見に行くこととなった。二つとも悪くはない物件だったのだが、最終的には「初期費用」で決定した。その後もう一度お店に戻り仮の契約書を作成して、その日は電車で病院へと戻った。少し心の中の霧が晴れていくように感じた。病院に戻ってからは何度も書類を読み返し、妄想もしながら次の展開を考えていった。まずは前のマンションの正式な解約だ。郵送で必要な書類を送って頂き、記入して前の不動産屋に送り返し、何とか無事に手続きが完了した。入院中の身であるので部屋の清掃や不用品の処分は業者にお願いした。すべてが片付いたのはすでに十一月の中旬になっていた。それから幾度となく外出許可を取りながら不動産屋へ行ったり、また区役所へも何度となく通って少しずつ事を進めていった。そしていろいろな事柄の日程を決めたりしていったのだが、「保証人」は大分手こずった。長い間、関西圏で生活しては来たが、人付き合いが下手なので「友達」というものがいない。名前、住所、電話番号をセットで知っている知り合いもおらず、困り果てた末にある電話番号をダイヤルした。それが実家だった。恐る恐る呼び出し音を聞いていると「父」が出た。心臓が口から出る思いをしながら、しかし平静を装いながら事の顛末を話した。「父」とは言え二十三年も音沙汰なしで来たのだから「二つ返事」というわけには行かなかった。「なぜいい年した男が部屋を借りるのに保証人が要るんだ?。」とか「大体部屋を借りるのになぜ不動産屋なんだ。大家に頼めば済むだろう。」とか、大昔の長屋か借家を借りるような事を言い出した。普通、「一から十まで~」という言い方をするが、今回は「一から百まで~」の勢いで質問攻めにあった。当然一度の電話では良い返事は得られず、四枚の携帯電話用プリペイドカードを消費しきる頃に「OK]を頂いた。つまりこの「OK]のために一万二千円かかったことになる。しかしこれも自分の責任とあきらめるしかなかった。何せ、「二十三年放ったらかした親子関係」だから致し方ない。それより保証人を得られた「安堵感」の方が余程大きかった。それからは比較的とんとん拍子で事が進んでいった。担当医にも説明し、十二月四日の退院が決まった。これまで書いた事だけを読むと、まるで入院中に引越しの為だけに奔走してきたかのように感じるかもしれない。しかしこの間にも「基礎講座」、「グループミーティング」、「レクチャー」、「昼例会」、「夜例会」、「AAメッセージ」、「大阪MACメッセージ」等の集会が度々あり、これらは治療の一部でもあるので患者は必須参加であり、もちろん私もすべて参加してきた。また外部に赴いての例会や断酒会などもありそちらにも参加ができる。私は外部の「昼例会」は二度ほど参加したが、やはり「引越し」に関することが優先となってしまい、夜間の「断酒会」への参加は出来なかった。私が入院している病院は堺市にあり、これから引っ越す予定のマンションは大阪市淀川区にあることにも起因する。調べたところ、淀川区にも二つの「断酒会」があり、どちらも引越し先に程近い会場で行われていることがわかった。言い訳と思われるかもしれないが、最初から家の近くで参加したいと思ったからだ。またこれらの内容については一切触れていないが、「言いっ放し、聞きっぱなし」という会の性質上、書かない方が良いと思った。しかし私なりに共感したり勉強になったことがたくさんあった。
引越しと転院
今回の退院に伴って病院も変わることになった。入院していた金岡中央病院では通院が困難なためだ。生活保護を受給しているため、転居先にはどうしても制約がある。そこで今までと同じ淀川区内で物件を探してきたわけだが、心優しい不動産屋さんのおかげでどうにか希望に近い物件を探し当てた。それまで入院していた病院から紹介されたにじクリニックのすぐ近くで近所にスーパーやコンビニ、地下鉄の駅、銀行と、生活に必要な施設がほとんどそろっている。強いて言えば区役所まで徒歩二十分というところが難点だが、およそ余程の事が無い限り月一回行く位なので目をつぶることとした。病院からの退院ということで新しい部屋に持ち込んだ物は数少ない。と言うより物が無かった。鞄二つに詰め込んだ衣類とあらかじめ宅配便に配達をお願いした段ボール箱一つだけである。そう、布団すらなかったのだ。病院の退院手続きを済ませた私は鞄二つを抱えて地下鉄に乗り、新しい部屋の最寄り駅まで移動し、駅前にある不動産屋に立ち寄って部屋の鍵を受け取りそのまま新居へと向かった。徒歩十分ほどで新居となる部屋に到着し、一息ついているとタイミングよく宅配便の段ボール箱も到着。これで一人での引っ越しが完了したわけだ。その日は近所のスーパーで弁当と飲み物を購入して腹ごしらえをし、ゴミ捨て場に捨ててあった段ボールを数枚調達して仮の寝床とすることとなった。何せ転居費用が精いっぱいで布団まですぐには手が回らなかったのだ。およそ一ヶ月間、その厚く敷いた段ボールで寝ることになった。幸いなことに新居にはセントラルヒーティングなるものが設置されていて暖を取るには十分だった。ただやはり、段ボールの布団の寝心地はお世辞にも良いとは言えなかった。次の日には荷物の片づけをして近所を散策。新しく通うことになったクリニックの場所も確かめて部屋に戻り、これからの事を缶コーヒーを片手にあれこれと想像をめぐらした。引っ越しから二日後、新しいにじクリニックへ初めて行った。予約の時間が決まっていたので五分ほど早めに到着。受付を済ませて待っているとほどなく名前を呼ばれ小さな部屋に通された。そこにいたのは医師ではなく恐らくスタッフだったと思う。簡単なカウンセリングを受けてまた待合室に戻り、再び待っていると館内放送で診察室へと案内された。白衣を着た少し男前な医師がにこりとした笑顔で迎えてくれた。簡単な質問に答えてからこれからの治療方針や服用する薬のことなどの説明を受け、その日の受診は終わった。それから毎週金曜日に受診することとなり、家路についた。帰りにスーパーで食料品を調達した際にアルコール飲料の棚をふと見つけた時、「もうこのコーナーには用が無くなったのだな。」と少し寂しさを覚えたのは正直な気持ちだった。
デイケア「のぞみ」への通所
それから暫くは何事も無く過ぎていった。変わった事と言えばそれまでの区役所の担当ケースワーカーが変わった事くらいだ。と言っても新しく担当になった方は以前にも私の担当をしていた方で面識があり、担当変更の連絡後、程なく私の済むマンションの前でばったり出会って挨拶を交わしたが、それきりお会いする事はなかった。と言うのもそれから三ヶ月後の四月一日でまた新しい担当ケースワーカーに変更と連絡があったからだ。連絡があってからはこちらから一方的に月初めに収入申告書を提出するために私が区役所に訪問し、新しい女性の担当ケースワーカーと対面した。彼女が家庭訪問で私の部屋を訪れたのは約三ヶ月の月日が過ぎてからの事だった。その間も日々に変化はなく、通院を重ねてきた。時に薬を代えたりしながら血圧や体調と相談しながらの日々だった。四月になった頃、いつものように診察に訪れたときに医師から「この上にデイケアがあります。アルコール依存症の方のためのプログラムに参加してみませんか?。」と案内された。前の病院を退院してからと言うものの、断酒会にもなんとなく行かずにいた。またあの雰囲気を味わうのかと思うと足が向かなかったのだ。しかしせっかくのお誘いだし、聞くと断酒会とは違いもっとゆるい感じの集まりだと言う。少し生活に飽きを感じ始めていたので参加する事にした。まずは指定の日にデイケア「のぞみ」自体の案内を受けた。デイケアのスタッフが出迎えてくれて施設に中の案内をしてくれた。そして「グラデーション・アーチ」と言う名のアルコール依存症患者専用の(参加するには主治医の許可が必要)プログラムへの参加をお約束しその日は帰宅した。迎えた木曜日の午後にデイケアに行き、いよいよグラデーション・アーチへ参加した。最初に会のルールの説明があること、またその内容は殆どそれまで前の病院での断酒会のそれと変わりはなかった。只こちらではまず始めに担当スタッフによるその日のテーマに沿ったレクチャーがあり、その後参加者による発言と続く事になる。参加者の発言にも毎回テーマがあり大体それに沿って発言するのだが、そのとき思いついた事や話したかった事を話しても良いとのことだった。私の感触では以前体験した断酒会よりずっと開放的で過しやすい時間であった。なぜか自分の居場所が一つ増えた気がして嬉しかった。そうこうしてグラデーション・アーチに通っていくうちに他のスタッフとも会話をするようになり、グラデーション・アーチ以外のプログラムにも誘われるようになった。それからは週2~3回はデイケアに通所していた。またそこに通っている他の方々(メンバーさんと呼ぶ)とも少しずつ挨拶から会話をするようになってきた。私にとってデイケアは少し居心地の良い場所へと変わって行った。診察ごとに細かな医師のケアもあってか体調も少しずつ良い方向へ向かってきた。一番の懸案だった高血圧症も徐々に下がる方向で安定し始め、最近は血圧を下げる薬を飲まなくても正常な値で安定してきた。そんな事から医師やデイケアのスタッフと相談しながら就労の意思を伝え、今の私に何が出来るかを考えるようになった。勿論、昔のように工場等での肉体労働は無理に決まっている。デイケアの就労支援の担当も決まり、色々と相談に乗って頂いた。
初めて知った就労支援
就労支援と一言で言ってもいろいろなケースがある。私もこの説明を受けて初めて知ったことが多かった。大まかに分けると
・一般企業への就職:これはその名の通り、普通の企業に社員、 あるいは契約社員等の普通の就職。
・就労移行支援:こちらは直接就職活動をするのではなく、まずは多数ある就労移行支援事業所に通いながらビジネスマナーやパソコンのスキルなどを身に着けて行って、最終的にハロー枠等を経由して就職先を探すというシステム。学費は掛からないが昼食代はほとんどの所は実費で支出する事になる。ただしこちらはいつまでも参加出来る訳では無く、基本2年間である。何か特別な事情があるときは延長も認められる。この辺の事は各事業所に問い合わせてみた方が良いと思う。
・就労支援A型:こちらは就労支援事業者の運営する作業所の事である。作業所に通いながら体調を考慮して自身に合った通い方が出来る。A型の場合、その日の都合で休むとかはあまり自由がないようだ。ただし、工賃(お給料みたいなもの)は労働基準法で定められた最低賃金が支払われるようだ。
・就労支援B型:こちらも就労支援事業者が運営する作業所である。A型と違うのは利用者の都合に合わせられるところだと思う。特に身体障碍、精神障害を抱えている方が多く、その人に合わせた働き方が出来るという事が魅力だ。また、個人の事情に合わせて在宅勤務も出来る。
以上、簡単な説明を書かせていただいたが、生活保護受給者以外の方も受けられるものと聞いている。
私の場合、アルコール依存症、小脳梗塞、冠静脈閉そく症、多発性肝のう胞などいくつもの疾病を抱えている。故に一般的な拘束時間の仕事をする体力がない。悩んだ末選んだのは就労支援B型だ。甘えに感じる方もいらっしゃるだろうが、精一杯頑張ってもこの程度の体力なのだ。
実際の体験ばなし
まず選んだのが吹田市にある「フレイ」という事業所だ。見学に行って後に指定された日に実際に働いてみて決める事になる。ここはインターネットで様々なエプロンを販売している事業所だった。私が行った作業は主にピッキングに作業である。そこまでは良かったのだが、始まったばかりの事業所で、契約時の条件と2日目には変更が加えられた。通い始めは自宅前までワゴン車で迎えに来てくれる事と、朝食代が無料だった。それが出勤は自分で地下鉄に乗り通わなければならなくなると言われ、交通費は自分持ちだという。それに昼食代も自分持ちになった。確か1日(午前10時~午後2時)の工賃が150円だったと思うので、地下鉄代が往復560円と昼食代は持ち出しになる。つまり、およそ800円位の経費をかけて150円の収入では大赤字だ。そこで私は3日で見切りをつけて「退職願い」を提出した。
次に選んだ作業所は通っていたデイケアの情報でいちょうブックスという事業所(B型)だった。Amazonへの中古書籍の販売、100円ショップで販売しているおかずカップの組み立てなどの作業や外部の確か老人ホームみたいな所の清掃作業など行っていた。また喫茶部があり、昼食の提供や喫茶なども行っていた。喫茶部は後に別店舗に移転となり、利用者さんがお弁当を作っていたようだ。そちらは主に社長と社長の娘が営業していた。私が任されていたには主に作業所内の床の清掃やちょううこ自転車の修理など他の利用者さんがやらない作業も多々あった。この作業所の良い所は工賃と専門で雇っている調理師による昼食だ。通い始めたころは午前9時半~午後3時までの間の時間内で2時間以上働けば1日当たり1.000円の工賃が頂ける。そして手作りの昼食は無料だ。コロナウイルスの騒ぎが始まってからは午前と午後の部に分かれて作業を行うようになった。午前部は午前9時半から言い時半まで作業を行い昼食を食べて帰宅する。午後の部の人は午後12時に出勤して昼食を食べ、旧k理の後作業を午後3時まで行う、十いうパターンに代わった。このシフトになってから工賃が1日1.050円になった。作業自体は苦にならなかったし、条件も淀川区内では一番良かったと思う。およそ2年半通ったのだが、私の喫煙を咎められることが多かった。勿論勤務中はタバコは吸わない。しかし非喫煙者ばかりのスタッフからは「タバコをやめなさい。」と言われ続けた。ある日の朝、出勤するなり「タバコ臭い人が来ましたよ~!。」と言いふらしながら作業所内を闊歩したスタッフがいた。私はその場で決心をし、社長宛にメールで事情を説明し、止めることを決意した。月末が工賃の支払日だったのでその日に合わせて前もって「退職願い」を提出して置き、工賃を頂いて退職となった。私が退職すると聞いて社長がわざえあざお別れの挨拶にいらしてくれたのは嬉しかった。
デイケアとの決別
この頃デイケアの方はというと若者やご年配の方々がグループ化していて、本当はいけないことなのだがLINEで繋がりを持ってスタッフの知らないところで食事に行ったりしていた。私も一時、若い人たちのグループとプライベートな繫がりを持った時期があったが、誰かの悪口をグループチャットで言い合っているのには閉口したし、私もその標的にされた。いわゆる欠席裁判のようなものだ。それを色々な方から聞かされるものだからデイケアからは足が遠のいていった。そんな頃、割と評判の良い「ユア・ライフ」と言う作業所を同じデイケアの方から紹介された。前の作業所を退職したのが3月末でそこからいろいろ自分なりに探していたのだが、中々見つからなかったものだからさっそく電話を入れ面接の予約を頂いた。私の家からも近いし、デイケアにも辟易としていたものだから私なりに計画を立てた。まずは新しい作業所の面接を受け、翌日に体験実習をし、気に入ったのでその場で契約書を書いた。翌週の月曜日から勤務するようになり、体力が持つ事を確かめて事を起こす事にした。新しい作業所は基本的に月曜日~金曜日の週5日制で勤務時間は午前10時から午後3時までで時給200円である。今までなら前出の「グラデーション・アーチ」と診察のために木曜日の午後は空けてあった。しかしせっかく良い作業所を見つけたのだから木曜日の時間がもったいない。そこで前もって区役所の福祉健康課の担当ケースワーカーと相談をし、通える範囲にある(区役所の前)にあるクリニックを教えて頂いておいてそれまで通っていたクリニックに「転院届」を提出し、前もって用意しておいた区役所への書類等もすべて提出、許可を得たうえで転院をした。これで忌まわしい「デイケア」も除籍となりとても気持ちが楽になった。
これから
今はおかげさまで毎日作業所に通い、規則正しい生活を送れている。アルコールも4年以上呑まずにいられている。勤務時間も私にちょうど良い感じで体も少し楽になった。訪問看護師やホームヘルパーも使わせていただけることになり、いろいろ相談も聞いて頂ける。時には食生活や体調面の指導もして頂ける。作業所でいろいろな作業を覚えて、今ではほとんどの作業も頼まれるようになった。これからも今の新しい作業所に通うつもりでいる。良く「石の上にも3年」という言葉がある。まずはこれを目指して行きたい。
最後に
アルコール依存症とは怖い病気だ。脳に作用し、肝臓に大きなダメージを与える。一度この病気になると生涯完治する事は無いと言われている。WHO(世界保健機関)でも認められている依存症の1つだ。これと私は生涯をかけて戦わなければならない。そして、この世を去る時に初めてこの戦いは終わる。そこにあるのは永遠の「ボ・ルドール)金杯」を目指して。